一次創作のはなし

 一次創作を最初にやろうと思ったきっかけはコロナ禍です。
 2020年2月のあたりに職場では支店の閉所による引越しで派遣さんやバイトさんなんかも来てもらって大人数での作業をぜんぜんマスクなしでしていたので、おそらくその頃はまだこれまでどおりの雰囲気でした。たぶん春頃かな?私は大変忘れっぽくだいたいのことは事実をたぶんこうだろうというおぼろ記憶で補填しがちなのでちょっと定かではないんですが、4月か5月あたりで人員削減で勤務を減らされたと思います。それによってかなりの空き時間が生まれ、その頃はツイッターもpixivもバリバリ更新していたので、もともと暇さえあれば何か描いていたのがよけいにハイペースな生産速度になってしまったんですね。

 そうなると何が起こるかというと、タイムラインに自分の絵ばかりが流れる状況になってしまって、今考えれば気にしすぎのようにも思えるんですが自分が更新しすぎてうざいやつのように思えてきちゃうんです。当時は居たジャンル上、彼岸島とFate関係のフォロワーさんが多かったと思うんですが、とにかく勤務がなくて平日の昼間っから暇しているので描きたいものを描いては端からじゃんじゃんツイッターにアップしていきます。これは人によって感じ方も違うでしょうしなんだかその時の自分が感じたことも気のせいというか気にしすぎだったのかもしれませんが、なんとなく周囲とは異なるペースで(たいして上手くもなくクオリティが高いわけでもない)絵をあげ続けていると、おかしなことにだんだんと申し訳ない気持ちになってくるんです。

 こいつたいしてうまくもないのになんかいっつもタイムラインにいるなあ、なんか今までは気にならなかったけど妙に鼻につくようになってきたなあ、絶対に言われてませんがそういう声が自分の内側から囁くようになってくる。罪悪感なのかなんなのかそれがなんかほんとに気がかりで、しばらくするとアップするのに雰囲気見てタイムラインの空気よんで絵のジャンルも交互に分けてペース配分しなきゃ…みたいな感じになっちゃった。自分一人で勝手にすごく気を遣いました。

 なにがきっかけでオリジナル描こうとしたのかもよく思い出せないな…。ただ最初にワニ嫁の1ページ漫画書いた時に、アッオリジナルならなんかいいのかもしれないって思った気がします。二次創作の絵を大量に流してるのと何が違うのかちょっと自分でもうまく言えませんが初めにアップしたワニ嫁に意外と反応があったのでそれで一次のツイッターアカウント作ったような気がします。自分が考えたものだからどんなに低クオリティでも顰蹙買わないだろうとも思った気がする。

 あっ思い出した。そのあたりで私は鈴木光司のリングを読んだんですよ。もうなんもかんもネタバレになってしまうので申し訳ありませんがそこで私は激しくふたなりに萌え散らかし、ふたなりという存在に一気にどハマりしました。その後にこれまた偶然(マジで偶然)坂東真砂子の山妣を読んで激烈に萌え狂い、自身の中でふたなりという存在がくっきり創作モチーフとして形になってくれた。ずっとホモ創作やってきてこんなところにこんなものがいたのかまだこんなすごいものがあったのかと思いました。ふたなりってすげえよまじで。山妣ほんとおすすめです。リングも原作小説は映画ほど怖くないしめっちゃ面白いんでぜひ読んでみてほしい。そうだそれでふたなりやりたいって思ったんだ。そうだそうだ。でも二次創作でふたなりやったら怒られそうだから(でも結局やった)オリジナルなら許されるだろうと思ってやりました。動機がブレブレだしなんかやましいな…。

 しかし一次創作をするにあたって私は自分に課したルールがあったんですよ当時。そうそのルールをね、最近忘れていたことを思い出してきたんです。まず作画コストを低くすること。とにかく描く労力を限りなく低くすること。私は彼岸島という作画コストのとても低い沼に長期間いたため、fateに入った時にそのあまりの作画コストの高さにそれだけで二次創作が負担に思えてしまったんですね。普段あのレベルが通常という方からすればマジでは?何言ってんだ?な発言だと思えるんですがこんなことを言って非常に申し訳ないステイナイトはまだいいとしてFGOは無理でした(あとギルガメッシュの鎧も無理)。創作したいのにコストが高すぎてできない!無理!となるのはそもそも熱い鉄を打つにはスピードが大事なのにこれでは描くうちに徐々に心が萎えていきます。だから自分の作る世界では容赦なく作画コストをカットしました。ほら嫁も最低限の装飾だしワニも全裸でしょ。これならどんなにたくさんコマ描いてもどこまでもよくわからん生き物の裸描いていればいいんだから。最高じゃないですか。

 あとはデッサン、人体ですね。はい、デッサンは崩壊してても大丈夫です。こんなところに筋肉ないよ〜こんなところに盛り上がりとか線ないよ〜足もこんなに曲がらないよ〜はいぜんぜんいいです。人体なんかぶっ壊してなんぼです。人体をなるべく正確に書かなきゃいけないって誰が決めたんですか?そもそも私は漫画が読めるなら背景とか人体とかなんとなく書かれてたらそれでいいです。漫画で読みたいのは物語です。絵でみたいのは熱量ですパッションです。それよりも背景のクオリティや人体の角度に時間かかって肝心の漫画や絵の筆が進まなくなって完成も遠のいて最終的に自分は絵がうまくないし筆も遅いんです…と諦められてしまうほうが百倍残念です。漫画に正確さなんて求めてないし自分が読みたいのは物語や情熱なんだよ。これは過去にまさに自分がそういった入り方をして背景はみっちり書かなきゃ、コマ割りもちゃんと工夫しなきゃ、カメラの角度も意識して…とか当時の自分なりにすんごく時間と手数かけて漫画を描いた経験上なんですが、あれがものすごい疲れた。あとそれだけ頑張った背景を実際自分が読み手だったらするする読み飛ばすことに気づきました。だってどうですか。同じ描き手ならまだこの背景の書き込み頑張ったんだろうなあ〜瓦屋根一枚一枚描いてるすごい〜とかなるかもしれませんが(ならない可能性の方が高い)普通に漫画読んでていいよなあこのコマ、ってなるところはだいたいキャラクターでしょ。チェンソーマンのデンジとレゼの戦闘シーン読んでて後方のビルの粉砕具合の方にすっげ〜!このビルの描き込み痺れる〜!って心奪われてる子はいないでしょ(いるかもしれないが)。まあたしかに背景も世界観の一つなので大事なのはわかるんですが自分の描く漫画でそれやる必要はあるのかってところです。私の漫画に漫画を描くこと自体が億劫に思えてしまうほどの細かい背景はできるだけやめときたいな、というのが正直な気持ちでした。

 基本的にラクがしたかったんですね。何よりもラクであること、ゆるく継続ができること。無理しない。たくさんの下手くそな絵を自由に量産したい。丁寧じゃなくていい。設定もなんとなくの感じでいい。設定盛り過ぎるとあとで自分がそれにがんじがらめになって詰むことが多々ありますからね。名前だってつけなくていい。私は一次創作にリアルにはあり得ない感じの痒い名前をつけることがなかなかどうして苦手なのでお嫁に名前はつけられませんでした。つけた瞬間からキャラクターが自分の手の中でしか動けなくなるような感じがよろしくない。私の及ぶ範囲の見識でつけられた名前だと今後一生そこ止まりになるような気がしてもったいない。今後もキャラクターに名前つけられるかどうかは自信がないですね。でも意外とぜんぜんそれで成り立っているのでいいような気がします。ここが小説と違って問題なくて助かるところです。小説だとまた難しいもんな。

 描くことがしんどいって絶対なりたくないから限りなくハードルを下げていきたいんです。とにかくたくさん描きたかった。できていないのを分かった上で頑張りたいと心がけていたことですね。コピーライターも案を100出して使えるのは一つか二つと言われているように多作の中からこそ良いものが生まれてくるらしいので、落書きだろうとなんだろうと手を動かすのをやめないようにしたかった。でもそれが作画コストが高かったり背景にこだわっていたりなんか格好いい世界やキャラにしようとしたりみんなからすげ〜!って称賛されるようなものを作ろうと意気込んじゃうとマジで手が動かなくなるんですよ。それじゃ楽しくないんです。ほんとに。逆に恥ずかしくないものあの人に幻滅されたくないものえっあなたってこんな性癖があったのドン引き…っていう自分の見栄や羞恥心のようなものも気にしだすとこれまた作るものがちっちゃくちっちゃくなっていきます。可哀想なくらいいなくなっちゃう。そして自分のやりたかったことが一体なんなのかわからなくなります。

 上手に描けたら描けたでいいんですよ。うれしいうれしい。でも人間慣れるとすぐに技術の向上や比較に気を取られがちになってしまうので、できれば積極的にハードルを下げていくくらいの意識低さでいきたいなって思うんです。クオリティーは下げていく。もっと下手くそになっていい。もっと線も汚いままでいい。ラクにラクに、ゆるく楽しく続けていけたらそれが一番いいなと思うんです。

 なんでこの初心を思い出したかっていうと最近原稿をやっていると嫁の体やワニの体をなるべく正しい本物の体に近づけようと努めている自分に気づいたからです。「本物」の「正しさ」がいいものだと思っている自分にハッとして、あ、ちょっとこれはゆるめようもっともっと下手にならなきゃ、と感じました。

というメモが4月あたまの日付で残っていました。なにを書いてるんだ原稿中だろ原稿をしろ。

まさに原稿やっていた頃だったので、たぶんあたまを整理したかったんだとおもいますね。

岩井志麻子の魔羅節も超〜〜〜〜〜〜〜〜〜えっちなんでぜひ読んでみてほしい。表題作の雨乞いに乗じて村の男ほぼ全員でひとりの男子を犯し倒す話がえぐいほどいやらしかったのは強烈に覚えています。

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