青白い月が真上にはりついている。靴底が分厚い雪を踏みしめる感触があった。誰かに呼ばれたような気がしたが、振り返っても、誰もいない。
右手に握りしめる刀の切っ先が雪に埋まりかけている。立ち尽くす自分の背中にぶつかるようにして、凍てつく風が吹きすさび、深い雪の上にさらに積もった新しい粉雪を飛ばしていく。
薄っぺらな月が紺に透けて見える。
髪が風に煽られて、瞬きをした。静かに凪いだ心を思った。自分の目が、未来を見ているのか、過去を見ているのか、今を見つめているのか、判断がつかないでいる。
どうして、俺は、こんなに落ち着いた気持ちでいるんだろう。
言葉が出てこない。吐く息が濃く白い。
雪原を囲む森がざわざわと揺れたので、体の向きを変えて、もう一度だけ声がした方角を見た。目を凝らし、遠くに人影を認めた。これはいつの記憶なのかと思い出そうとした。
誰と見たものなのかを、思い出そうとした。
「え、あ…? あ…」
全身が痙攣した。寝起きの声が自分の口から出た。かすれた声が飛び出し、混乱した頭が先ほどまで見ていた景色を手繰り寄せようとした。白くまばゆい雪野原がまぶたの裏側で点滅するようにして消えた。夢が遠ざかっていくのを感じる。
喉が痛い。
でたらめに動かした指先が何かを引っ掻いた。
また体が強く痺れた。乾燥した喉からひび割れた悲鳴が出た。
「ようやく起きたか」
覚醒しきらない頭で、状況を認識しようとした。全身に汗をかいていた。もう朝かと思ったが、暗闇しか目に入ってこず、眠る前の明かりは消されていた。手に触れたのは、感触から察するにシーツだった。布団の上に寝かされていたのだろうか。
今度はまぎれもない嬌声がこぼれた。
強く揺さぶられ、指先が震えるほどの快感が脳天をついた。
上に乗る者に手を突き出した。その手をつかまれ、強い力で手首を握られる。開かされた脚も無防備な姿も頭から消えていた。体温の低さと、香る匂いで、完全に目覚める前に、正面の相手が誰だかわかった。
「ずいぶんと可愛がられたようだ」
ここが、と囁かれ、相手の熱が内側をすり上げた。声があふれた。半分は泣いていた。頭がガンガンと痛んだ。痛むほどひどい快感が肉体を支配している。それを受け取るまいと、体が拒否反応を起こしている。精神と肉体が分裂しようとしている。
涙まじりの息を吐いた。
「何で、何で…」
両手で腰を持ち上げられ、さらに男との結合が深くなる。気を失う前までに別の男と繋がっていた場所に、興奮する雄がぐっと押し込まれた。自分の声がひどく濡れる。指先まで快楽に浮く。
もはや種類の異なる快感だった。自分の体が、どうしてこうなるのかがわからない。なぜこの男に。どうして。
嗚咽をこぼし、男に懇願した。
「雅、頼むから、もう今日は」
「無理だと?」
うなずく。その動きが相手に見えたかどうかも判断がつかない。
暗闇の中で、男がどんな表情をしているのか、知ることがただ恐ろしかった。恥も、意地も、矜持も、何一つ残っていない。情けなく涙を流し、ひたすらに自分を守ることしか頭にない。
視線を感じる。男の陰茎をくわえている自分の内側が、悦びにうねっていた。
小さな笑い声がした。
「お前は、私との、これが、一等好きではないか」
雅がゆっくりと腰を引いた。陰茎が抜けていくその動きにさえ、男のすべてを感じてしまう。それを抜ききらずに、じゃれつくように、雅が小刻みに濡れた穴を突いた。背が浮いた。
咄嗟に手で口を覆った。
胸の真ん中から自分の全身が溶け落ちる。形がなくなり、もとには戻らなくなる。宮本明でなくなってしまう。
自分で塞いだ唇がみっともなく震えた。
「う、ううー」
涙がぼろぼろとあふれては顔の横を伝い、耳に入って、頭の下のシーツを濡らした。我慢できなかった。涙が伝い落ちて髪を濡らした。
雅の手が頬を撫でた。
「泣いてどうなる」
穏やかな声で、誰とも違う手が何度も頬を撫でた。ますます涙が溢れた。頭が痛む。男の性器に吸いつく肉が、腰を揺すり、今すぐにでもなかを突いてくれ、こすってくれと訴えている。欲求の激しさで脚が震える。
暗闇に目が慣れてきていた。白い髪と赤く煌めく一対の光が、体の上にある。
柔らかい部分に、容赦なく突き立てられる乱暴を求めている。自分の身体が、その乱暴を好んでいる。口を覆う手をどかされ、むせび泣く声が部屋に響いた。子どもみたいに垂らした鼻水を、男の手が拭った。
自分の全身がそれが欲しいと叫んでいる。魂が、この男を呼んでいる。どんな形であれ後を追いかけてきたように。
それは闇夜に光る松明のような、暗い海を照らす灯台のような、恐ろしいほどに魅力的な衝動だった。
「泣きたければ、いくらでも泣けばいい」
障子の薄紙を通して、淡く白い光が部屋の中まで届き、室内をうっすらと照らし出した。
「構わんよ。お前はここにいる」
男がこちらを見下ろしている。白い髪が額にかかり、細められた瞳が俺を見ていた。
俺だけを見ていた。
「ここに」
あふれる涙を男の親指が拭った。
「私のそばに」
肉体に意識が追いつかない。愛情も友情も、信頼も憧憬も、どれ一つとして存在し得ないのに、重なる肉体が生む快感は果てしなかった。果てしなく突き立てられた。
握りしめたシーツがぐしゃぐしゃに乱れ、汗のにじむ背中を敷き布団に押しつけては、腰を浮かせて相手にこすりつけた。色素の薄い両手が腰回りの肌に食い込み、正面から交わる男が、俺の首元に顔を埋めた。熱い吐息がかかった。
鋭い牙が皮膚をかすめる。深くもぐりこんだ性器の形がわかる。
噛まれるのかと思ったら、自分の後孔がきゅうっと男を締めつけた。
「それは、なんの期待だ」
「ちが、あっ、う」
一度締めつけたら、入り口がさらに幾度か勝手に動いた。顔が熱くなる。興奮した表情の男が息だけで笑った。体内の性器がさらに硬さを増し、柔らかくなった肉を緩やかに押した。
自然と口が開いた。
なかの粘膜が男にまとわりつく。
悦んで吸いつく肉壁に、俺の胸に顔を埋めたまま、雅が腰の律動を激しくした。声を抑えることなどできなかった。甘く濡れた声が部屋に響き、繋がったところから絶え間なく水音がした。ひどく感じている声が、自分のものではないようだった。行為の匂いが部屋じゅうに充満していた。
「外に聞こえるな」
男の言葉がかろうじて耳に届いたが、その意味も今の頭では理解ができなかった。目を合わせる前に、男の口が尖る胸の突起を含む。口を開けた一瞬、暗闇にも赤い舌が見えた。
唾液を含んだ男の口内は温かい。
「それっ…」
じゅっ、と片方の乳首を強く吸い上げられ、腰が小さく跳ねた。逃れようとする動きを追いかけて雅が強引に腰を揺すった。
「駄目、だってぇ…!」
男の舌が突起を押し潰し、舐め、吸い上げる快感に、胸の裏側のさらに奥、知らない場所がひどく痺れる。何かを求めるようにきつく吸いつかれ、胸を突き出して相手の頭を両手で抱く。見た目ほど柔らかくもない白髪が湿っている。
男がさらに体を寄せ、体重がかけられた。肌と肌が重なり合い、心臓の音が伝わるほど密着する。
性交を行なっていても、刃と刃を突きつけ合おうと、この男はたいして変わらない。きっとどちらも同じことなのかもしれない。
口を離した男の口内から唾液が滴った。絶え間なく与えられる快感で視界が涙でぼやけていた。胸がじんじんした。
心臓が痛い。
「お前がいれば、何でもいい」
自分が守りたかったものは。守りたかった世界は。
「もう、いい」
もがき苦しんでまで手に入れようとした未来。
にぶく光る赤が近づき、重たいまぶたが、自然と落ちた。泣き疲れた目には月明かりが眩しかった。
「私の夢よ」
唇に触れた温もりと、かすれた声が耳に残った。