日々、泥のように深い眠りにつく。
眠りから覚めた時には、部屋には誰もいなかった。障子越しの光にあふれた部屋は静かで、生き物の気配がしない。一人だと気づいた。畳が乾いていた。
畳の上で動くと、はめられた足枷が足首の骨にぶつかって痛んだ。骨までしみる鉄の感触が不快だった。少しだけ長く目を閉じた。体じゅうに染みついたにおいも、うんざりだった。軽く持ち上げた拳で畳を叩いた。力が入らなかった。薬のせいだろう。
柱に縛りつけられたまま眠る最初の二日間の方がよほどましだったかもしれない。
部屋の端まで歩いていくのも一苦労だった。普段のコンディションでは、このような足枷、自分には大したものではない。いらだちと不安が、ここ数日、ずっと影のようにつきまとう。しかしこの様子ではどこにも行けそうもなかった。
諦めて、畳の上に体を横たえた。少しでも、夜に向けて体力を回復させた方がいい。そう考え、もう一度眠った。薬の効果か、すぐに睡魔がやってきて、自分のまぶたを重くさせた。
次に目が覚めた時には部屋の中に兄がいた。
「飯を持ってきた。食べるか」
うなずいた。
兄が土鍋から器に液状のものをよそうのを見ていた。どうやら、鍋には粥が炊かれてあるようだ。
障子の向こうは眠りに落ちる前とは色を変え、貼られた紙を通して紫と赤の中間の色合いが部屋を染めていた。日が暮れていく時間帯になっていた。
「明」
顔の向きを戻し、兄が差し出した器と箸を受け取った。粥はまだ熱かった。
「ゆっくりな」
器に口をつけた。
兄には、足枷など見えていないようだった。しかし、確実に見えているのはわかっている。白い粥をすする俺のことを、眼鏡のレンズを通して黙って見ていた。
この鉄の重みも、骨に響く感触も、目の前の男はよく知っている。
食事に集中するしかなかった。
空腹の胃に、なるべく時間をかけて、温かい食べものを少量ずつ流し込んだ。胃は空っぽのはずでも、食欲がない。食うことよりも、眠りたいと願うことの方が増えた。眠っている時間は、本当に一人きりだ。誰のことも見なくて済む。眠っている間だけは、誰にもこの体を好きにさせなくて済む。眠る間だけは。
それでも、長い時間をかけて食器を空にした。食わねば、生きていけない。生きねば、ここから出ることもできない。
兄が片づける様子を無言で眺めていた。急に、体がそれを思い出した。
背筋がぶるりと震えた。
「どうした」
四つん這いで畳の上を移動する俺に兄が気づいた。言いづらかった。
障子に伸ばした手を引っ込める。
「…ションベン」
ひどく小さな声になった。
兄が、今この時初めてそのことに気がついた、とでもいうような表情を見せた。
兄は驚いていた。
「どこでしているんだ」
「…」
黙り込んだ俺に、兄が近づいてきた。詰められる距離に障子側へと後ずさった。足枷の鎖が音を立てた。
「雅には言わないから」
靴下を履いた足が畳の上を歩いて、自分の裸足のつま先のすぐそばで立ち止まった。そばに来られると兄の匂いがわずかに香った。
血の下に隠れた匂いがする。
「…そのへんで」
ぼそぼそと呟く。
障子の向こうには縁側があり、そこに面した庭は、あの男の庭だった。
少し間をおいて、兄が首を振った。
「すまん。そこまで気が回らなかった」
「…」
兄の謝罪に、何か言葉を返すことは出来なかった。このことで謝られるのは、おかしいと思っている自分がいる。これまでこの兄たちがしてきたことと、「これ」は、兄のなかではどんなふうに釣り合いがとれているんだろう。謝るのは、もっと別のことではないのだろうか。
「それ」を謝る必要などないのかもしれない。そう思ったら、怖かった。
「もう、いい…」
会話が続けられず、兄に背を向け、障子の木枠に手をかけた。逃げるように縁側に出ようとした俺の足を痛みが刺した。
振り返った先で、兄の足が足枷の鎖を踏んでいる。
「便所に連れてってやるから、足を貸せ」
縁側に夕方の日が差して、手をついた板張りを染めていた。
三人の前に連れてこられた晩以降に、汚れた衣服はすべてどこかへ持っていかれ、与えられたものを着るしかなくなった。以前の自分なら、裸でも構わないと口にしたはずだ。女性ではない、素っ裸だろうが、何だろうが、何もいらないと与えられた物はすべて引き裂いたはずだ。
そうすることが出来ないのは、背後の男のせいであり、友のせいであり、仇敵にされた行為によるものであった。そのことは自分のなけなしの自尊心を傷つけ続けた。
兄の前を歩く俺の姿を目にした吸血鬼はどれも揃って目をそらした。吸血鬼が腰に下げている刀を目で追っていたら、後ろから弱くない力で押された。
「行け」
屋敷内は暗く、陰気だった。
いくつかの角を曲がって便所にたどり着いた。日の入らない廊下の隅にあり、部屋からそう離れておらず、人気がなかった。
自由になった足首がヒリヒリする。
兄が戸を開けた。
「中に入れ」
言われた通りにする。広くはない個室の床に和式便器があるだけの、普通の便所だった。あまり使われていないのか、そこまで汚くはなかったが、裸足で入るのが嫌で、スリッパが欲しいと思った。そんなことを考えたこと自体が、どこかおかしいとも思った。
後ろで戸が閉まる音がし、振り向いた。
入ってきた兄が、内側の戸の鍵を閉めていた。
「兄貴」
とっさに出て行かせようと、兄の体を両手で押した。兄の片腕が俺の肩に回された。その体をさらに強い力で押した。信じられない。馬鹿げている。信じられない。
肩をつかまれ、兄が視線で足元を示す。相手の考えを先に理解し、血の気が引いた。
「見ているから、しろ」
男二人には狭い個室だった。
尿意は強まっており、本当なら、今すぐにでも排尿したい。膀胱に尿が蓄えられているのがわかる。早く出すものを出して、すっきりしてしまいたい。意識すると、尿意はますます無視ができないほどになった。
なぜ、こんなことになる。
行き場の見つけられない手が、さまよい、最終的に兄の右手に捕まった。背後から回された兄の手が、俺の手を着物の裾まで誘導した。思わず引こうとした手をつかむ兄の手に力が入る。自分の足が震えていた。
「小便だけか」
そうだったが、うなずくことができなかった。この年になって、自分の兄に、まさか小便の世話をされようとしている現実が、あまりにも耐え難かった。
「頭おかしいぞ」
外に聞こえないよう、抑えられる限りの声で叫んだ。
その兄の左手が着物の裾を一気にたくし上げ、息が止まった。空いた片手で背後の兄の腕を叩いた。下着の替えがないために、着物の下は何も身につけていなかった。
「そうだろうな」
つかまれた手を振り払おうとした。しかし相手の力の方が強い。
「でも、それがお前の兄貴なんだから、仕方がない」
兄の手によって片手を股間に誘導される。全身の血液が冷たくなるような感覚があった。指先に触れた自分の陰茎が、まったく他人のものみたいに思えた。
緊張で言葉が出てこない。心臓が痛くて、触った性器も、どこに向けているのかもわからなかった。
兄の手が自分の手の甲に重なっている。
「兄貴」
出した声がみっともなく震えていた。
「できない」
後ろから隙間なく体を寄せる兄の鼓動がわからないほど、自分の心臓の音がうるさい。凄まじい勢いで様々な考えが頭の中を巡っていたが、何も考えていないのとほとんど同じことだった。重ねられた手のひらから伝わってくる兄の温度が、自分の手に力を入らなくさせる。
性器をうまく手のなかにおさめていられなかった。
兄が俺の手を軽く振り払い、その手が股の間の性器をつかんだ。
声にならない声を口の中で発し、驚きに後ずさった。その前に背後の兄の胸にぶつかった。遅れて兄の手首をつかんだ。
耳もとで囁かれた兄の言葉は、ほぼ唸り声に近かった。
「噛んでやった方が早いか?」
凍りついた自分のうなじに、尖ったものが当たった。
肌に何かが食い込むのを感じた。
「その方が、早いか?」
唇がわなわなと震えた。
言うべき言葉がなかなか舌の上に出てこない。
与えられる恐怖が一定の域に達し、眼球の奥がたまらないほど熱くなり、目を開けていられなくなった。心を強く保つ方が難しかった。
歯が食い込んだ肌を通して、首の血管を押し潰すのを感じる。兄の乾燥した手がゆっくりと動き、敏感な部分に触れる。
夜の感触が思い出される。
兄の手首をつかんでいた手から、力が抜けた。首が自由になった。歯が当たっていた場所が冷たく感じられた。
少し飛び散った。涙でうまく確認ができなかった。顔に火をつけられたように熱く、消えてしまいたかった。一刻も早く出たかった空間から、今は一歩も動きたくなくなっている。どこでもいいから一人にしてほしかった。
勢いの弱くなった様子を、兄が横から黙って見下ろしていた。なかなか出きらない。ぼやけた視界で、何度も目をしばたたく。
終わると、兄の手が少し濡れているのがわかった。相手の腕の間でこわばっていた体に、力が入らなかった。涙が自分の胸の間にまで流れていた。
たくし上げていた着物が元どおりにされた。
「よくできたな」
汚れていない方の手で兄が俺のうなじを揉んだ。
どこを通って部屋まで戻ったのかわからない。前を歩く相手が部屋の前で立ち止まり、そこでようやく顔を上げた。襖に手をかけた兄がその姿勢のまま動きを止めている。
「…」
数秒置いて、兄が襖を開けた。
部屋の中に男が座っていた。
こちらに背を向けて座る、男のむき出しの背中と山羊の角が真っ先に目に入る。その次に、体の横に置かれた巨大斧が見えた。その巨大な刃が、なぜか今の自分には不思議と懐かしく感じられた。
最後の太陽の光が山に隠れ、障子越しに入る外の光はかぎりなく弱まり、部屋の中は薄暗い。
夜が近づいている。
「時間を間違えてはいないか」
部屋に入った兄が行灯に火を入れると、ぼわっと室内が明るくなり、暗がりが端まで追いやられた。
「気配がしなくなったんでな」
兄が男を振り返った。
男が山羊の首をもたげ、鼻の向きを緩やかに変えた。行灯の横に立つ兄ではなく、部屋の入り口にいる俺を見た。
襖戸に手を置き、男を見返した。
「気晴らしに連れて出た」
兄が言った。
男はまだ俺を見ていた。自分も相手を見つめた。
明かりのそばに立つ兄の影が揺れる。
「そうか」
斧神が呟いた。
目をそらさずにいると、男が立ち上がり、俺の方へと近づいてきた。兄が気づいてこちらへと数歩進んだ。斧神は振り返らなかった。近寄りながら山羊の被り物を外した。
行灯の明かりが逆光になり、その表情を窺い知ることはできない。
襖の陰に身を隠そうとした俺の腕を男の手がつかんだ。つかまれて、よろめいた。男を見上げた。崩れた頭部の中心の眼だけが白く存在を伝える。
「気晴らしになったか」
唾を飲み込む。目を見られたくないと思った。もう遅い。
相手の手が、俺の目元を触る。涙の跡を親指でこすられて顔を背けた。男が手を離した。
顔を伏せた。
何を感じているのか、考えているのか、わからない。そんなものが俺にわかるはずもない。
わかろうとも思わない。
「村田」
巨体の向こう側から抑揚のない声がした。
斧神がその場に膝をついた。