暗闇遊び

※雅明Rー18。斧神戦後、明がギプスをしている休養期間あたり。性的描写、流血描写にご注意ください。

 目の前にいるものが、はたしてそうなのか、否か。それが確かなことなのかが、今ではもう、わからないのだった。

 相手のからだに手を伸ばすと、掴んだ手のひらが汗で滑る。どこに触れたのかさえもわからない。それは肩かもしれない。腕かもしれない。暗闇が果てしなくあたりを埋め尽くす為に、自分を組み敷く相手さえも、よくわからなくなる。
 違う。本当は、わかっている。
 目には見えないだけであり、本当は、目の前にいるのが誰かも、どんな顔をしているかも、自分が一番よくわかっているはずだ。わからないふりを、していたいだけだ。

「約束は、守るんだろう……?」

 息を切らし、呟いた言葉を、相手がひろいあげる。耳元に吐息がかかる。喉奥で、低く笑う声がする。

「守るよ」

 鼓膜にじかに注がれる声に、薄ら寒いものを感じる。肋骨の隙間に氷を滑り込ませるように、忘れもしないその声が、魂を硬くする。
 それと同時に、下半身から胸へ、首から頭頂部へと、全身を奇妙な感覚が震え伝った。耳にかかる息は熱く、湿っている。冷たい肌とは対象的に、生き物の気配のする息で、唇で、柔く耳を咥えられると、どうしようもなく呼吸がしにくくなった。
 様々な感情が胸でやかましく渦巻くのに、その一つ一つに、名前をつけることがままならない。自分は、どうかしている。

「絶対に、守ってくれ」

 口から出た声は途中から言葉でなくなり、消え入る寸前の遠吠えのように、ささやかなうめき声となった。白が暗闇に浮かび上がる。
 白が暗闇では、部屋の隅に立つ幽霊のごとく目立つ。柳の下の幽霊も、きっとここまで、気味が悪くはない。

「相変わらず、疑り深いのだな」

 笑い声は軽やかに空気を震わせた。無事な右腕をとられ、まだ、まだ奥深くまで。侵入を許す。
 拒む身体は強引にひらかれていく。

「約束…」

 ひざ裏を持ち上げられては、なす術がない。そう思いたいだけであるのか。自分にはわからない。
 こすれあう肉が、肌が、温度が。俺の思考を根こそぎ奪っていく。何もかもを奪っていくその腕で、その手で。

 折れた左腕は夜になると痛む。仇敵の右腕との対決後、師が与えてくれた休息期間は、やはりありがたかった。しかしながら、しばらくもすると、性格上、ただごろごろと寝ているわけにもいかずに、どうにかして体を動かせないものかと鍛練の方法を探り始めた。休養をとるにしても、きっと何かできることはあるだろう。そう思い、外に出た。
 だが、結局のところ、両腕が使えなければできることは限られている。走れば骨に響いた。刀は振るえるが、筋力トレーニングはほとんど無理やりだった。無茶なことをすれば、すぐに誰かに見咎められ、止められる。
 仕方なく、屋内で瞑想にふける日が続いた。師がようすをのぞきにくる日がたまにあり、そんな日は二人で向かい合って座ると、少しばかり気が慰められた。

「おとなしくしておれ」

 屋内にいても、春の訪れは感じる。

「…じっとしていられないのです」

 ボソボソと呟いた。座禅を組んでいても、雑念ははらえない。どのようにしていても、窓の外が気になってしまう。

「これも修行と思え」
「……」
「もう手をあげさせるな」

 師が言った。穏やかな調子だった。

「お前を叩くには、ワシもそろそろ骨が折れる」

 うなずこうとし、なんとなく言葉に詰まった。師の表情をうかがうも、相手は仮面をつけており、どうにもわかりづらい。
 心配をしてくれているのだと思うと、ギプスで固定された左腕が疼いた。

 それでもおとなしくしていられないのは、こればっかりはもう性分だ。

 一週間が経ち、二週間が経ち、その頃になれば、少しでも陽の下に出て外を歩きたくてたまらず、仲間たちや師に見つからないように、村の女たちに声をかけては何か仕事がないかと尋ねることを繰り返していた。ほとんどからは恐縮がられ、逃げるようにその場から離れる者が多いなか、幾人かは俺の退屈を察したように、簡単な仕事を委ねてくれた。
 そのうちの一つが山菜採りであった。

 腰かごを受けとったその日、他の者には見つからぬよう、日の高いうちにこっそりと村を出た。散歩がてら、日暮れまでにはきっと帰るつもりであった。
 刀を一振り、腰にさし、山に入る時には気分が高揚していた。

 春らしい陽気が心地よい。背の高い雑草の青くさい匂いが鼻をくすぐり、木々の間から射し込む日の光の暖かさに、歩けば歩くほど、背中にじっとりと汗をかきはじめる。

(これはいい気晴らしになる)

 本来であれば背負いかごが欲しいところだが、ギプスが邪魔で、普段は気にもしない当たり前の動作が今は難しかった。けれど、山菜が目当てというよりかは、本当は、どうにかして体を動かしていたいといった動機からの外出であるので、どこか気楽な気分であった。女たちもそれに気がついているのか、渡された腰かごは心なしか小さかった。
 時たま、立ち止まって、革手袋をはめた手で足元の草を分ける。教えられたとおりの見た目のものを探した。見つけられると、ナイフがわりの懐に忍ばせた短刀を片手で使った。
 幸い、手ぶらで戻ることはなさそうだ。気分が明るくなってくる。

 見通しは悪かった。山深く分け入るにつれて、鬱蒼とした草木が視界を遮る。
 だんだんと腰かごのなかは騒がしくなった。

(暑い)

 ひたいの汗を服の袖で拭った。このあたりで、そろそろ引き返そうかとも思った。あとしばらくすれば、日が傾きはじめるだろう。

 熊よけの鈴を持ってくるのを忘れたことに気がついたのは、音がした方向に目を向けた時だ。

 刀の柄に右手を添えた。
 進行方向から左手前方に、目を凝らした。遠く、何かが立っているように見える。

「…?」

 視力は良い方である。どうやら、熊ではないようだ。
 正体を確かめに、草を踏み分け、静かに近寄った。
 影の正体は立て看板であるようだった。

「こんな山奥に、看板とは……」

 書かれている字は泥や土埃で汚れ、うまく読めない。右手を伸ばし、汚れをこすり落とす。指を使ってこすると、白くなった泥がぼろぼろと地面に落ちた。
 徐々に文字があらわになる。

「この先…?」

「ガケ、注意」

 咄嗟に声がした方とは反対側へと飛び退った。振り向きざまに刀を抜いたが、内心、心臓がひっくり返るほど驚いた。気配がしなかったのは、人ならざるものだからではないか。

 飛び退いた先で、踏みしめた地面が滑る。つま先で踏んだ土が崩れて、かかとが何もない場所を踏む。

(ガケ、ガケ)

 シャツの下の背中を、ふうっと風で撫でられた気がした。
 世界はスローモーションで動いていき、そのあいだだけが、切り抜いたように色の流れが緩やかであった。それが、ある瞬間から突然、もとの速さに戻ってしまった。
 やってしまったと、そう思った。もう遅い。

(崖か)

 ジェットコースターで落下する時、考え事ができないように、落ちる時は、落ちることしか考えていない。考えられないのだろう。試してみたことはなかった。

「粗忽者め」

 また声が聞こえた気がした。やはり人間ではなかったのかもしれない。
 落ちてばかりだが、今度は、骨を折りたくなかった。これ以上怪我を増やすと、きっと張り手だけではすまない。

 転んで、擦りむいた膝から血が出て、泣いていたら、おぶって帰ってくれる人がずっとそばにいた。手をひいて、家まで連れて帰ってくれる誰かがいることの、嬉しさを、たまに思い出しては、猛烈にさびしい気持ちになる。もう思い出したくもないのに、誰かに手をひかれることを、いまだに求めている。失われた記憶のかけらを集めて、いびつなジグソーパズルを作る。
 いつまでも大事に抱えている。手を握る感触も、奪われた体温も。そこまで広くはない背中も。
 ふとした瞬間に思い出しては、振り上げた手でばらばらに破壊する。
 記憶はいまだ未練がましくうつくしい。

 自分が立っているのか、横になっているのかが、一瞬、わからなかった。夢の中から戻りきっておらず、ここがどこで、世界はどのような状態であるのかが、認識されるのを待っている。
 息をひそめて、じっとした。白紙に、絵の具が垂らされるのを待つ。あるいは、灯りがともされるのを。
 まぶたを持ち上げると軽く頭痛がした。頭を動かさずに、ただ一点を見つめる。過去にみたことのある夢をみていた気がする。断片的な夢の記憶が、まだまぶたの裏を漂っているようだった。
 そこで、目を開けていようとも、あまり意味はないことを知る。
 どこにいるのか、まったく認識できないほどの闇に包まれていた。

「……」

 左腕を軽く持ち上げる。少し痛むが、無事であるようだ。ほっとした。

(助かったのか)

 体をもぞもぞと動かす。どこかに横たわっているようで、背中側にかたいものが当たる。床か、地面か。吸血鬼の手術台でないことを願うばかりだ。
 風がないということは、屋内かもしれない。
 右腕を使い、手探りで周囲を探った。板敷きの床に思えるが、ざらざらとした感触は、土や砂の微細な粒子に感じられる。
 埃っぽさに咳をした。

「起きたか」

 咳が一気に引っ込んだ。

「……」
「今さら黙っても、遅かろう」

 首を動かして、声がした方の暗闇を見つめるも、はたしてそちらの方向で合っているのかどうか、自分にはわからなかった。思ったよりも声が近くで聞こえたことが、体を硬くさせた。

 今度は聞き間違えようがなかった。意識を失う前に耳にした声は夢でない。たしかに、これも、人ならざるものである。

「……お前が…俺を助けるのか」

 ふ、と相手が鼻で笑う。
 口をつぐんだ。
 かなり近くにいるようだ。衣擦れの音も、聞こえる距離に。

「なぜ、こんなに暗い」
「お前が寝坊助だからだ」
「……」

 右手を、静かに、静かに腰に伸ばした。空の鞘が指先に触れた。
 何度確かめても、鞘しかない。

 落ちる瞬間、右手にあった刀のことを思い出し、思わず目をギュッと閉じた。
 なんてことだ。お前は馬鹿だ。

「無駄なことを考えるな」

 男が言う。可笑しがっている風で、それがまた癪にさわった。

「無駄だと思うか」
「はったりをきかせずともよい」

 上着の内ポケットに右手を滑り込ませた。起き上がろうとすると、左腕が腹立たしくも疼く。やはり、外は夜だ。

「はったりかどうか」

 口と手で鞘から抜き出した短刀を、気配を頼りに振りかざす。

「試せ!」

 一気に振り下ろした腕が、思ったよりも下まで落ちた。がくんと体が傾き、短刀の先が、ガチンッ、と金属音を立ててどこかに当たる。
 背後から抱きすくめられ、首筋に鳥肌が立った。あの恐怖を、からだはしっかりと覚えている。言葉にならないうなり声が口から出る。
 肩に腕を回され、右手に力が入らなくなるのを、何とかして短刀を逆向きに持ち替えた。腕が震えた。

「状況を認識しているか?」

 手首を動かし、勢いをつけ、背後の男に向けて短刀を突き出した。今度は手ごたえがあった。
 男の吐息がうなじにかかる。

 噴き出した吸血鬼の血を後頭部に浴びながら、毒づいた。

「くたばれ」

 返り血はあたたかかった。
 目と口を閉じたまま、手首の力だけで刃をさらに食い込ませようとした。だが、短刀は手の中から消え、あっさりと相手の手に奪い取られる。
 息を吸い込んだ。これしきの刃物で殺せるなら、とうにこの男は生きてはいない。

「どうだ。はったりじゃなかっただろう」
「…こんなおもちゃは、子供騙しではないか?」
「一太刀は、一太刀だ」

 「あんたがそう言ったんだ」呼吸が浅く、心臓が早鐘を打つ。男の腕に力が入り、押し潰される肺の酸素が減っていく心地がする。
 男が投げただろう短刀が、遠くに落ちる音がした。
 溢れ出すものがなくなったことで、相手の傷口の出血が止まったことを知った。

(今ここに、ワクチンがあれば)

 山菜採りで、まさかあだ殺しをすることになるとは思わないではないか。
 けれども、結局のところ、この状況に落ち着いてしまった後では、備えも無意味であったかもしれない。

「今ここで、それを口にするのは、生意気が過ぎるのではないか」

 吊っていた左腕は支えが取れてしまい、体の前でぶらぶらしていた。暗闇に、包帯の白がぼんやりと浮かび上がっていた。
 口角が自然と上がった。おかしくもなんともない。

「くたばれ」

 衣服の襟を強く掴まれると、首から肩にかけてがむき出しになる。これからされることを予感し、寒気がした。男が匂いを嗅ぐ気配がした。
 煮詰められた濃い暗闇が、喉にまとわりつくようだった。

「お前ほどかわいげのある人間も、そういない」

 相手が耳もとで囁く。
 鋭い牙に、薄い皮膚はいともたやすく破られる。

 決められた時間に寝なければ、暗がりに潜む「おばけ」がやってくる。そうと信じている頃、いつか暗闇は、今よりもはるかに怖く、得体の知れないものが隠れていると恐れていた。暗い場所は怖かった。日がのぼれば正体はわかる。それでも夜は毎日やってくる。寝る時間になれば、電気は消す。部屋は暗闇に包まれる。
 窓のカーテンの隙間。自室のベッドの下。勉強机の陰。
 寝なければならない。おばけがくる。

(「これで終わりだ 小僧」)

 アンモニア臭に、生臭い血のにおいが鼻をつく。密着した体と体が、相手の情報をこちらに伝える。
 痺れがひどくなる。

(「楽しませてもらったよ」)

 体じゅうの体液を放出し、それでも、狭まる喉で自分の肉体は懸命に酸素を取り込もうとする。
 生きようとしている。

 色も霞んだ視界では、痺れが弱まったとしても、相変わらず相手の表情さえも目にすることはできない。しかし、暗闇に目は慣れつつあった。
 窓が一つある。
 ようやく、ここまで暗い理由がわかった。月も星も隠れて見えないのだ。ここまで光源のない夜も、めずらしかった。

(生きている)

 なるべくゆっくりと、深く息を吸った。同じぐらい緩やかに、息を吐いた。自分の胸が上下に動く。

「なぜ、ころさない」

 まだ舌がうまく回らないでいる。

「死にたがっているような口振りだな」

 男はすぐそこにいる。手を伸ばせば、触れられるほどに近くに、声がした。
 右腕を持ち上げようとするも、力が入らずに、ばたりと手を床に落としてしまう。

「くそくらえ…」

 俺の悪態に、もはや聞き慣れた声が小さく笑った。嫌みのない笑いに違和感を感じる。
 血を吸われたばかりだというのに、生きていたことへの安堵と、吸血により弛緩した肉体のせいか、緊張の糸が緩むどころか、一気に切れてしまっていた。この今の状況が、そもそもどこか非現実的であり、目の前にいる男は真実、本物の「奴」であるのかが、疑わしくも思えてくるほどだった。
 とにかく俺は生きている。

「なにがしたい…」

 小便でぐっしょりと濡れたズボンが冷たく、不快であった。尿の臭いが辺りに漂っていた。噛まれた傷口を中心に全身が痺れ、乾いた涙の跡が頬の動きをしにくくさせている。
 男がうまそうに血を吸い上げる音が、いまだ耳にこびりついて離れない。

「べつに考えはないが、しばらく話をしてみようではないか」

 床の軋む音がし、気配が非常に近くなった。肌をくすぐった鼻息に、びくりと肩が震えた。
 先ほどまで、鋭い歯が刺さっていた部分に、何かが触れる。
 血の止まりかけた傷口を、ふたたび唇できつく吸い上げられ、強い痛みに眉をきつくしかめる。
 じゅ、じゅっ、と幾度も傷口を吸われて、頭がぐらぐらした。自分の血の中に混ざる、様々などす黒い感情が、血の色をどこまでも赤黒くしている気がする。

「お前の血は、本当にうまい…」

 ざらついた舌が、一滴の血もこぼさぬように、傷の上を舐める。
 血のかたまりが肉から剥がれる痛みに、脚をひきつらせる。

「なんの、話をするって…?」

 首筋にかかる吐息はぬるかった。
 ゴクリと、口の中で味わった血を嚥下する音がした。

「その左腕では、あの崖を登れまい」

 徐々に覆いかぶさってくる男の体を、押し退けようと右腕に力を入れる。自分でもどこに触っているのかがまったくわからなかった。相手は気にかけていない。

「おおきな、おせわだ」

 のしかかられてもいないのに、気配から与えられる圧迫感が、息苦しいほどだった。仰向けに横たわった体の真上に、男がいるのがわかる。
 傷口とは反対の肩に手が置かれた。

「連れて帰ってやろう」

 牙が傷をかすめた。

「あたま、わいてんじゃねえ…」

 同じところに噛みついてきた男に、反射的にギプスで固定された左腕が出た。二つの痛みに、たまらずうめいた。
 吸いつく唇の感触が不快で、言葉が出てこなくなる。

 血を吸われながら、身をよじると、ゆったりと落ち着いた挙動で、男が体重をかけてくる。男の体は、どこか、どっしりと重たい大蛇を連想させた。重たかった。

 自分の呼吸の間隔が短い。腕が痛い。苦しい。暗い。何も見えない。

(ヘビ)

 暗闇にだれもいないと証明がされなくとも、いつか、それにおびえることはなくなっていった。

 夜は相変わらず暗い。

(悪魔の証明……)

 血を失いすぎたせいなのか、血を吸われ続けたからなのか、よくわからなかった。奇妙な気が、起こりはじめていた。だんだんとおかしな気分になりかけていた。
 何もかも異常だと思った。

 男が深く息を吸った。
 俺は息を吐いた。自分の体からは生臭い血のにおいがする。

「私の気が変わらないうちに、約束を取りつけておいた方が、貴様のためだぞ」

 顔がどのくらいの位置にあるのかもわからず、どこも見てはいなかった。きっと相手にも見えていないのではないかと思った。

「……なにをたくらんでいる?」

 右手で相手の腕らしき部分を掴んだ。上腕のあたりだとわかる。強く握ったつもりだったが、おそらく思っている力の十分の一も出せていない。
 男の吐息が非常に近くにかかった。おそらく、今互いに、自分たちは鼻を突き合わせている。

「約束の対価をもらおうか」

 男の匂いがする。身につけたものと、焚かれた香と、血と、体臭が混ざり合っただろう、嗅いだことのない匂いがする。誰とも違う匂いがする。

「お前がおもちゃでこしらえた傷のぶんは、お前の血をもらった」
「……」
「飲み尽くしてしまうのも、かなり魅力的な選択ではあるが」

 相手が息だけで笑う気配がした。

「もったいない」

 男の上腕を握りしめた。応えるように、相手の手がこちらの頬に添えられた。

 なぜ、ここに刀がない?

「なにを、差し出せと言うんだ」

 舌の痺れが、おさまってきている。体の痺れも今にとれる。それでも、この男に丸腰で挑む自分が、想像できない。勝利するイメージが持てない。
 それでも挑むしかない。

 その瞬間だけは、男の表情が手に取るようにわかった。

「お前自身を、もらおう」

 挑むとは、生きることだ。

 夜の闇は濃く、重たかった。その面も目にしていない化け物とまぐわうにふさわしいほどには、視界を奪った。うち捨てられた空き家か、小屋か、どこだかもわからない場所で、仇敵らしき相手に体をひらくのは、非現実的にもほどがあった。
 ただ一つ、左腕のギプスだけが、現世に自分を繋ぎとめる目印のようなものだった。

「相変わらず、疑り深いのだな」

 笑う男に、右腕を引き寄せられる。急に動かされたら、下肢が震えた。うっすらと暗闇に浮かび上がる男の白いからだに、意図せずすがりつくと、眩暈がした。
 現実とは、信じがたい。崖から足を滑らせ、あのまま自分が、どこへもわからない場所に来てしまったのかとも思えた。そうなると、結局旅路の果てにもこの男は居ることになる。それもたまらなく嫌だ。
 しかし、目の前のこの男は、明らかに、どう接しようとも疑いようもなく、あの男であるに違いなかった。それだけはたしかだった。
 耳の軟骨を唇で弄ばれると、自身の性器が反応を示してしまう。

「約束…」
「わかっている」

 開いた両脚のひざ裏に男の手がかかった。手のひらの温度のなさに、肌が粟立つ。
 吸血鬼は目が弱いと、以前に聞いたことがあった。少なくとも、この暗闇では自分も同じである。男の白だけが、ぼんやりと近くに見える。
 化け物というよりも、幽霊とまぐわうと表現するのが、正しいかもしれない。

(怖いのか)

 嬲られ、たっぷりと唾液を含まされた尻の穴に、硬くぬめるものが押し当てられる。頭頂部と背中がぞくぞくした。
 中途半端に脱がされた衣服から露出した肌が熱く、逃げる背中が床にこすれた。汗が腋の下を伝った。
 男の勃起した陰茎の先が、窄まりをゆっくりと押し上げる。

(憎いのか)

 ひざ裏に置かれた手に力が入る。押し広げられる感覚に、頭が揺れた。
 左腕がこわばる。

「ぐ……」

 指や舌とは違う、得体の知れない感覚が、からだを侵食する。それが嫌悪感なのか、憎しみなのか、怒りなのか、恐怖なのか、おびえなのか、自分では、わからない。わかることは、抱いているものはそれらのうち一つだけではないということだ。
 名前をつけられないこのどす黒い感情と、熱を持つからだは釣り合わない。

「待てっ…、一旦、抜け…」

 なんども浅い呼吸を繰り返しながら言った。
 男の表情は見えない。

「おかしなことを」

 うめいた。
 先端が徐々に埋まるも、痛みが大きすぎる。あたりまえだ。こんなところは、排泄にしか使ったことがないのだから。
 次第に嫌な汗をかきはじめ、頭を左右に振った。裸の下半身の、体温が下がりつつある。

「ああ…くそっ……」

 外の空気を吸いたい。春の夜の、みずみずしい匂いを嗅ぎ、一刻も早く、この化け物から解放されたい。
 じわりと、にじむ涙が視界をぼやかした。
 山菜採りなど、来なければ。

 骨ばった長い指が、ひざ裏の柔らかい皮膚をくすぐった。気が散って、顔を背けた途端、一息に押し込まれて、悲鳴が出た。

「いい声だ」
「…ぅう…っ…」

 両脚の間、深くまで男が腰を入れてくる。情けない声が口からあふれ出し、震える右手を男の裸の胸に突っ張った。どちらのものかもわからない汗で手のひらが滑る。
 異物感が胃を押し上げている。同じ男の性器が、欲情に竿を硬くさせて、内側の肉を掻き分けて、奥へ入りたがる。組み敷かれ、一方的に貫かれる。こんなに、怖いことがあるだろうか。
 男の興奮が挿入された男性器から伝わってくる。

「ちくしょうくたばれ…! くたばれっ…ああッ…」

 口汚く罵ると、奥深くまで突き入れられた陰茎が、途端に大きさを増すのを感じ、驚きと恐怖で、たまらず泣き声になった。
 男の唇が、俺の口に触れた。
 強引に重ねられた唇が、笑いの形に歪んでいることがわかる。それがますます俺の恐怖をあおる。

「なんでも構わんから、もっと言ってみろ」

 男のペニスが、奥の方をすりすりとこすった。泣きながら、男の髪の毛を強くつかんだ。
 相手は動きを止めない。
 湿った内側をこすり続ける陰茎の先端が、幾度も奥にぶつかった。腰が浮いた。

「やめろ、やめ、っ…いやだっ…」

 上下に揺れ動く体を、男の手と体が押さえつける。動きを止められると、入ってくる陰茎の衝撃を逃がせずに、からだがこわばった。
 覆いかぶさられ、開いた両脚の間には男がいる。どこにも逃げられない暗闇で、抜かれかけた熱いペニスが、一気に穴の奥と侵入した。

「みやびいぃっ……」

 逃げる腰が浮きかける。男の重みがそうさせない。肉を掻き分けて亀頭がやわらかい場所を突く。口が開いた。
 その開いた口を生温かいもので塞がれる。

 暗闇に浮かぶ、薄い影を見上げた。
 腹の上の化け物のからだが、先ほどよりも大きくなっている気がする。

 揺さぶられる動きに、自分の脚から徐々に力が抜けていく。
 向き合った状態の二つのからだが一緒になって小刻みに揺れる。
 このまま交わり続け、得体の知れないかたまりのようになれば、俺もいずれは化け物となるのだろうか? 獣の仲間となり果てるぐらいなら、死んだ方が、ましだというのに。

 異物感と痛みが薄れてきたことに、茹だった頭ではうまく理解が追いつかない。体の方が反応が早かった。
 硬さを増す相手のペニスが、浅いところの、どこかを突いた。のけぞった。

「いいところに、あたったか」
「わからん…ちがう…」

 とっさに否定をするも、男が試すように、幾度か浅いところを抜き挿しした。

「いいから…さっさと、おわらせてくれ…」

 俺の言葉を聞かずに、男がゆっくりと腰を動かした。何かを考えている気配がする。粘性のある音がたち、こらえきれずに息を吐く。
 ぬるぬるしている。

「ここが…気になる」

 また同じところを性器の先端がかすめ、男を受けいれているところが、かなりうずいた。きゅう、と後孔が締まり、直接的な快感に、両足の先まで痺れた。
 自分でも信じられない声が出た。

 目を白黒させる。

「正解か」
「な、なんだ、なに、した?」

 空気が震えた。男が笑ったようだった。

「お前が、怖がるから、恐怖が強まるのだろう?」

 深い声が言った。

「一体、そこに何がいるのだ?」

 窓のカーテンの隙間。自室のベッドの下。勉強机の陰。
 静まりかえった窓の外。天井の隅。部屋の角。暗くては見えない。居てもわからない。わからないことが、こわい。

「ここには、私と、お前しか、いないというのに」

 男が動き、相手の下生えがこちらの睾丸にあたった。あちこちの肌と肌がこすれあい、それぞれ、汗をかいていた。体温を分け合うほど、互いの体がくっついていた。それらの色も形も、何ひとつ見えなかった。
 浮かび上がる白だけが。

 腹の上の大きな化け物が、からだを揺すった。
 跳ねた足の裏が男の脚のどこかに触れた。

「ぅうう」

 揺すりながら、ペニスが内側をこすりあげる。同じ一点を突かれて、腰がビクビクと震えた。雁首で前後にこすられたら、無意識のうちに両脚が閉じ、男の腰を挟んだ。
 触れられてもいないのに、自分の陰茎が勃起しているのがわかった。

「見えないものを、信じるぐらいであれば」
「はあ、はっ、」

 浅いところから奥深くまでを、ねっとりとかき回されて、視界がにじんだ。肉欲が刺激される。快感のあまり、涙が出る。
 からだが男を甘く締めつける。

「私の約束を、信じてごらん」

 山の夜も、闇もぼやける。ぼやけて、わからなくなる。

 心に体が追いつかない。からだは、心を裏切る。
 荒々しく奥深くを暴かれては、浅いところを突かれて、意思とは無関係に、内側がどろどろにとけていく。男が一度注いだ精液と、自分の体液で、なかはしとどに濡れていた。濡れたら、さらに奥まで男を受けいれられるようになった。
 ペニスが、からだの奥深くを埋め尽くし、やわらかい場所を突く。
 突かれたら、頭が真っ白になる。

「あ、あっ、あっ」

 顔の横につかれた男の腕を、右手でつかみ、激しい揺さぶりに流されまいとする。それでも、腰を叩きつけられると、快感に腰を浮かせた。
 我を失い、浮いた腰を、ますます相手にこすりつけた。
 男が獣のような腰づかいをする。動きが速くなる。

「アっ、あぁ、やだっ…いや、いやっ…」

 口からあふれ出る否定の言葉が、いかにも白々しかった。熱く猛るペニスが、蕩ける肉を執拗に突き上げる。
 嬌声がこぼれ、男の腰に巻きつけた両脚に力が入った。快感を求める本能が、穴ぼこだらけの理性の壁をこじ開けて、きつく吸血鬼の腰を引き寄せる。
 荒い息づかいの合間に、男が笑った。

「あまり、かわいらしいことを、するな」

 男の腰の動きが、一層激しさを増し、次の射精を求めて肉をこすりあげていく。

 これは、セックスではない。
 きっと、これは獣のまぐわいだ。
 それでも。
 認めてはいけないとわかっていながら、男の腰に合わせて、次第に腰を揺すっていた。男もそれに気がついているだろう。

 暗闇でまぐわう、この化け物が、知った男ではなく、山の物の怪であったら。そうであれば、どれほど自分の心は救われただろうか。

 おばけはすぐそこにいる。

「いっそ、このまま、お前を連れて、帰りたい」
「…っばかなこと、言うな…!」
「フフ…、ハハ。あぁ、欲しい」

 「欲しい」上から降ってくる言葉に、目をぎゅっと閉じた。うねる肉がきつくペニスを締めつける。からだが体内の雄を、勝手に欲しがって、いやらしく陰茎に吸いついた。
 男が腰をひときわ強く叩きつけた。

「ああぁっ…」

 膨れ上がるペニスが、グッ、と奥を強く突き、さらに小刻みに同じ場所を突いた。目がチカチカした。
 男が強い力で俺を抱きしめる。
 男の陰茎が後孔を、隙間なく埋め尽くした。

 体内に、ふたたび熱いものがほとばしるのと、俺が射精したのは、ほとんど同時であった。

 考えるだけ無駄な事だ。
 守るべきものがあり、達成しなければならない事柄があり、とどめを刺さなければならない相手がいる。そのどれもがからだの上にいる化け物と繋がっていて、切っても切ることのできない糸が、自分と、この化け物を繋いでいる。糸の先をたどっていけば、その足下へたどり着くことができる。それを、俺も、この男も知っている。
 だから、糸を手繰り寄せるしかない。
 心臓をその手に握り潰されるまで。
 糸は離さない。

 考えても意味のない事だ。

 寝不足の目に朝日が眩しかった。
 しばらくは黙っていた。揺られる左腕の痛みで、目をさましたのだと思う。
 体は安定していたが、両足は地についていなかった。男の背に負ぶさるような形で、互いの体を何かでくくりつけているらしく、男が崖を登る手足を動かすたびに、こちらの手足までが揺れた。男の胸の前で揺れる左腕が、やはり痛んだ。腫れているのかもしれない。
 男の肩を右手で掴むと、相手が手を止めかけた。だが、それも一瞬のことで、結局何も言わなかった。何も言わないまま、男はほぼ直角に近い傾斜の上を目指し続けた。

 なるべく下を見ないようにし、朝日の方向を見た。空はかぎりなく薄めた青に近い。雲の形は見えなかった。
 目をはっきりと開けていることが難しいぐらいに、日は眩しかった。
 男の白い髪は錆色でくすんでいる。

 太陽は白く崖の下を焼いた。

 とにかく風呂に入りたいと。
 そう思った。

2017.5.31