にんげんっていいな

 『にんげん』
 人間とは、いったいどういうものであるか。それは自身にとって重要か。大事か。なくしてはならないものか。
 尊ぶべきものだとして、みなは語る。父母も、家族のだれもが。
 人間だけではない。動物も、草花も、いのちあるものすべて。いのちはみな平等で、大切で。かれらが懸命に生きる姿を、その人生を、私たちは助けなければならない。持つべきものの義務として。
 父母は語る。力を貸しておあげなさい。
 父母は彼らを好ましく思っている。人間というものを、よいものであると信じている。だからわたしに、父母の父母も語ったであろう話を、する。
 よく見てあげて。あなたにできることなら、助けになってやりなさい。彼らは弱い。私たちは長生きで、彼らの生は、私たちにくらべて、とても短いのだから。
 その言葉には、かわいそうだから、ということばが隠されている。あわれみと、慈しむ響きにまぎれて、わずかながら、力を持つ者のおごりも、ある。
 そこで思う。
 わたしには、平等ではないのでしょうか。あなたがたは、髪色の異なる息子よりも、「にんげん」のほうがかわいく感じられるのでしょうか。どうしてわたしの目ではなく、わたしの胸や頭を見るのでしょう。わたしの話をきかず、どうして「にんげん」の話ばかりをきくのでしょう。どうして息子であるわたしよりも、「にんげん」に向ける笑顔のほうが多いのでしょう。
 あなたがたは、「にんげん」を好きだという。
 わたしには、言ってくれないことばを、わたしの前で、いう。やさしいことばは、目の前のわたしを通り抜けて、人家の集落のほうへと落ちていく。流れ星のように。
 わたしが永遠につかまえることのできない、ほうき星が。

 人間たちの尊敬を集め、一族はますます栄え、父母は月日を重ねるにつれて、いつも笑っているような顔つきになった。私は、黙っている。口をひらいても、だれも話をきく者がいないので、強引に鋏をいれられることのなくなった白い髪を、本殿の床に散らし、眠る。そうして思う。
 人間とは。
 それ以下の、わたしは。

 四百年。

「私はおまえを待っていたのかもしれない…」

 待ちわびていたはずの男が、体の上にいる。私の腹を踏みつけ、斜め後方からの光に白く光る剣鋒をかかげている。あれは朝日だ。
 逆光になった男の表情は見えづらい。
 その右腕の先に、刃がある。私が斬り落とした右手があった場所に。

「おまえを待って、この生を、生きてきたのかもしれぬ…」

 傷口にずぶずぶとくいこんでいく男の靴底が、内臓を踏みつぶす。脳天まで貫く痛みが神経を灼く。うめき声がもれた。痛い。
 そう、痛かった。
 痛みは、いつもあったのだ。いくら治癒能力が優れていようと、痛みを感じないわけではない。麻痺したほかのさまざまな感覚とともに、痛覚もにぶくなっていったのだろう。
 私は大きく息を吸う。体のなかのあちこちがしぼられるようだ。

「たった…終わりの、数年のために……」

 言い終える前に、軽く咳こんだ。血を吐いた。
 霞む目に光がまぶしい。風の音も、鳥の声もしない。あたりは単調な静けさに包まれている。
 戦いは終わったのだ。
 踏みつけにされたまま、深呼吸を繰り返した。すでに究極生物でなくなった肉体は、損傷を損傷のままとして、残している。能力をとりもどすには、時間がかかる。

「…貴様のたわごともこれで終わりだ」

 男が言った。聞きとりにくい非常に小さな声だった。
 その顔を見つめた。

「終わりだ、なにもかも」

 どんな顔をしているのかわからない。息とことばを一緒に吐きだすように、人のかたちの影となって、男はつぶやく。うんざりしたような、泣きたがっているような。
 私は耳を傾ける。
 もう二度と耳にすることのできないであろう声を。ことばを。息づかいを。
 私に向けてだけ、発せられることば。ほかのだれでもない。

「……ああ」

 かかげられた刀の向こうに、白んだ空が見える。夜が明ける。
 それにもうどんな思いも抱かなかった。もはやただ一人の男を待ち続ける必要はなくなったのだ。
 欲していた男が、死にゆく己れを見下ろしている。あの黒目がちな瞳に、いずれ肉塊となるみすぼらしい自分の姿がうつっている。
 十分だった。

「おまえの、勝ちだ」

 生涯、ここまで求めつづけたものが、ほかにあっただろうか。そうしてそこまで望んだものが、与えられたことがあっただろうか。

(長く果てしなく思われた道の、終わりかけに)

「人類の……」

(そこに、おまえがいた)

 なんのために、母の胎からだされたのか。のぞまれて産み落とされたいのちなら、いのちが平等であるはずなら。
 うらみつらみがより集まって、練りあげられ、血液となり、肉をつくった。それが私の全身を動かす力となって、いのちの火を、大きくした。数多の生き物のいのちを食らい、その怨嗟の声をききながら、胃におちていく星の輝きを思う。
 「にんげん」を好きだと思ったことなど、ただの一度もない。

「…いうことが、いちいちでかいんだよ…」

 ぱたり。
 ぱたたっ。
 落ちてくるしずくが、頬に、喉に、胃に弱くぶつかる。雨ではない。だいぶ青くなった空を背景に、男の表情が、やっと見えた。
 喉を使わず、唇の動きだけでしゃべっているような声で、男は「雅」を語る。

「…おまえに、好かれていたとは…意外だったな…」
「んなわけあるか……」

 次から次へと、涙は尽きることなく、降ってきた。その泣き顔が、なつかしかった。無精髭に覆われた口もとがゆがみ、悪態をつく。
 もっと見ていたかった。
 できることなら、その顔にさわりたかった。
 涙をためた目が、じっとこちらを見下ろしていた。互いの目があっており、東の方角からあたる太陽の光が、以前よりも痩せた頬の輪郭を、くっきりと浮かびあがらせていた。
 黒目があわく光った。

「おれには…おまえが…わからない…」

 嗚咽をきく。
 吹いてきた風が、血を吸った男のコートを揺らした。風には、においがなかった。
 音もない。痛みも。
 落ちた涙が臓腑にしみわたるのを、感じていた。
 この涙が、冥府への路銀となるだろう。
 唇をひらこうとし、口があいたままだったことに気づいた。乾ききった喉からは、もうなんの言葉も出てこなかった。

「………」

 明が私を呼んだ。
 わたしは、最後の息を吐いた。

 『にんげん』
 わたしにとって、人間は、ただのひとり。そこでよごれた死体を前に泣きじゃくっている男、ただひとりの、いのちが。

「雅……?」

 わたしにとっての「にんげん」であった。

2020.7.7