※注意
・篤、斧神生存ルート
・篤、斧神ともに交戦済み設定
・明が吸血鬼軍に捕まって雅に飼われています(本土未上陸)
・蚊は本土にばら撒かれませんでした
・明の右手も健在
・師匠は邪鬼になっていません
・腐女子の妄想、捏造、何でも許せる方向け
「斧神」
視線を上げる。
主がこちらを振り向いていた。
「はい」
赤く艶かしい口元を三日月型に歪め、主が微笑んだ。返事をしたことにたいしてなのか、今のこの状況に気を良くしているのか。私が立つ場所の少し前方に立ち、礼服のポケットに両手を入れていた。そのさらに向こうで地面にへたり込んでいる男がこちらを見たのがわかった。
うつむきがちの前髪の隙間から、目があった相手を喰い殺しかねないような眼光を飛ばしている。数秒、お互いに見つめあったが、その数秒は一秒にも満たなかったかもしれない。
主が再び前方に視線を戻した。男の目が主の方へ動いた。首の据わらない赤子のように首が傾いていた。
「まだ気がすまないか」
主の言葉に、男が地面に手をついた。立ち上がろうとするも、ついた腕がぶるぶると震え、体を支えきれないでいた。鉄扇によって斬られた両膝に力が入らないのだろう。ジャリ、と土の音がし、血にまみれた男の手のひらが地面の上をゆっくりと滑った。
主と私が見ている前で、男は手を滑らせながらも、何度か立ち上がろうと試みた。顔を歪め、目にうっすらと透明な膜を張っていた。動くたびに膝に激痛がはしるに違いない。
「その足で逃げてみるがいい。今こそ、私が見ている前で逃げ切ることができれば、お前を自由にしてやろう」
男が顔を上げた。私の視界には男と、普段と同じように礼服を着込んだ背中しか映らない。見ずとも、主が口角を持ち上げていることがわかった。
「もっとも、邪鬼に捕まる方が早いだろうがな」
男が絶叫した。主の名前をわめき、汚い罵りの言葉を繰り返し口にした。涙声で、そのような声で男に罵られる事に、主は以前から愉しみを見出している。
二人の様子を黙って後ろから眺めていた。二人は、何か自分には触れる事のできない壁の内側に二人きりでいるように、こちら側からは遠かった。
大気はじっとりとするような暑さをはらみ、梅雨前の曇り空が空を覆っており、周囲には主と男と私とを含めた三人しかおらず、重たい雲は泣き出す手前のような色をしていた。主が手に傘を持っていなかったので、おそらく雨が降ることはない。それでも、万が一にも雨が降れば、男のまだ治りきらない胸の傷にさわるであろう事は頭の片隅に記号として記憶していた。
足元の斧を拾い上げる。上半身を起こした時には、男がまたこちらを凝視していた。
斧の柄を持ったまま、黙って男を見返した。汗で湿った前髪の隙間から見える黒目がちな瞳が、私の兜を突き抜け、獣の頭の下にある私自身の目を覗きこんだかのような気がした。それは不思議な感覚だった。
ポケットから手を出した主がおもむろに首を振った。男はまだ私のことを見つめ続けていた。今は、何かを言いたがっている表情をしている。
「奴に救いを求めているのか?」
主の後ろ姿を見た。うなじを覆い隠す白い髪が、曇り空の下で控えめな輝きを放っていた。
男を見下ろした顔を動かさず、主が言った。
「賢くなるがいい」
感情の読み取れない声が男に投げつけられ、男が受け取らなかったその言葉が地面に落ちて転がった。男はもうどこも見ていなかった。私の事も、主の事も、見たくないようだった。
いつのまにか取り出していた扇子の先を指でなぞりつつ、主が言った。
「足はしばらくのあいだ、使いものにならんだろう」
それぐらいせねば仕置きにはならん、と続けて言った後、主は男に背を向け、こちらへと歩き出した。完全に興味を失った様子で、私を一瞥した。うなずき、主とすれ違った。うなだれる男に近づいた。
男を抱きかかえようとすると、力なく腕を突っ張って抵抗の意を見せる。兜の下から男の名前を呼んだ。男は痛みに奥歯を食いしばっていた。
「無駄な力をつかうな」
「殺せ」
消え入りそうな音量の声だった。胸のあたりにある男の顔を見下ろした。男の唇が震えていた。
「できん」
非常に小さな声で口にした単語が、兜の外に聞こえたかどうかはわからない。それでも、男が目をきつく瞑ったことでそれが伝わった事を知った。
両腕に抱きかかえた男の顔を、主が離れたところから見ていることに気づく。半身になって立つ主の向こう側から、黒い雲がやってきていた。
主の声は朗朗とし、よく通った。
「次に逃げ出す時までに、どこを切り落とすか決めておくがいい。お前の想像力ならば、イメージできないことはないだろう」
腕の中にいる明と、主の視線が交錯した。主がその場から立ち去るまでの間、顔に自身の血をつけた明の目は、最後まで主の後ろ姿を追っていた。その唇が震えていた。
明の気配が消えている事は知っていたが、目の前の男に背中を向けてこの場を脱する事はほぼ不可能であり、当然ながら最初からそうするつもりもなかった。篤も弟の姿が見えない事にはとうに気がついているはずである。
篤の剣は過去に手を合わせた時と変わっておらず、尋常でない速さで繰り出される刃の向こうに、紙一重の差で毎度死があった。よもや吸血鬼と化した互いで殺し合いをする事になるとは、過去の自分達は思うまい。死を意識させられる相手と戦うのは、本当に久しぶりだった。
「訊きたい事があるんじゃないのか」
篤が言った。口にした直後、こちらの横腹を目がけて野球バットのように刀が斜めに振り下ろされる。避けきれず、切っ先が脇腹の皮膚を裂いた。少量の血が吹いたが、この身体ではたいした傷ではない。
距離を取りつつ、暗闇に同化した相手の姿を兜の下から目で追った。
「何を訊けと」
笑い声が雑木林の奥から聞こえる。低く、耳に心地の良い声質が、明らかに高揚していた。
「お前がキレるところ、久しぶりに見たな」
「わけのわからん事をぬかすな」
背後から飛び出してきた影に、腰をひねり、振り向きざまに右の拳を突き上げた。腕の骨を砕くつもりで繰り出した拳を峰で受け流される。目で追った次の瞬間には、腕の付け根を落とそうとする白刃が光っていた。
直感的に鋼鉄化した二の腕で刃を弾いた。次の瞬間、手にした刀を持ち替えず、篤が体を身軽に回転させた。浮いた体がこちらの頭上を飛び越える。
後ろから突き出された剣先を間一髪で避けた。避けた勢いのまま、後方へ飛び退く。
「惜しい」
刃についた血を払い、篤が言った。眼鏡の奥の目が鮮やかに赤く燃え、殺意を絶やすことなくこちらをじっと見つめていた。闇に灯る火のような眼だ。
握りこぶしを開いて五指を伸ばし、再び握りしめた。やはり丸腰では分が悪い相手だ。
「お前が明の世話をいいつけられた理由を知っているか」
影を視界におさめつつ、自分の斧の位置を確認した。斧は地面に突き刺さった状態で、こちらから見て右手側にある。篤からすれば左手側にあるそれを、相手が取らせないように動いていることは明らかであった。
「いいや」
こうも暗いと、男の俯きがちの横顔が驚くほどその弟と重なる。目鼻立ちというよりかは、顔の輪郭や、雰囲気が非常によく似ているのだ。こうまで似ていると、血が繋がっているという事実を意識せざるを得ない。
やめてくれと泣きわめいた先ほどの明の声は、全身全霊で兄を殺さないでくれと訴えていた。実の兄に裏切られ、血を吸われ、人間としての矜持を踏みにじられたにもかかわらず、それでも兄の身を案じていた。家族であるという事で注がれ続ける、無償の愛情が、亡くした己の弟の姿と重なり合う。
「知りたいか?」
「仮に知っていたとして、お前から聞きたくはない」
赤い光が細められ、篤が足をわずかに動かす音がした。立ち姿が弟にそっくりで、追いついた時から奇妙に思ったが、なぜかシャツを着ておらず、上着の下の肌色が暗闇にぼんやりと白かった。この鍛え上げられた肉体がしなやかな肉食動物のごとく、以前は吸血鬼を、今は人間を狩るために動くのだ。
篤の穏やかな息づかいと、分身どもの複数の呼吸音が場を満たしていた。
「そう腹を立てるな」
篤が呟いた。
分身どもが落ち着きをなくし、兜の下でせわしく蠢くのを感じた。吹き抜けた風は冷たく雲の匂いがした。木々が枝葉を揺らしてざわめき、私は、自分自身が何に対してここまで怒りを感じているのかを、そこでようやく理解した。
足の傷が癒えるまでに非常に長い時間がかかったが、傷が癒えてからも、男はもう二度とこの家を黙って出て行こうとはしなくなった。言わずもがな、主の「仕置き」が関係しているのだろうが、脱走をやめた事について男は何も口にする事はしなかった。勿論こちらからも訊きはしなかった。捜索の手間が省けて良い、というぐらいの感想しか持てず、深く考える事もしたくはなかった。
一つ変わったことといえば、不定期に行なっていた男の様子見を「毎晩」にしろと、主がわざわざ指定をしてきたことだ。主は男を連れ戻した翌日の晩に訪れ、この家の居間で直接指示を出してきた。
その時、明は寝室で寝かせていた。傷の所為で高熱を出し、意識が朦朧としているようだった。
「おとなしいものだな」
主が言った。半ばほど開けた寝室の襖に寄りかかり、黒い礼服の背中をこちらに向けていた。この方と話しているといつもそう感じるように、山羊の頭を持ち上げる私の動きや、一挙一動をその背中で見られているような気がした。
「先程までは話ができる状態だったんですが」
「いい。構わん」
顔が見えなくとも、声には親しみが含まれていた。あまり聞く機会のない類いの声だった。
「どうせ目を覚ましたところで、吠えられるだけだ」
主が呟いた。縁側の硝子戸を開け放っており、夜の匂いが弱い風にのって部屋の中を曖昧な感じに漂っていた。
「……」
何を言うわけにもいかず、屋敷から持ち出してきた葛籠から、寝室にいる男の着替えとなるものを黙って取り出す。
体の向きを変えて、主がこちらを振り向いた。正座した私を見下ろしながら、腕を組んだ。生気のない白い頰に反して、表情が明るく、頰の輪郭がやわらかかった。
「お前のそういうところが好ましいよ」
そう言った主の口の両端が、ニィッと耳まで裂ける。笑うと、他の吸血鬼とはまるで比べ物にならない、一本一本が凶器のように鋭く尖った歯が現れる。
いただいた山羊の兜ごと、深々と頭を下げた。
「ここは静かだ」
縁側から見える庭の風景を眺めつつ、主が言った。穏やかな声で、まぶたが半分ほど落ちて瞳を隠していた。
「お前が適任なのだ」
組んだ腕の先の手が、主自身の肘をポン、と叩いた。さらに何度か、ポン、ポン、と肘を軽く叩いていた。
「…何の適任であると?」
こういった時の主への発言が良くはないタイミングであるとわかっていて、口から質問が出てしまった。
顔を庭に向けたまま、主が目だけを動かし、こちらを見た。思わぬ鋭い視線に、肩がこわばった。
「お前は何も考えず、あの小僧のそばについていればよい」
正座した膝に乗せた手に、じんわりと汗がにじむのを感じた。
「決して逃がさず、死なさず、あの小僧を見ていろ。お前の仕事は、今のところそれだけだ」
「はい」
しばらく間をおいて、主が視線を庭へと戻した。
疲れがどっと押し寄せた気がした。体じゅうに張りつめていた緊張が、時間とともにゆっくり、少しずつ解けていった。
斧の柄を掴んだ瞬間、扱い慣れた武器を手にしたことにより、全身の筋肉が反射的に収縮し、斧を手にした一点に力が集中するのがわかった。振り下ろされた刀を眼前で受け止めた。暗闇に火花が散った。
斧の刃と、刀が擦れ合う耳障りな音がキリキリと響く。鳴る刃と刃の向こう側で、篤の目が赤く揺らぎ、笑みを作った口の端から尖った歯がむき出しになった。
柄を握る手に力を込める。上腕の血管が切れるのではないかと思うほどに力を入れ、篤の喉元まで刃先を押し込む。ぶつかる刀が小刻みに鳴った。
「頭にくるのは、こっちの方だ」
篤が言った。喉からしぼり出すような声だ。
「弟に手を出したな」
男の目を正面から見た。明とよく似た目元が、感情の波によって歪められている。
「ああ」
答えた直後、男の跳ね上がった足に斧を握る手を蹴りつけられる。強い蹴りに、刀を押す力がわずかに緩み、その隙をついて刃を押し戻される。
ガチガチと刃が擦れ合う音が非常に近くから聞こえた。再び火花が飛び散った。
「このまま、手元が狂ったことにしてしまおうか」
篤が言った。日本刀の切っ先が山羊の鼻をかすめる。
「いい考えだ」
被り物の下の口が囁いた。斧に勢いをつけて刀を弾き飛ばした。篤が後方へ飛び退った。
ゆっくり、円を描くようにして距離を保つ相手に、両手で柄を握り直し斧を構えた。使い慣れた武器は手に馴染む。
一瞬たりともこちらから目を離さず、男が周囲を歩き続ける。飢えた肉食獣のようだ。
風の音に紛れ、相当近くから咆哮が聞こえた。先ほどから聞こえ続けていた遠吠えの持ち主であることは確かだった。
長い咆哮だった。邪鬼の鳴き声など聞き慣れているはずが、どこか腹の底がぞっとする感じがした。
「お前も俺も、所詮釣り餌だ」
背後で篤が言った。咆哮にかき消されそうに声が小さかった。振り向いた私を見返し、考えの読みとれない表情を浮かべていた。手に刀をぶら下げ、切っ先を地面に向けていた。
咆哮が止んだ。
「…」
動きを止めた体の背を汗が流れ落ちる。腰のくぼみあたりで滴が止まった。
「……やはりそうか」
被り物に覆われた自分の大きく割れた口の中で、左右の歯がかすかにぶつかった。舌が自分のものではないような感覚だった。
向かい合った互い、肩で息をしていた。
「合っていたか?」
篤の姿が、今ではもうはっきりと見える。暗闇に目玉が兜の下で動き、対象の動きを正確に捉えるだろう。
鋼鉄化した身体から意識的に力を抜き、斧を構えた。応じるようにして相手も体の前に刀を構えた。すべての動きが音もなく行われた。汗をかいた体に夜気が冷たく、目の前の男もきっとそうであるのだと思った。
「どちらでも構わん…」
私が言った。相手の足がわずかに動いた。
「俺はただ、言われた通りに動くだけだ」
飛び出したのは二人同時だ。
斧と刀がぶつかり合い、火花を飛び散らせ、うるさいほどの金属音が互いの間で響き渡った。
「矛盾しているな!」
音に負けじと篤がわめいた。
斧の先が刀の刃を滑り、柄を握る篤の指を落とそうとした。篤がすかさず刃の角度を変える。斧の重みに耐える刀が悲鳴をあげた。
「お前に言われなくとも」
斧を押し込む。刀が悲鳴をあげ続ける。地面に縫い止められた篤の足が土にめり込み、踵が土に埋もれていく。
「わかっている」
篤の首元まで刀を斧で追い詰める。喉まで刀が押し戻されると、男が苦しげな表情を浮かべた。刀身が激しく震えていた。全体重を斧にかけ、刀身を折るほどの力を入れた。
「言われずとも…」
このままいけば、頭部を切断できるだろう。
あの晩、明の声に先に気がついたのは、主の方である。
「……」
私と向き合って座っていた姿勢から、主は突然立ち上がると、静かな足取りで寝室の方へと移動した。猫のように足音がしなかった。
遅れて寝室に足を踏み入れ、肩まで布団をかけた男を見下ろした。
明は目を覚ましていた。ぼんやりとした顔つきでこちらを見てきた。いまだ夢見心地といった様子で、敷かれた布団の横に座る主には、気がついていないようだった。
「どうした」
声をかけた。寝室は薄暗く、立て付けの悪い硝子戸を締め切っているせいで、やや空気がこもって、気がとどまっているように感じられた。
男がもごもごと口を動かした。主が座る方とは反対側へ移り、男の枕元に膝をついた。
布団から伸びてきた手が、腰巻きの上から膝に触れた。
「斧神…」
か細い声が自分の呼び名を口にした。指が引っ掻くようにして腰巻き越しの膝頭を触る。熱に浮かされているのかと思ったが、視線はこちらを捉えていた。
「水を持ってこい」
頭を持ち上げ、目の前の主を見た。主は明の顔を見下ろしている。居間の明かりによる逆光で、表情がわかりづらかった。
明をもう一度見下ろした。もう目を開けておらず、布団の中で、ひび割れた唇から呼吸しづらそうに熱い息を吐いていた。
いくら探しても吸い飲みが見つけられなかった為、止むを得ず流し台の蛇口からグラスに水を注いだ。
水を持って寝室へ戻った私を見て、主は立ち上がってその場から退いた。私は枕元に膝をつき、男の名前を呼んだ。
明が閉じていた目をうっすらと開けた。こちらを見た。
「起きられそうか」
薄く開けたまぶたをゆっくりと瞬きさせ、明がかすかに首を横に動かした。前髪が汗でひたいにはりついていた。声を出すのも億劫といった様子だ。
背後からの視線を痛いほど感じた。主がどうさせたいのかが伝わってくるので、その通りにするしかない。
さらに近くに寄り、体の下に手を差し込んで、男の肩をなるべく慎重な手つきで抱きかかえる。首が安定せず、ぐったりとしていた。自分の肩を動かし、男の頭をうまく肩で支えられるようにする。
「明」
私の肩に片頬をつけ、明のうつろな目がこちらを見上げた。片手に持ったグラスを口元に持っていった。
「…」
グラスをほんの少しだけ傾ける。水が重力に従って透明なガラスの内側を移動した。明の開いた口元に、グラスの縁から水がぶつかった。
男が咳き込んだ。口の端から飲みきれなかった水がこぼれ落ち、男の胸を濡らした。慌ててグラスを離した。けんけんと咳き込む男の肩を抱く力を緩める。
「すまん」
明が苦しげに身をよじる。熱い息が私の上腕にかかった。衣服越しに伝わる体温が高く、思っていたよりも熱が上がっていることがわかり、動揺した。
「…下手だな」
背後からポツリと聞こえた呟きに、無い顔が赤面する気がした。かわりに被り物の下の頭部が熱くなった。
(「ならばあなたが」)
咳が落ち着くと、明の潤んだ目がのろのろとこちらを見上げた。私を見ながら、わずかな隙間ほどに口を開けた。
「ほら、くれだと」
主が後ろから言う。
明が開けた口の奥に、並んだ歯と、薄い舌が見えた。
「飲めるか」
問いつつ、再びグラスを口元に持っていく。今度はもっと慎重に、グラスを傾けた。明の唇がグラスの縁に触れた。
時間はかかったが、グラスの三分の二ほどあった水が、最終的に四分の一ぐらいまでには減った。く、く、と時間をかけて、自分の手から水を飲む男を見ていると、なにやら形容し難い感情が胸の中に生まれた。言葉で表しにくいそれを、大昔に自分は感じたことがある気がした。ただ、あまりにも昔のことで、時間が経ち過ぎていて、もう今の自分にはそれが何なのかがよくわからないのだった。
「着替えを持ってくる」
私が言った。
男のシャツの胸元が水で色を変えており、着替えさせなければならず、それを伝えようとしたが、男は目を閉じ、体から力を抜ききっていた。全身を私の腕に預け、くたびれた顔つきで眠っていた。
背後を振り向いた。主は同じ場所から一歩も動いていなかった。私たちを見下ろし、眠たげな表情をしていた。
「子どもに水を飲ませるのに、どれだけ時間をかけている」
なんと返せばいいかがわからず、腕に「子ども」を抱えたまま、困惑した気持ちで、寝室から出て行くその背中を目で追い続けた。
(「あんたとのキスって、どうやればいいんだ」)
星のない夜だった。思えばあの時から、何かがおかしくなりはじめたのだ。
お目付役が話し相手になり、話し相手が、わけのわからないことになった。親友だなどとよく言えたものだ。もはや好敵手でさえもない。こじれにこじれ、もともとの間柄もどこかにいってしまったように思える。それらは果物が腐るように、目の前にありながら、まるで別の物に変質してしまった。
慕わしいと感じ、手を取り合って同じ道を歩いていけたらと思ったこともある。同じ主を持ち、同じ光に向けて進むことが可能であればそうしたかった。人間だった頃に出会っていられれば、と考えたくもない「もしも」を何遍と繰り返し、握り締める手でぐしゃぐしゃにする。
自分には何もなかった。かつての名残など、もはや一つもなかった。とうに空にしたはずの場所に、しかし男は、何かが残っているとしつこく言う。
その残ったかすをかき集めて、男が汚れた手で形を作る。何も残ってはいないと。そのようなことをしても無駄だというのに。頼んでもないのに勝手なことばかりをしては、男が触った後には必ず、光る屑が一つ残った。
(「お前だけだ」)
鬱陶しく、邪魔で、目障りにしかならないちっぽけな屑を、それでも自分には捨てることができなかった。それは、自分にはもったいないほどの価値のあるものだと知っていた。手の中で転がした屑を、いつまでも見つめ続けていた。幼い頃口にした金平糖のように、屑はひたすらに小さく、空に無数に浮かぶ星屑のように自分には遠かった。
何もかもが記憶の亡霊と化した体の奥底で、男だけが生きている。男だけが生身の体で、俺に触れる。
被り物の下の目玉が意思に反して素早く動いた。ある一人の声に、私の身体は無条件に反応するまでになっていた。
山羊の兜を通した視界の向こうで、転げるようにして近づいてくる男が両手で藪を掻き分けた。
「斧神」
明が叫んだ。今度ははっきりと聞こえた。しかし、叫ぶ声がずっと小さく、暗闇の中に浮かび上がる体が先ほどよりも黒く汚れて、夜に同化しそうな姿になっていた。顔だけが肌の色を残して闇に白かった。
「やめてくれ、斧神」
距離を詰めるのがもどかしいとばかりに、明が声を張り上げた。
「斧神」
篤の喉に峰が食い込んでいた。刃と刃が擦れる不快な音が互いの鼓膜を震わせ続けた。両手に使い慣れた重みを感じた。
頭部を切り落とせば終わる。
刀身が折れる寸前の悲鳴を上げていた。
「斧神」
目の前の細められた赤い両目が、苦しげにも、笑ったようにも見えた。篤の両腕が限界とばかりに震えていた。
切り落とせば終わる。
全体重をかけた上体から力を抜いた。
刃が鳴る耳障りな音が止まり、途端に斧が重みを増したような気がした。
殺意が徐々に、自分の体から霧散していくのがわかった。斧の下から刀が抜け出た瞬間がわからなかった。握り締めた斧の刃先が地面に突き刺さった。
明の状態を確認したかった。もはや戦う気が失せていた。
(「明」)
かつて感じたことのない、激しい痛みが。
痛み。
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛」
絶叫。
2016.12.5