スクエア 5

※注意
・篤、斧神生存ルート
・篤、斧神ともに交戦済み設定
・明が吸血鬼軍に捕まって雅に飼われています(本土未上陸)
・蚊は本土にばら撒かれませんでした
・明の右手も健在
・師匠は邪鬼になっていません
・腐女子の妄想、捏造、何でも許せる方向け

 山を越え、歩き慣れた野道を通り、日が傾かないうちに主が所有する屋敷の一つに戻った。背の低い裏門から入り、屋敷の中に足を踏み入れると、奇妙な具合にあたりが騒がしかった。怪訝に思い、歩みを止めないままそこらじゅうにいる吸血鬼達に声をかける。

「騒々しいぞ。なんの騒ぎだ」
「お、斧神様…」

 こちらを向いた吸血鬼の目が怯えにこわばった。私が手に掴んでいる斧から目が離せないようだった。目につく場所にいる者達が、自分の存在に気づいて口をつぐむ。ざわめきが水を打ったようになった。いつものことだ。

「一体何だ」

 声をかけられることさえ恐ろしいといった様子で、複数の吸血鬼が青ざめた顔を見合わせる。自分よりも低い位置にある顔、顔。それぞれの表情が炎のオレンジ色の光に照らされて、陰影がくっきりとし、何かに動揺している様が手に取るようにわかった。今この瞬間、強い恐怖を感じていることも。
 答えを待たず、体の向きを変えた。呼び名を呼ばれることはなかった。地下に降りるつもりだったが、行き先を変え、館の奥へと向かった。
 襖の開け放たれた各部屋にも見慣れた編笠姿の男達がいたが、皆一様にかたまって何かを話し合っていて、こちらに気づく者は少なかった。その方が都合がよかった。斧をぶら下げたまま、黙って暗い廊下を進んでいく。
 昼間とはいえ、ここはいつも窓が閉め切られていて暗い。柱がある場所に等間隔で置かれた松明がパチパチと音を立てて爆ぜていた。その炎の光でも、廊下や床の隅、天井の方までは明かりが届かず、広い屋敷の中に四六時中闇を作り出している。
 斧をぶら下げ、いくつかの廊下を曲がった。襖が閉め切られた部屋が増えていき、進めば進むほど人気がなくなっていった。天井が高く、廊下の横幅は広くとられ、歩くのに不自由はしなかった。狭苦しい作りの建物を嫌う主の指示で建築されたようだが、自分にとっては行動がしやすく、体がぶつかるごとに感じるストレスが少なくてすむ。しかしそれでも、あの家の狭い廊下や、兜の角が擦れる低い天井が不意に懐かしく思えた。
 家を出る時に玄関から自分を見送っていた明の姿を思い出し、兜の下で深く呼吸をした。こちらを見上げるあの目を思い出すと、腹の下が弱く絞られるような感覚に陥る。不安げで心細げな、それでいて親しみが垣間見えるあの黒い目が、いやに目立って、放っておけず、それが時に自分の頭をおかしくさせるのだ。
 頭を振って考えを振り払った。血を摂取する為に戻ってきたのだが、なにやら起こっていることを確認するまでは帰れそうになかった。

 たどり着いた部屋の前には誰もおらず、背後の柱の両側に置かれた松明の燃える音だけがしていた。

「よろしいですか」

 大きな襖の前で膝をついた。私がどのような姿勢でいるかまで、あちら側には見えているはずだ。

「斧神か」
「はい」
「入れ」

 膝をついた状態で両手で襖を開けた。
 部屋の中も廊下と同じくらいの明るさだった。

「誰もおらん」

 部屋の奥の方で、肘置きに寄りかかって座る主が言った。はっきりとした低い声で、よく通った。部屋の四隅でかがり火が燃やされており、主だけが持つ特徴的なその白い髪が黄にも、赤にも見える。その顔がじっとこちらを見つめていた。

「失礼します」

 断わって、一度立ち上がり部屋に入る。それからまた膝をついて襖を閉め、主の方へと向き直った。

「また逃げた」

 主が言った。

 その言葉の意味を理解するまでに、数秒を要した。

「…独りでですか」
「篤が連れて行った。お前が出て行った後、すぐに現れたようだ」

 その言葉を聞いた瞬間、体じゅうの血液が逆流する感じがした。
 主の赤い瞳が、パチ、とゆっくりと瞬きをしたのが見えた。傍目には身じろぎもしなかったはずだ。

(隠し事はこれか)

 手を膝に置き、兜の下でせわしない呼吸を繰り返す分身たちを落ち着かせようと努めた。部屋の奥を見ると、仕切り屏風を背に、主は至って穏やかな顔をしていた。普段から着用している礼服の首元を緩め、落ち着き、くつろいだ様子でいた。どこまでが一つの部屋なのかもわからない、幾つかのかがり火しか照明のない空間で、主と私は本当に二人きりであるようだった。
 「俺」を見つめながら、主が首をわずかに傾けた。

「憤りを感じているようだな」
「……いいえ」

 美しく赤い唇を歪め、主が笑った。手に持っていた扇子の先で、パシ、と片方の手のひらを叩いた。

「お前のものにはならないことを知っていて、抱いたのだろう?」

 被り物の下で分身たちが鬱陶しく蠢めくのを感じた。分身の動きは内面の現れだ。その言葉の意味を反芻し、兜の下で一度目を閉じた。この方の前で、今さら自分を取り繕うつもりもなかった。
 目の前の人物の前で、己れがここまで感情的になっていることに、自分自身が何よりも驚いている。

「存じてます」
「ならば、明を取り返してこい」

 山羊の兜の下で、こちらがどのような表情を浮かべているのかを、全て分かった上での命令だと思った。手で兜の位置を直した。両手を膝に置き、頭を深く下げた。

「はい」

 主がどういうつもりで、どのような考えがあって、あの男を囲い、自分を世話係としてあの家に置いているのかが私には何度考えても理解ができなかった。理解できないままでも良いのだと思った。
 目を薄く細め、主が私の姿を興味深そうに見つめてきた。その目つきを知っているような気がした。

「愉しませてくれる兄弟だ」

 白い顔を穏やかな笑みで満たし、何の不安も抱いてないといった口ぶりで、主が言った。以前、まだ己れがただの吸血鬼であった頃に出会った、吸血鬼の頭領らしからぬ、若い牡鹿のような生に溢れた瞳だった。

 挨拶をし、その場で立ち上がった。主は既に興味をなくしたように、眠たげな表情で体勢を崩している。

「雅様。篤はどのように」

 扇子を持つ手が軽やかに振られた。声を出すのも面倒といった様子だった。

「あの小僧が戻るなら、私は構わんよ」

 その答えを自分なりに解釈し、頷いた。会釈した後、部屋を出て自分の斧を拾った。

 半死半生とはまさにこの事だった。
 宮本明を倒したとの第一報を聞きつけ、屋敷に死体を確認しに向かうと、そこにいた男にはまだ息があったものだから驚いた。運び込まれた部屋には医療班の吸血鬼数人しかおらず、また、主の姿もなかった。手術台の上に乗せられた、敵でありながら親友であった男が、まな板の上の鯉のように無防備な姿で死にかけていた。血まみれだった。
 どうするのかと医療班に訊くと、主が生かせと仰ったと言う。そんな馬鹿な、という思いだった。死にかけている男を再び見下ろした。呼吸をするのにもエネルギーを必要とするといった有様で、切り裂かれた傷口は、一目見てすぐに主の鉄扇の切り口とわかるものだった。痛覚を感じる域はとうに通り過ぎ、あとは死の宣告を待つばかりのはずだ。
 手術は丸一日かけて行なわれた。その間に私は主に呼び出され、男の面倒を見るようにとの命を受けた。命令の意味がわからず、一度聞き直した。

「家を用意した。そこであの小僧が逃げ出さぬよう、お前が世話をしろ」
「何故、何故私なのですか」
「何故?お前が適任だからだ」
「雅様…!」

 普段の己れからは考えられないほどに、差し出がましくもその時ばかりは主に食い下がった。危険な男だと、雅軍の末端までもが知っている人間だ。想像もつかない事をする男だ。生かしておけば、何をしでかすかわかったものじゃない。
 信じ難いことに、主は感染もさせるなと言った。まだ吸血鬼にさせるつもりはないとのことで、当面の間は人間のままでいさせ、死なせるようなことだけはするなと言われた。愕然とした。
 いくら可能性を説いても無駄だった。自分の言った言葉は端から全て主の体を通り抜けていき、主は何か自分の中にある一本の道筋を信じて見ているかのように、聞く耳を持たなかった。

「手厚く介抱しろ。逃げ出さない程度に痛めつけてもいいが、決して殺すんじゃないぞ」

 隔離されたその家には、私と主の二人だけしか出入りができないようにされ、家を含んだ集落を囲む周辺の山々には相当な数の邪鬼が放たれた。男が逃げ出さぬように、自分が追いきれなかった時のもしもの時の番犬代わりだとも思えたが、吸血鬼どもが妙な気を起こさないようにとの二重の意味も込められている事に気がついたのは、介抱を続けて三日目の晩、主が足繁く通う様を近くから見続けたことによる気づきだった。
 痛みに呻き、苦しみ、時には痛みのあまりに涙を流して夢の中でうなされる男を、離れたところから主は長い間飽きもせずに眺めていた。無精髭を生やしたままのまだ幼さを残した顔が、時たま絶望的なほどのかすれた声で痛みを訴えた。痛み止めも与えられず、ただただ縫合された傷口の壮絶な痛みに耐えるしかない。傷の治りの早い吸血鬼ならまだしも、人の身ではさぞかし辛かろう。主と私の視線にさらされながら、男は意識があるのかないのかわからないほど朦朧とし、夢と現実の狭間を彷徨っているようだった。
 一度、包帯を清潔なものに替えている時、男の開かれた目から涙がこぼれ落ち、充血したうつろな目がこちらを見た。その目を黙って見返した。そうしていると、澄んだ瞳がみるみるうちに涙の膜で覆われていき、乾いてひび割れた唇が、ほんの少しだけ動いた気がした。消え入りそうな声で、「痛い」と、言葉がその口からこぼれ落ちた。

「痛かろう」

 そう呟いた私を、縁側寄りの柱に寄りかかっていた主が横目で見たのがわかった。明の両目から、枯れたはずの涙がまたポロポロと溢れ出し、涙の跡のある頬を濡らした。泣くほど痛むのだ。

「そうか」

 体も動かせず、されるがまま包帯を巻き直されながら、明は声も出さず泣いていた。痛みに手で触れそうなぐらいだった。血と黄色い体液の滲んだ大量のガーゼを捨て、使用済みの包帯を捨てた。慎重な手つきで清潔なシーツに体を横たえさせると、真っ赤になった目で明がこちらを見上げてきた。見続けていても、何も言わなかった。澄みきった黒目がちな目が、まるで子どものようだった。

「…」

 いずれまぶたが下りていき、衰弱しきった身体に眠れないほどの痛みがその晩も継続して襲う。

 季節は春で、柔らかな雨がよく降っていたことを覚えている。男の様子を見に主が訪れ、私が血液の摂取で家をたまに留守にする以外は、いたって静かな日々が続いた。一人やってくる主は西洋風の傘をさしていた。雨粒がこうもり傘の表面を滑り落ち、靴はいつも磨かれていて綺麗だった。家一軒を閉じ込めるかのような雨の中で、一日のほとんどを眠って過ごす明を前に、お互いに会話をする事もほぼなかった。

 山の桜はこの雨であっという間に散ってしまったが、主は構わないようだった。誰かに呼ばれたかのように、不意にぼんやりと目をさます明を、口に手を当てて主はじっと眺めていた。
 主は何時間もかけて同じ場所から明を眺めた。退屈ではないか、と尋ねると、「すこしも」と返事がかえってくる。それが不思議なほど穏やかな表情で、主には男が、きっと花見よりもずっと良いものなのかもしれなかった。

 明が喋れるまでに回復すると、主はぱったりと来なくなり。
 痛みに顔をしかめつつも、自分一人で布団の上で上体を起こせるようになり、ものを口にすることができるようになった明は、主が毎日のように訪れていた事を全く覚えていないのだった。

 主が生かせと仰ったものを自分が殺す事など出来るはずもない。それをわかっているのかいないのか、動けるようになるなり、明は隙をみては脱走した。

「そこを退け、斧神」

 鉈を手に、明が震える声で言った。私が留守の日を狙い、また家を脱走したのだ。主がいつからか集落の周りに配置した少数の監視役からの伝令を受け、私は捕獲に走った。その日は家の裏手から逃げ出し、屋敷とは反対方向へ向かって走ったようだった。運良く邪鬼に捕まっておらず、ちっぽけな鉈一つを手に持ち、私に見つかったことがひどく頭にきている様子だった。

「退かねえなら、たたっ殺してやる」

 満足な武器ももたない癖に、殺気だけは二人戦ったあの頃のままだった。鋭い眼光で、鉈を刀のように構え、たった一人で孤独だった。

「できるものなら、やってみろ」

 巨大斧を掲げ、男に向かって振り下ろした。明が何とかそれをかわす。本人は素早く避けたつもりなのだろうが、傷が治りきっていない体で、なおかつ衰えた筋肉では私の斧を避けることは非常に困難なはずだ。避けた先でよろめいた。
 遠慮なく斧を振った。再びかわした明が、バランスを崩し地面に倒れた。鉈が手から飛んでいく。まだ力が入らないのだろう。

「ちくしょう、ふざけんな」

 地面の上を這いずり、明の手が鉈を探した。その目の前に斧を遠慮なく振り下ろした。明がとっさの動きで頭を抱えた。
 土が飛び散り、大きな音を立てて地面が割れた。斧の先が地面に深々と突き刺さった。
 ガタガタと震える体を強引に引きずり起こし、片手で胸の高さまで持ち上げる。

「やれるものなら、やってみるがいい。さあ、殺してみろ」

 片手で胸倉を掴み、至近距離から凄んだ。震える両手で明が私の腕を掴んだ。全身の震えは、死に瀕している人間としては当たり前の本能によるものだ。その目にあるのは恐怖でも、ましてや絶望でもなかった。ただただ強い怒りが、宮本明の黒い瞳を輝かせている。

「クソッタレ。雅の犬め」
「何とでも言うがいい」
「こんな脅しをするぐらいなら、いっそ殺しちまえ。その方が、スッキリする」

 そう吐き捨てた明を、振りかぶって勢いよく地面に叩きつけた。
 衝撃で骨が折れたか、どうかしたのだろう。明が血を吐いた。体をくの字にして、痛みに耐えていた。傷が開いたかもしれなかったが、この程度で死にはしない。
 悶える明のそばに膝をつき、首を掴んだ。明が小さく悲鳴をもらした。

「鉈を拾って、俺に渡せ。そうすれば、終わりだ」

 遠く離れた場所に落ちた鉈を指差した。心細いほどの鈍い光を放ち、鉈はぽつんと地面に落ちていた。
 首から片手を離すと、明がふらふらと立ち上がった。青い顔をして、折れた場所を手で庇っていた。

 鉈を構えて突進してきた男をかわし、今度こそその体を拳で殴り飛ばした。加減はしたつもりだったが、それでも親友の体は軽々と吹っ飛び、地面に転がって大量の血を吐いて気を失った。

 自分から命を絶つことをしない理由は何となくわかっている。わが身のことを想ってくれる仲間や、人々のことを考えれば、きっと自分の体を粗末にする事など出来ないのだ。いっそ自分から命を絶つことが出来れば、どれほど楽になるだろうか。それができないのがこの宮本明という男だ。
 この島にいるすべての人間達の希望。その自分が、今ここで一人自害した場合、今まで背負ってきたどれだけの人の想いを無駄にするのかを知っているからこそ、どれだけ屈辱的な仕打ちを受けようとも、舌を噛んで死ぬことはしない。死ねないのだった。
 それをわかっていて、逃げ出す明を捕まえ、抵抗すれば死なない程度に痛めつけた。時には、「帰りたい」と言って懇願する親友を引きずって家に戻った。

 親友とは名ばかりの関係であり、現実には私と男は敵同士で、明はどこから見ても捕虜だった。主の気まぐれで生かされているに過ぎず、いつか感染させるその時まで、人間としての残り短い生をいたずらに消費させている。
 悪も正義もない。けれど、時々男が私を見る目に、いつかあの洞窟の中で見た覚えのある色が混じることがあった。人恋しげな瞳で、ここにいるのは自分と相手しかいないとでも言いたげな、切羽詰まった視線だ。様々な渦巻く感情の中で嵐に立ち向かうかのように抵抗する明の、その目だけは、感情を殺して無視をすることが難しかった。

 主が宮本明を囲っていることが吸血鬼の間で噂として囁かれていることは知っていた。人の口に戸は立てられぬ(正しくは吸血鬼の口だが)、とはよく言ったものだが、主にそもそも隠す気がなかったので、予想ができていたことではある。それでもあの男がそれに反応するのは、予想よりもずっと早かった。

「弟に会わせてもらってもいいか?」

 自ら抱えている集落の血液をもらいに、時々篤が屋敷にやってきていることは知っていた。それでも屋敷で顔をあわせることはほとんどなかったので、思うところがあれば勝手に訊いてくるかするだろう、と思った。私が男の世話をしていることも、吸血鬼達にはすでに知れ渡っている。

「すまんが、お前の頼みでも聞けんのだ」
「?」

 屋敷の薄暗い廊下で、あたりには人気がなかった。怪訝な顔をする篤を見下ろした。
 篤は私に会うなり、開口一番、「生きているのか」と確認してきた。誰が、とも言わなかった。答えてやると、マスクの下であからさまに安堵の表情を浮かべているのがわかった。同じ弟を持つ身であるから、その表情の意味は痛いほどよくわかる。

「お前を会わせるなと言われている」
「ハ…ハッ。何だ、それは」

 壁の松明の火に照らされ、眼鏡が反射してチラチラと赤く光っている。

「何もお前だけの話ではない。あそこには、誰も近づけるなと言われているのだ」
「雅にか?」

 頷いてみせた。篤の纏う空気が少し形を変えた。敬称をつけて呼ぶことを忘れているようだった。

「ひどい傷だったと聞いた。どんなふうだ?」
「死に至るほどではない」

 明の身体を走る、首から胸にかけての深い傷のことを考えながら、言った。死を目前とさせた傷は徐々に癒えつつあった。しかしその頃でも、雨の日は傷がひどく疼いて痛むのだと、明がぼそぼそと口にする時があった。あの男が言うからには、よほど痛むのだろう。それを訴えた時の横顔を思い出しながら、男の兄の顔を正面から見つめた。
 兄弟だ。やはり、よく似ている。

「お前の気持ちはわかるが、面会は諦めてくれ。場所も探るな」
「…えらく一方的だな」

 すまん、と口にした。篤が何かを言いかけて、それをぐっと飲み込んだのがわかった。

「わかった。呼び止めてすまなかった」
「気にするな」

 そのまますれ違った。篤はその場から動かなかった。両手を身体の横に垂らし、こちらを振り返ることもしなかった。足を止めずに屋敷を出た。
 その日は相当な遠回りをして、普段の倍以上の時間をかけて明のいる家に戻った。

 兄というものがどういうものか、自分も知っているつもりだ。篤の目は狂気をはらんで、目の端が赤く染まっていた。弟との接触を他人によって絶たれ、怒りを感じているのだとわかる。それは間違いのない感情だ。
 居場所を隠すことなど、何をどうしても無理な事はわかっていた。篤という男を相手にするという事は、追いかけてくるヒグマから逃げ続けるようなものだ。目的を果たすまで、どこまでも獲物を追い続ける獣のような男だ。そのような男から何かを隠し続けるのは非常に困難なことだった。
 それでも篤は一線を越えないだろうと私が考えていたのは、男がその腕に抱えているものを知っていたからだ。守り抜いてきた全てから手を離し、代わりに今の篤が抱えているものは、主の恩情があってこそ、壊れずに保っていられる脆い砂の城だ。主の命令に背くようなことがあれば、あの砂の城は波にさらわれるように脆く崩れ去ることがはっきりしている。それを理解していながら、あの利口な男が、弟可愛さにむやみに突っ込んでくることはしないだろうと、私は半ば信じてもいたのだ。

 外に出してくれと懇願する言葉を無言で叩き落とし、発作的に脱走を繰り返す明を捕まえては、あの目を思い出した。
 あの目は兄弟を想う目ではない。
 あれは執着の目だった。自分の物が他人に許可なく触られた時のような、そんな不快感が篤の全身には滲み出ていた。

 屋敷を出て一人駆け続ける。無人の家に戻ってくる頃には日暮れを過ぎて、あたりがすっかり濃紺の闇に包まれていた。天気は家を出た時とは変わって曇り空で、たまに吹く風が湿り気を帯びていた。
 肩を上下させつつ、背を屈め家の門をくぐった。外灯がついておらず、真っ暗な玄関の扉が開けっぱなしだった。何度も見た光景だ。今この瞬間も、見張り役には遠くから見られているのだと知っている。構わなかった。
 家の中に入ると、まるで初めて訪れる他人の家のような空気がした。家じゅうがどことなくよそよそしい雰囲気に包まれており、暗闇は濃く、冷え冷えとしている。玄関の奥の廊下が黒々と先まで伸び、その暗さに驚くほど腹がすくんだ。拒絶されているとまでは言わなくとも、この空間に居心地のよさはかけらもなかった。
 玄関から外に出た。不意に足元を見下ろして、気がついた。地面にサンダルが片方だけ落ちている。

(会いたがっていた)

 兄に会いたがっている事は知っていた。
 吸血鬼ウイルスに引き裂かれ、泣く泣く離れざるをえなかった二人きりの兄弟だ。兄を求める姿が、亡くなった自分の弟と重なる。心から頼れる場所をずっと与えてやることができれば、と篤も思っていたはずだ。兄として、弟の事を誰よりも心配し、どんな災難からも守ってやれる存在でありたい。弟の前に立つ者として、降る雨をさえぎる役目を果たしてやりたかった。
 自分も篤も、その通りにしてはやれなかったというだけのことだ。

(何もかも遅い)

 同じ道をたどっている。同じ道の先で、篤も私も、互いにそれが同じ人物の前で交差している。
 先ほど通った門を再びくぐった。暗くて、足元がおぼつかないということはない。兜越しにあたりを見回した。山々の輪郭が暗闇よりもさらに黒い影をなしていた。ざわめく木々の音に、草陰から鳴く虫の声が混ざる。

 自分の立つ場所から四時の方向で、山影の中に小さな光の点が現れた。見張り役の手によっておそらく火が灯されたのだ。そちらの方向に逃げたということだろう。
 斧を握り直し、片足を踏み出した。徐々にスピードを上げ、今は消えた光の方向目指して、全力で走り始めた。

2016.10.18