捕まってから口にしたのは水だけであった。何に一服盛られたのかがわからなかったが、二日ぶりに持ってこられたあの水に、何かが入っていたとしか思えなかった。問題は、何を入れられたかである。
「俺に、なに…飲ませた」
雅がふっと笑った。俺の格好を見て笑ったのか、俺の問いかけに笑ったのか、どちらなのかがわからなかった。両方であるのかもしれない。
「じきにわかる」
「…!」
腋の下を通る太い腕を手で押さえた。親しい吸血鬼の手が、衣服の下から入り込み、肌を探った。
全身がびりびりした。
「触るな…っ」
ごつごつとした友の大きな手が、乾いた肌を撫でる。息を吸って膨らんだ胸を指先が触った。何だ、これは。何だ。
身をよじった。逃げようとした足首を押さえられて、目の前の顔を見た。
兄がこちらを見ていた。俺の足首に手をかけていた。
「何で…何…?」
大男に後ろから抱き込まれ、身動きが取れず、目の前には兄がいる。畳の上で、三人の男がほとんどひとかたまりになっている。
斧神の手がわき腹を下から上へと撫でた。こぼす息が震えた。
「やめろ、それッ…」
手のひらに胸の筋肉を下から揉まれ、顔が熱くなった。まるで女性の乳房にするようだった。それよりもずっと平たい胸部の筋肉を、男の手が下から揉み上げ、胸の突起を硬い指先が押しつぶすようにこする。
シャツの上から、男の手に爪を立てた。男にはくすぐられるほどの力だっただろう。
それでも我慢ならなかった。
「おとなしくしていろ」
「だまれ」
「明」
山羊の鼻が耳をこすった。わざと当てられているのだとわかった。
耳の裏に乾いた鼻が押しつけられる。
「お前に、怪我をさせたくない」
前屈みになり、きつく眉をしかめた。息を吸って吐くだけの行為がつらい。男の手のひらが、明らかに性的な手つきで、俺の胸を触っている。
硬い指の腹が乳首を弱く押し潰す。
そのことがただでさえ思考力を奪われた頭を変にする。
「ううぅ…っ」
なぜ、不快だと思わないのか。なぜこんなことをされて、自分は、なんで。なんでだ。
斧神に触られる時間が伸びていくほど、ズボンの下が硬く、大きくなっていくのは、一体なんの意味がある。俺は、いつから、男に対して欲情を催すような人間になってしまったのか。
「明、大丈夫だ」
泣きかけている俺の肩に兄が触れた。兄を見上げた。口元を覆うマスクがなかった。レンズ越しの兄の目は、穏やかで、落ち着き払っている。
それがますます俺の頭を混乱させた。
「俺がいる」
頭を撫でる手の温もりが、死ぬほど懐かしい。こんなに懐かしくて、温かいのに。
兄が困ったような表情になる。
「お前に、痛い思いはさせん」
嗚咽がこぼれた。あやすように山羊の鼻がうなじに押し当てられ、そのまま首筋を獣の毛が撫でていく。
「ああ、泣くな、明」
「兄貴、頼む」
「お前に泣かれると、俺は、弱い…」
いたわるような言葉に反して距離を詰めてくる兄の胸に、反射的に手をついた。こちらが押し退けるより早く、下からその手をすくい取られる。
兄の手が俺の手をしっかりと握った。
斧神の手つきがさらに大胆になり、背中を丸めて言葉にならない声を出した。シャツの下の動きが目立ち始めていた。涙ぐみ、懇願した。誰への懇願なのかもわからなかった。
「助けてくれ…」
見たこともない顔をしている兄が怖かった。親友と呼んだ男にこんな触られ方をするのも怖かった。
これから、何をされるのかも。
呼吸がままならない。いつもどおりの自分がわからなくなる。
うなじに熱い吐息がかかった。聞き覚えのある息づかいを、はっきりと背後に感じた。分厚い胸板が背中に押しつけられ、首元の骨のくぼみを指がなぞる。遠慮のない指が肌に触れる。
自然と口が開いた。
何より、自分が一番怖い。
「何も心配はいらない」
奥から深い声が言った。
どう見られているかも、矜持も忘れて、涙が次から次へと頬を伝い落ちる。泣くとますます斧神の抱く力が増した。膝頭に手が置かれ、両目が徐々に端から赤く染まりつつある兄が、俺の名前を呼んだ。兄を呼び返すと、置かれた手は膝の内側に滑り込んだ。足がびくんと浮いた。
繋がれた兄の手を振り払い、頭上まで上がった片手が背後の男の頭部に触れた。感触でわかった。後ろの男は、やはり兜を脱いでいる。
下ろそうとした手を、分厚い手に握られた。そのまま手を引かれ、男の体がより近くに密着した。
夢をみているような気分だった。
この状況が、信じ難かった。これが現実だとは、とても思えない。
「夢なんだろ…?」
シャツの首元が涙で濡れている。
押し当てられる硬さに、背後の男が興奮していることが伝わってきて、どうしようもなく息が苦しかった。頭が混乱して考えられない。兄の顔や動きから目が離せない。
兄にズボンを脱がされ、畳に下着の尻をついた。兄の手がズボンを後ろに放った。
むき出しの足を自分の方に寄せた。両足が小刻みに震えていた。
小さかった頃の、切れ切れで、まとまりのない記憶が、頭の中によみがえる。場違いな記憶だと思った。しかし、幼い弟の世話をするように、兄は俺の下着にも手をかけた。なんでもないことみたいに。
蹴とばそうとした俺の足を素早く掴み、兄貴が呟いた。
「お前の夢では、俺は、こんなことをしているのか?」
行灯の明かりに照らされた男は俺たちを見て笑っていた。
「…してない」
兄がくっと口角を持ち上げた。
「どっちだと思う? お前が決めろ」
足首を掴む手の力が強まり、吸血鬼の力で握られる骨と筋肉が悲鳴を上げた。それでも叫ぶこともしなかった。
出来ずに、黙り込んだ。
兄の目が俺を見つめている。赤い目が笑っている。
「お前が決めていい」
言葉は刃物のごとく胸を刺し貫いた。
顔がぐしゃぐしゃに歪んだ。短い間隔で浅く息を吸った。深く息を吸えなかった。きつく目を閉じた。口を開けても一つの言葉も出てこなかった。
あごを取られ、濡れた何かが口の周りを撫でた。目を開けたくなかった。生臭い、饐えた、生き物のにおいがした。
口内が温かい何かでいっぱいに満たされ、息苦しさに、そこでやっと、うっすらと目を開けることが出来た。一つの大きな眼球が俺のことを見ていた。相手の舌がおさまりきらずにうごめき、俺の舌に絡みついた。
鼻から息を吸い、舌を入れられたまま、思わず咳き込んだ。
「ッ…づ…」
相手がさらに身を屈めると、縦に割れた巨大な口と俺の口が、ぴったりとくっついた。肉を食らう獣のように、斧神が顔を埋めた。大げさな濡れた音がした。
息継ぎがうまく出来ず、相手の口の中で息をしようとした。男がそれをさせなかった。どちらのものかもわからない唾液を、何度か飲んだ。
離れた口から、たくさんの唾液がこぼれ落ちた。体の横にある男の脚に手をつき、ぐにゃりと倒れる身体を支えようとした。唾液が鼻に上がって鼻の奥がツンと痛い。頭がくらくらした。
酸素不足で、思考が霞む。しかし、頭が働かないのはそれだけではない。
からだが熱い。
「本格的に、効いてきたようだ」
畳にずり落ちかけた上体の下に、太い腕が回った。のろのろと顔を上げ、部屋の奥を見た。
白い狐。猫。ちがう。
化け物。
「さあ」
立ち上がった雅が両手を叩いた。乾いた音が、大きく部屋に響いた。
「始めよう」