人造人間4号

『お前がこの物語の主人公だ。目にうつるすべてをこぼさずひろいあげようとしてきた、お前の時間の話だ』

 雷鳴が轟き、世界に一瞬白が焼きついた。カメラのフラッシュを浴びせられたように、風景の隅々までをパッと光が焼いた。腕先の刀の輪郭が消える。
 まぶたを閉じなかった。
 ふたたび暗闇があたりを包むと、自身の息の白さが確認できた。雨雲のにおいと混じりあって、わずかにそこに残った冬を感じた。
 気温はそこまで低くはなかった。降りしきる雨で肌は冷えているが、身のうちでは、激しく肉という肉が、踊るように燃えている。持ちうるエネルギーに終わりは感じない。
 義手を握りしめる手にきつく力がこもった。雨で滑りやすくなっている。
「どこにいる……」
 稲光を目で追いかける。
 灰色の谷と化したビルとビルのあいだを確認しながら、慎重な足取りで進む。乗り捨てられた車のかげや看板の裏に、目や耳をそばだてて、歩く。そんなところに隠れるはずもなかろうが、この相手に関しては何をしてくるかは予想をつけられない。
 足を止めぬまま、広い道路の端端に視線を這わせた。
 雨が頬を、耳を、背を、頭を、強く叩きつけてゆく。

 どうして今、このタイミングで彼らのことを思い出すのだろう。
 親友を背負い、墓を目指してよろめき歩く、暗い道の先。夜の暗がりにぼうっと浮かび上がる墓石のそばまで近づくあいだに、友が息たえたのが俺にもわかった。
 もとの半分になった巨躯の内側から、男の心臓の鼓動がこちらの背中に伝わって、それが徐々に弱まっていく。
 体温が着々と失われてゆく。
 決まりきった現実が、その感じが肌に染み入るのを、何にも止められない。神様でさえ。
「…っ…ぅ…」
 魂が抜けていく瞬間を自分の背中で知る。命の灯火が消えていく、そういった事象の一つ一つが、胸を潰しにかかってくる。
 もう二度とこの相手と言葉をかわすことは、できないのだと。
 親友は死ぬ。止めても縋っても、もうどこにもいない。
「うぁあ」

 兄の手を離したくなかった。教会の屋根で祈った。神様。
 幼なじみの心臓を、時間を、人生を取り戻したかった。あの跳ね橋さえなければ。恨んだ。
 神様。
 これまで幾度となく繰り返してきた後悔と慟哭が、心の穴をひろげていく。穴の奥にある空虚が、腹の底まで寂しい体験となる。
 視線を持ち上げると、ぽっかり空いた穴に手首まで差し入れて、笑う男がいる。

 動物園から逃げ出した猛獣は、広い世界を知らないだろうか。己よりも強い生き物が存在すると、知れば学習するのだろうか。恐怖を。
 それなら、どちらが檻の中だったんだろう?
 お前か、それともそれは…

「…案外、島は「外」だったのかもな…」
 自身も人のことは言えないが、東京の街にこれほど馴染まない男もいない。この男が馴染む場所など、そもそも最初からないのかもしれない。
 藍色の交差点の真ん中で立つ礼服姿が、降る雨で白くけぶっている。白髪頭が濡れて、髪が額にはりついていた。激しい雨の下で、目を開けて、こちらを見ている。片方の手をスラックスのポケットに入れて、無表情と微笑のあいだのような顔でいた。
 この男さえ現れなければ。
「…」
 男がなにかを口にした。声の調子もわからなかった。
 右腕の刃を体の前で構え、片足ずつ滑らせるように、前へと進む。
 靴の中が水でズブズブに濡れていた。巨大な獣の唸り声のような雷鳴が、空から降ってくる。先ほどよりも近い。
 男の間合いまで近づくと、声が耳に届いた。

「無人であれば、都会も田舎も変わらんな」

 白い肉体は、人智を超えた禁断の技によってつくられた。幾重にもかけられた呪いは目に見える形をなして、いつか現実を歩きはじめた。作ってはいけないものを作ってしまった。
 そのことに気づいた誰かが、世界をやり直そうとしている。

「…お前の血が飲みたい」
 男は同じ言葉を繰り返している。
 飛沫が散り、自身の上段蹴りが男の頭をとらえた。首を飛ばすつもりの蹴りが男の首の骨を折った。同時に、右の二の腕をしっかりとつかまれ、グッと向こうに引き寄せられる。体勢が崩れる。
「しぶといん、だよ」
 折れた首が低く笑った。
 義手を奪われまいとあらがうも、白い手が離れない。ものすごい力だった。
「餌をくれ」
 雅がささやいた。その顔を凝視した。
 斜めになった不安定な首で、俺を見ている。わずかに開いた口のなかに牙が見える。
「お前の血の味が、恋しい」
 細められる目が雨雲の下でも鈍い光をたたえていた。赤と黒の混ざりあった眼球が、まぶたに隠れた。俺の前で、雅は一瞬目を閉じた。
 猛然と刀を振り上げようとする俺の腕を押さえたまま、すぐにまた目を開ける。
「なぜお前なのだろう…」
 骨が修復される生々しい音が聞こえはじめ、息を激しく吐いた。叫び声を上げ、手を振りはがした。男の爪で腕の皮膚がはじけとんだ。痛みなど、もう問題ではない。
「どこにも行くな」
 叫んだ。
「俺とここで、死ぬまで、戦え」
 その一度で喉がすり切れるまで。一度で声が出なくなるほどの。
 腹の底からの叫びが。
「戦え」

 もう逃がしてはいけない。どこにもやってはいけない。人を殺す。生かせば生かすほど、大事な人がどこかで死ぬ。殺されてしまう。
 そしてそれは俺のせいなのだ。
 もうどこにも逃さない。どこにもやってはいけない。どちらかの生死が決まるまで。俺の命を使い切るまで。
「だから」
 雨がますます強さを増している。男の声はごくごく小さなものだったが、その声の響きはかき消されなかった。
「そのつもりだと、言っているではないか」
 胴体の上にのった頭が、骨を噛むような音を立てて安定していく。男の口からもれる息が真っ白で、数秒遅れて、その白が雨粒にまぎれていく。
 この首を飛ばすために、これから数時間、何度死線を越えなければならないのだろう。
「明…」
 雅が一度咳をし、喉にひっかかっていた血を吐いた。

「どこにも行くな」
 声が裏返った。
 強烈な閃光があたりを照らした。空を走る光が互いの姿をくっきりと浮き立たせた。どしゃ降りでも声が聞こえる距離に、二人きりでいることを、互いがほとんど同時に気づいた。気づいたというより知った。
 自身の声が震えていた。
「俺の目の前から、いなくならないでくれ」
 キリキリとしぼり続けてきた弦が、限界まで張って、張って、責任を取らなければ、もうどこにもいられない、どこにも行きようがない、という気持ち。状況と、失ったものの果てしなさ。
 ここで仕留めなければ、今のままではいられないという、切迫した思いが、喉を痙攣させた。
「頼む、最後まで」
 発する自身の声が小さくなっていく。雅に聞こえているのかどうかもわからなかった。
 男は黙っている。

「最後までやらせてくれ」

 走り続けることに終わりが欲しい。ゴールが欲しい。追いかけて、追いかけて、伸ばした両手になにも残らず、流した血と、潰れた魂に、報いるものがなにもないのは、もうやりきれない。耐えられない。
 もう続けられない。
 雅。

「お前の前から、退いたことはない」
 雅が言った。長いこと、瞬きもせずに、俺を見つめていた。
 雨が目に入る。
「いつでもお前の道行にいる」
 体の横に垂らされていた手が持ち上がり、雅が人差し指で俺の胸を指した。心臓の位置だった。

 雅の目は逸らされなかった。
 声が出なかった。
 空が一段と明るく光り、雨音にごまかされない雷鳴が轟いた。煙にも似た雨の匂いが、鼻腔にやわらかく、あまかった。
「死が分かつまで」

 神様。どうしてこんな生き物を、つくった。
 野にあるものが、野にあるままでいられたなら、きっとそこでこの男は。男の生は。

「  」

 振り絞った声は男の名にならなかった。
 扇子を開く音が雨夜を裂き、二人が歩んできた日々を、真っ二つに断ち切った。薄い唇が細長く広がって、ゆるやかに歪む。
 血と泥と涙を道連れにした日々。
「向かってこい、明」

『わたしが愛した物語だ。わたしだけが愛する価値を見出した、たった一人の、人間の話だ』

2021.6.8

最終決戦捏造。