「この水槽と水があれば、この男が死ぬことは永久にありません」
話を聴き終えた雅は無言で拍手をした。両手を打ち、拍手をし続けた。この男による最大の賛辞だった。白い顔が表情筋の動かし方を忘れてしまっていた。感動で言葉が出てこないのだった。
作り主は恐縮がってなんども頭を下げたが、雅は水槽から目を離せなかった。何かから目を離せないほどに心を奪われている父を、五人の息子は初めて目にする。その息子たちからの贈り物であった。水槽と、水と、人魚。
黒い眼の人魚は、青く発光する水中で、瞳をうす青く染めて自分たちの父を見下ろしている。殺気が水に溶け、水の色をますます青くしている。息子たちも父の背後から水槽を眺める。馬鹿でかいガラスだ。
生け捕りにした息子の一人はくちばしをカチカチと鳴らした。捕まえる際に噛んだ肉の感触が、思いのほか柔らかく、その感触が恋しく感じられるのは、気のせいなのだと思った。がぶりといってしまわなかった腹の底に、ほんのひとかけら、後悔が、塩の結晶となって残っている。
雅は手を伸ばした。水槽の上から、男の体の線をゆっくりとなぞった。男の目がその動きを追った。
「明」
名前を呼ばれた男が父を見た、瞬間の視線の移し方に、息子たちは何やら納得する思いがした。男の目は、知っている相手を見る目だった。それが敵意であれ、憎しみであれど。
(そうか)
この男が、父の追い求めてきた相手なのだ。彼が名前を忘れることのない、ただ一人の人間なのだ。
息子のほとんどは、名前しか知らなかった。こんなに目をひく生き物だとは、知らなかった。
両手を掲げた雅は明の手を引こうとし、ガラスに指先をぶつけた。そこで目の前の容れ物は水槽であることを思い出した。非常に透明度の高いガラスを使った水槽だった。
明は水のなかでそれを見ていた。幾度も試してみたので、もう暴れる気も失せて、殺意だけが静かに残っていた。その殺意も、水のなかに溶けていきつつあった。
雅は指先をこすった。
「ガラスを割ったことを覚えているか」
雅が言った。ひとりごとに近いほどの音量だったが、背後の息子たちには聞こえた。
明は首を動かさずに雅を見下ろしていた。
「あの程度のガラスだと、お前に破られてしまうから」
濃い赤が煌めく。青い光が眼球に反射する様子は、明からだけ見えた。
雅が手のひらをガラスに押し当てた。
「頑丈にしたのだった」
明が口を動かした。
口から出た言葉は、泡となって、水槽の上へとのぼっていく。
雅と、息子たちは、男の口の動きを見つめた。
「……」
少し試して、明は諦めたように口をつぐんだ。自分の答えに対する興味を失ったように、顔を背けた。
雅が水槽に顔を近づけた。
「何が言いたい」
息子たちは父親の背中を見つめた。
「明」
雅は明を呼んだ。水槽に両手のひらを押し当て、なんどか感じたことのある体温に、無意識に触れようと努めた。
「明」
明はまばたきをした。ひたいの傷に揺らめく前髪が重なった。
息子たちは父と、男の姿を見続けた。誰も何も言わなかった。宮本明という名前が、記号ではなくなった瞬間。
男の口がまた開いた。
「 」
口にされたそれは、たしかに父の名前だった。
父の白い手に力が入ったのがわかった。拳がかたく握られた。もう二度と聴くことはできない。水槽はあかないから。
あけられない水槽であるから。
名前は泡となって消えた。
2018.1.27
A面(絵)とB面(文)でセットで書いたやつでした。