※謎世界線。
大晦日。一年の最終日。十二月三十一日もあと残すところ、二時間だというのに。
兄が帰ってこないのは何ごとか。
「遅すぎる」
俺は炬燵の天板をコツコツと指で叩いた。その音は年末番組の笑い声にかき消される。
すでに炬燵の中に入ってのんべんだらりとくつろいでいた雅は、横着にも寝そべった体勢から天板の上にあるみかんに手を伸ばした。横からその手をペシリと叩く。男がさっと手を引っ込め、俺を迷惑げな目つきで見た。
「気を揉みすぎだ」
目の前に座る男が言った。普段から肌身離さず身につけている山羊の被り物を脱ぎ、食後の一服といって茶を飲んでいる。満足した様子で、頭部の分身たちのほとんどが眠たそうに目を閉じかけていた。
うーん、と小さく唸り、俺は何十回目かの携帯電話のディスプレイの確認をした。
「遅くなるって、聞いてたか?」
二人に尋ねるも、両方とも首を横に振る。もやもやした気持ちのまま、携帯電話をつかんで立ち上がり、襖を開けて暖かい居間を出た。
兄の携帯電話に着信を残して戻ってくると、雅が体を起こし、天板の上を物色し始めていた。卓の上には食い尽くしたあとのほぼ空の鍋やカニの殻が所狭しと散乱している。夕方から男三人で荒らし尽くした。もう何も残っていない。兄の分だけしっかりよけておいてよかった。
雅が俺を見た。
「小腹が空いた」
「あれだけ食ったのにか?」
「何かないか」
「みかんノルマ」
「みかん以外だ」
「もう兄貴のしか残ってないよ」
天板の上を少し片付けつつ、冷蔵庫にまだ何か残っていたか、今日の買い物の記憶をたどる。ごみを持って台所に向かった俺の後ろから雅がついてくる。ストーブの上のヤカンがカンカンと音を立て、部屋の湿度を保ってくれている。兄が寒い屋外から、早くこの暖かい部屋に帰ってきてくれたらいいと思う。
「一緒に鍋すんの、あんなに楽しみにしてたのにな」
「こういうときもある」
「そうだけど」
冷蔵庫の中を確かめていると、俺の着た半纏の内側へと、突然背後から手が突っ込まれた。衣服越しにもわかるほど冷たい両手に腰をつかまれる。
振り払った。しかし、すぐにまた入ってくる。
「何だよ」
「寒い」
肩越しに見上げたら、男はかすかに震えている。台所は冷えるのだろう。色素の薄い顔が、普段よりもより一層無表情だ。厚着をすればよかろうに。
訴えを無視し、食器を洗い始めた俺の体を、後ろから抱きしめる格好で男が暖をとる。非常にうっとうしい。
斧神が汚れ物を持ってきてくれる。
「サンキュ。そこにおいてくれ」
台所の明かりの下で、親友は俺に密着している男をじっと見ている。チラッと見たら、野生動物を眺めるような興味の示し方をしている。
「…何をしておられるので?」
「暖をとっている」
「明で暖を」
「抱き心地がいい…」
「そこで喋るのやめてくれ」
うなじのすぐそばで喋られると首がぞわぞわする。
「斧神。すまん、鍋の中身を足すから、持ってきてくれないか」
斧神が居間に戻った。腹に回された雅の腕が触れた場所が、じんわりと温かくなってきていた。男が熱を取り戻しつつあるのか、それとも俺自身の体温なのかはわからない。半纏から突き出した首の後ろに、男が頬ずりするのがわかった。
湯ですすいだ小皿を食器かごに並べる。
「カニの殻でも突っ込んでやろうか」
「これぐらい許せ」
背後の相手を肘でどついたところで、電話が鳴った。
斧神の声がした。
「篤だ」
「持ってきてくれ!」
「いや、遅くなってしまって、すまん。仕事が長引いてな」
「今どこ。駅まで俺迎えに行くよ」
「駄目だ。寒いから、しっかり暖かくして」
もう帰るよ、という電話越しにきこえる兄の声に、なんだか、とてつもなくほっとしてしまった。事故に遭ったりしてなくて、よかった。
俺の耳に携帯電話を当ててくれている親友も、兄の声が聞こえているようだった。
斧神がスピーカーに口を近づけた。
「篤、早く帰ってこい」
「? 村田か?」
「お前の弟が待ちくたびれている」
「おいやめろ」
「ハハ」
電話の向こうからは暮れの街の喧騒が兄の笑い声にまじって聞こえてくる。今年中には余裕で帰れると兄が言った。
まだ俺にくっついていた雅が、背後から携帯電話に口を寄せた。
「篤、帰りにコンビニエンスストアに寄ってくれ」
「お前までいるのか」
「何でもいい。腹が空いた」
「ずうずうしいやつだな。蕎麦があるだろう」
「え」
声が出た。
兄の言葉に、三人で顔を見合わせた。
「年越し蕎麦を買ってある。ほら、そこにあるだろう。でも、俺が帰るまで待っていてくれよ」
電話を切った後に、年越し蕎麦の袋を見つけた。さすがは兄貴だ。蕎麦はきっちり四人分あった。が、足りなかった。大食らいばかりだったから。
2017.12.31
いつもの四人で年越し。