寝床から出てもあたりは静かだ。誰もいない。あたりまえだ。全部わたしが追いはらってしまった。
最初の頃、ベッドというものがどうしても気に入らなくて、寝心地が悪く、あんまりにも重心が安定しないものだから使って二日で斧で打ち壊した。やはりどうも畳で寝ないと落ち着かない。ベッドなるものは薪にして燃やした。
衣服を着用し、スカーフを巻きつけたところで、いつもよりも明かりが少ないことに気がついた。
瞬きをし、目で燃える光を数えて確かめる。かがり火の数が足らない。
あの島にいた頃よりも、はるかに広い部屋とも言えぬ空間で、どこまでも暗く、人気がなく、吐く息が真っ白になるほど寒く、立ち尽くすわたしは一人だった。
幾度か大地震が起きた。建物が崩れ、火が上がり、増えた同族も人間も片っ端から減っていった。上陸した年に見た風景と、今では、この国の様子は大きく変わった。それを面白いとも、気に入らないとも感じない。どちらにしろ、何度大地震にみまわれようと己れが死ぬことはなかった。体が木っ端微塵になっても死なないのに、建物に押しつぶされた程度で、この体が生きるのをやめることはないだろう。
残った同族は徐々に数を増やしていったが、人間が増えることは、あまりなかった。度重なる不幸と災害で、心身が疲れ、弱りきっているようだ。
国が日に日に痩せ細っていく。
同族に食い荒らされる日本という国を、ただただ眺めていることが、いつしかわたしの暮らしになった。
数えきれないほどの夜と、朝と、昼をこえた。太陽がのぼっては沈み、月が出ては星が瞬いた。あの島にいた頃のように、何もかも変わらずに世界は動きを止めず、日本が滅んでいくさまに知らんふりをして、わたしにも平等に朝焼けは美しく灰色の雨は崩れ落ちた建造物を濡らした。
昨日と今日の境目がわからなくなり、日付の感覚がいつかなくなりそうなことに気づく。悪い兆候、いやな兆し。ずっと眠っているような気がする。
部屋の角に置いていたかがり火が一つ、支えごと床に倒れている。消えかけた火がくすぶっていた。
近くまで寄って行き、倒れた火を見下ろした。
しばらく感じたことのないような感覚が、背中を押し、ぞわぞわと頭皮まで鳥肌が立った。
首を押さえた己れの手が生温かかった。言葉通りに、首がぐらついた。背後から斬りつけられたのだとわかった。傷口から血が噴き出しているらしい。
口を開けると、ごろごろと音が鳴って喉から血が溢れた。血でうがいをしているわけだ。
「どうしてくれる。首が、お前、とれかかっているではないか」
取れかかった首を胴体とくっつけようとする。尋常じゃない速度で細胞が活性化し、数秒も経たないうちに断たれた肉と骨がくっつき始めた。
また飛びかかってきた侵入者を、左脚を前に突き出して蹴飛ばした。蹴られた相手は部屋の奥まで吹っ飛んだ。
「やれやれ」
呟いた言葉は、しかし奇妙な響きだった。ずいぶんと変な感じだ。己れの気分が高揚していることに、少し遅れて気がついた。
頰をどのように動かせばいいのかがわからず、表情を作れなかったが、どうも自分が笑いたいのだということがわかり、やっとわずかに唇を震わせた。忘れていた。もう何年も、笑っていなかった。
首の位置を両手で調整しながら、賊の顔を確認しにいった。蹴った感触にあまり手応えがなかった。
暗闇の中で、倒れた相手の首根っこを掴んで無理やりに立たせると、侵入者がうめき声をあげた。首を傾げ、相手に顔を近づけた。聞き覚えのある声だ。
「お前は、誰だ?」
問いかけた言葉に、男がハッとした表情で、こちらを見た。その表情にも見覚えがある。
男の口に指を差し込み、確かめた。牙がない。
「人間か」
首から手を離してやると、ふらつきつつも、男はなんとか一人で立った。
片腕に仕込んだ刀を体の横に下げたまま、男がわたしを愕然とした面持ちで見上げた。
「本気で言っているのか…」
老いた男だった。うるおいをなくしてかすれた声からもわかるが、一番目立つのは仕込み刀とは反対の手だ。しわが深く刻まれた手の甲は、屋外の強い紫外線に色を変え、指先の爪は黒ずんでいた。
「おれを忘れるのか、雅」
男が言った。喉からしぼり出すような声だった。
頭蓋骨の内側から何かがかりかりと弱く引っ掻く。何かを忘れている。
「貴様…」
男の両脚から力が抜け、がくんと床に膝をついた。刀の切っ先を床に突き立て、それを支えに倒れまいとした。
灰で真っ黒の汚い衣服をまとった、老人。
この痩せ老いた男。
暗闇の中で過ごしたあの長い時間が、ふと恋しく思える時がある。あの頃は眠ることでしか退屈を紛らわせないと嘆いたが、檻から出ようと、どこに行こうと、結局は退屈はなくならず変わらずにそこに存在した。ほんの一瞬だけ、それがなくなるような気がしていたのに。
わたしは誰かがここへ来るのを待っていた。毎日期待を胸に抱き過ごした。いつかその誰かを迎えに行こうとしていた。
一日が十日になり、十日が百日になった。千が万になり、話し相手もいよいよ尽きると、いつしかそのことを忘れた。
忘れたことにさえ、気がつかなかった。
十四万六千のうち、わたしの心臓を動かしたのは、たったの数百日。
「誰かが来るのを待っていたよ」
仕込み刀を支えに、折れそうな体を震わせていた男が顔を上げた。頰がこけ、髪も髭も伸ばし放題で不潔極まりない。左と右の腕の太さも違う。弱々しく、醜い、大嫌いな人間。
それでも、わたしはこの男を以前誘ったことがある。
体の何処かで、何かがカチッとうまくはまったような、不思議な感覚がした。
「名を名乗ってくれ」
男の肩に手を置き、顔を寄せて囁いた。
苦しげな顔つきで、男がわたしと見つめあう。ああ、その顔も、見たことがある。
ひび割れ、痛々しく切れた唇が歪み、そこから乾いた声がこぼれ出た。
「宮本、明」
大きく声をあげて笑いたかったが、まだうまく笑えなかった。リハビリには、ずいぶんと時間がかかるだろう。
構わない。待ち人は来た。
2017.1.19
お題『壁の花』
本土に渡った後の雅で捏造未来。