ワンス・アポン・ア・ラヴ

※注意
・現パロ転生雅明
・明→原作記憶あり、雅→原作記憶なし
・亮→明成分あり
・中途半端なところでおわる

 突然肩に手を置かれて上体がびくりと動いてしまった。音楽を視聴するのに夢中になっていたらしい。
 てっきり一緒にここへやってきた加藤だと思い、ヘッドホンをはずして振り向こうとしたら、まったくの別人だった。すぐ隣に男が立っていた。そこにいる顔を見て、全身に電流のようなものが走った。
 男は何かを言いたげな顔をして、俺の顔を凝視している。

「……………」

 ヘッドホンが手から落ちた。口があいた。
 男は俺の肩から離した手を宙に浮かせたまま、こちらを見つめ続けた。相手も口がわずかにあいていた。何かを言おうとしているが、言葉が出てこない様子だった。
 CDショップの蛍光灯の下で、黒いスーツに包まれた体が、俺を視聴コーナーに凍りつかせた。

「……ハ、…」

 口から声が出た。意味のない音だった。男の視線が俺の顔や髪をなぞっている。
 前髪を後ろへ撫でつけていて、顔のつくり全体が確認できた。冷酷そうな目がそのままだった。
 ドッ、と心臓が鳴って、体じゅうから汗がにじみ出しているのを感じた。そこから一気に全身が恐怖に襲われているのを認識した。
 体の横にたらした右手の先が痺れている。
 視聴コーナーの前で固まる俺たちの横を他の客が通り過ぎていった。

「おい明、こっちきてみろよ」

 幼なじみの声を聞きとれたのは奇跡だ。男の瞳孔が収縮するのが、その場からでも見えた。
 サッと身をひるがえし、足早に店内を抜ける。近づいてきた加藤の腕に手を回し、ほとんど駆けるようにして店を飛び出していた。

「なになになになに」
「走る、駅まで」
「おいなに、なんだよ、ちょ待て、待てって!」

 後ろを振り向くなど、怖くてできなかった。店内と外の気温差で喉がスースーした。
 走りどおしで駅にたどり着き、息切れしながら空を見上げると、雪が降りそうな雲だった。冷たい空気が肺に流れ込む。吐く息が白い。
 隣で加藤がやかましい。

「ふざけん、なっ、マジ、この、明ッ」
「……、……」

 息が整うまで、周囲の人混みを忙しなく見回すのを止められなかった。人違いであってほしかった。こんな恐ろしい奇跡は。

 だがその数ヶ月後、学年も上がって蝉の鳴き声がやかましい夏の盛り、冬の日の奇跡が俺を追い続けていたことを知る。

「動くな」

 通学途中の電車の中で背後から声をかけられた。その瞬間、発せられた声があの時の人物のものだとわかった。頭よりも体が理解するほうが早かった。
 車内は八割が埋まっている。朝の通勤通学ラッシュの時間帯は、ドアの前が確保できればラッキーだ。今朝は一限はないが、サークルのミーティングに呼び出されたために、しぶしぶ早起きをして電車に乗ったのだ。ドア前に陣取れたと喜んだのも束の間、ラッキーがこういう形で落とされると、萎える。
 ドアの窓ガラスに反射する背後の人影を見る。すぐ真後ろに立たれている。相手の質量がエネルギーとしてこちらに伝わってくる。

「次で降りろ」
「……や…、あと、三つ向こうで…」
「…なぜ?」
「学校が、あるんで」

 よく考えれば、普通ならこの時に利用駅を言わないほうがよかったのかもしれない。言うとおりに次で降りてもよかった。ただ、相手がまったくの見ず知らずの人物ではないということが、そして今日、今から起こることが絶対に俺にこの再会をうやむやにさせないだろうという、そういう圧力のようなものを感じて、逃げることを諦めた節があった。
 男が頷いたのを気配で感じとった。
 目的の駅に到着するまで、男は俺にぴったりとくっついていた。
 ホームに電車が滑りこむ。ドアがひらく直前に腕を取られ、二の腕をつかまれた状態で歩き出した。この状態を知り合いに見られたら嫌だな、と思った。ここで降りるのは学内の人間が多い。
 冷房のきいた車内からホームに降りたら、一気にむっとした暑さが体にまとわりついてくる。構内アナウンスと人の声が混ざって騒がしい。
 不意に、こんなに大勢の人間がいる場所で、隣の男に腕をとられている状況が、非現実なものに思えた。前回と同じくスーツを着こんでいるが、今日は前髪がおりている。そうしていると、ありもしないはずの記憶が掘り起こされるのが、より速まる。記憶の、輪郭が鮮明になる。
 改札をくぐったが、互いになにも喋らなかった。腕をつかまれている俺を、周囲を行く学生がちらちらと見てくるが、どうしようもない。

「……俺を、」

 言いかけたが、言葉が出てこなかった。喉で感情が詰まっている。
 構内から見える駅外の風景に視線を向け、小さく息を吸った。照りつける日差しが八月の学園街の入り口を焼いている。つかまれている腕の関節に意識が集中している。

「知って…」

 覚えているか、とはあえて聞かなかった。
 男は俺と同じように駅外へ目を向けているようだが、表情をちゃんと見ようとすることはできなかった。

「知っているかと訊かれれば、知らないと答えるほかない」

 男が言った。低く、重たい、腹の底から響く声だ。俺は目をぎゅっと閉じた。

「覚えているかと訊かれれば、記憶にはないと答えるしかない」

 男の声質は冷たく、乾燥しており、湿度のある晩夏の熱気に包まれていても、一人外国の凍土にいるようだった。

「だが、どこかで」

 言葉が止まった。間をおいて、顔を上げた。
 男がじっとこちらを見下ろしている。
 年は、三十代半ば、いや前半ほどだろうか。この国では目立つだろう髪の色は変わっていない。会う者が血が通ってなさそうな印象を持つだろう肌の色も同じ。白い体の部位に対して、目だけは、前と違う。結膜が充血していない。普通の人間の眼球のように、白目がくっきり確認できる。そのことが目の前の男の目つきを以前よりも悪くしている。遠目だと真っ黒な穴のようにも見えたあの赤い眼が、そこにはなかった。
 そうか、発病する前は、きっとこういう見た目だったのか。そう思ったら、四百年という月日を過去に向かって飛び越えたかのような不思議な感覚がした。けれど実際は、自分たちは未来に向かって時代を飛び越えたのかもしれない。
 今の季節にはスーツがいかにも暑苦しそうだったが、当人は気にならない様子だった。
 男の視線は外れなかった。顔のつくり、立ち方、雰囲気、そういったものの全部を眺めて、確認しているようだった。

「どこかで、お前を知っている」

 体温の感じられない表情。しかし、もしこの男に、自分の予想している人物の、その人格やたましいが宿っているのであれば。

「…そっくりさんですかね」

 俺がつぶやくと、関節を握られたところが軽く痛んだ。反射で体が傾いた。男が表情を変えず、手に力を込めている。

「怪しまれてる」

 俺の言葉に、ちらっと男が視線を上げ、切符売り場からこちらを見ている駅員を確かめた。

「移動しよう」

 ぐっと引っ張られ、俺を引きずるようにして男が歩き出した。慌てたのは進行方向だ。学園街ではなくタクシー乗り場のほうへと向かっていく。

「ど、どこ連れてく気…」
「話ができる場所だ」
「ちょっ…」

 力が強い。腕を振り払おうとするが、二の腕をつかむ手はびくともしない。
 斜め後ろから見る男の横顔が以前と同じだった。シャツに包まれた首もとが骨の太さを感じさせた。足から下が冷えつくような感覚がする。
 乗車待ちのタクシーに近づき、男が俺をドアへと突き出した。
 からだではなく、たましいの記憶とでもいうべきものが、反応しているのかもしれない。

「乗れ」

 男があごで示した。
 それとほぼ同じタイミングで、握られた腕と反対側の腕につかまれた感触があった。びくりと肩がはねた。振り向くと、サークルの後輩が立っている。

「明さん、ミーティングに遅れますよ」

 後輩が言った。
 軽く呼び止めたといったていでいるが、声がかたく、神経の張り詰めた顔をしている。
 とっさに言葉が出てこず、へんな間ができた。

「だよな」

 なんとかそれだけ口にすると、亮介の唇が引き結ばれた。俺の背後を見ているのが視線でわかる。
 男を振り返ったら、亮介ではなく、俺を見ている。
 タクシーの運転手が窓を開けて、クラクションを鳴らした。何か言っている。
 男が胸ポケットから片手で札入れらしきものを取り出した。そこから器用に抜いた紙幣を二枚、窓から滑り込ませた。万札に見えた。
 男のその動きで、俺は自分の予想がほとんど的中しているのを確信する。
 自分の想像している人物と、目の前の人間は、「同じ」だ。外見がいくら似ていても、からだの動かし方、腕の振り方、身のこなしのくせ、そういったものはおそらく変えられない。ごまかしようがない。同じ情報が引き継がれている。
 そこに感じたのは恐ろしいまでの懐かしさだった。

「乗れ」

 目に感情が浮かんでおらず、とても呼吸をしているとは思えない銅像のような静けさをまとっていた。
 背後の後輩もおそらく俺と似たような恐怖を感じている。

「さっさと乗れ」
「明さん、人を呼んできます」
「いい、いい」

 慌てて言うと、亮介が握る手に力がこもった。振り向いて後輩を見た。亮介は男を見上げている。

「明さん」

 頭のなかで激しく考えが暴れまわっていた。この状況で、この先の自身の行動によって起きるいくつかのトラブルと未来が予想され、どうしたらそれらを回避できるかを考えた。面倒はごめんだった。おびえている後輩が気の毒だった。とにかく、目の前の奴をどこかへやりたかった。俺の目の届かないところへ行ってほしい。
 男の目が悪い。赤く染まった眼では気づかなかった。薄い茶色がかった瞳が、まぶたの下から他人の変化を虫を見るように観察している。ほんとうに目つきが悪い。
 亮介につかまれている方の腕を体に引き寄せた。不意打ちだったのだろう、つられた亮介が俺に向かって蹴つまずいたような動きになる。しかしその手は離れなかったので、腕をつかまれたままショルダーバックを探った。

「わかった、これを預けるから」

 財布から取り出した運転免許証を、男に見せた。男の目がすっとそちらに移る。後ろで息をのむ音がした。

「明さんっ、なんつうもん出して…!」
「大丈夫だ、亮介、大丈夫、知り合いなんだ」
「どう見てもからまれてるでしょうが!」

 必死の剣幕で肩を揺すぶってくる後輩を背に、男の様子をうかがうと、納得する理由となったのか、男の指が俺の免許証を自身の胸ポケットへとしまうのが確認できた。これで現住所までしっかり握られた状況だ。もう逃げられない。
 男へ向かって言う。

「今日はもう、いいだろ?」

 頼むからこのへんにしてもらいたい、という気持ちで、ぎゅうっと眉を寄せた。揉め事の気配を感じとって、周囲にギャラリーも集まりはじめている。おそらくほとんどが大学の学生だ。興味本位で見物されるのは困るし、妙な噂を立てられるのも都合が悪かった。
 男は数秒こちらをじっと見つめた後、小さく鼻で笑った。これまた、びっくりするほど懐かしい笑い方だった。

「ふざけおって」

 そう言い捨てて、男はタクシーに乗り込んだ。男を乗せたタクシーはあっという間に走り去り、あとにはものすごい目をした後輩と、個人情報のかたまりを譲り渡した俺が残される。

「最近お前が変な男に取り立てされてるって噂を…」

 飲んでいたペットボトルのお茶を吹き出した。正面に座った西山が驚きの表情で眉を持ち上げる。

「事実なのか!?」
「…ッじ、じじつ、じゃない…じじつじゃない…!」

 デマ、ガセ、と咳き込みながら懸命に伝えると、幼なじみも安心したように息をついた。

「そうだよな、変だと思ったよ。借金とか…」
「あるわけねえだろ」

 バッグに入っていたタオルでこぼしたお茶を拭く。変に顔が熱い。そんな俺を、西山は眼鏡の奥からじっと見つめてくる。確かめるような視線だ。
 俺はあえて黙って、タオルをバッグにしまう。
 幼なじみの髪がいつもよりも短かった。散髪を終えたばかりらしい。学外の人間である西山がこの大学に足を運ぶのは月に一、二回といった程度だが、昔からいつも小綺麗にしているこの賢い幼なじみは、毎回律儀に俺の姿を探して、こうして声をかけにくる。
 食堂内は人の声や食器の音で、沈黙が目立たない程度に騒がしい。西山の手にある紙コップをチラッと見た。そこの自販機のコーヒーのようだ。ひとくちでも口をつけたのだろうか。

「…飲めば?」
「亮介から聞いたけど」

 視線を上げる。幼なじみと目が合う。

「さっきのは冗談にしても、本当に知り合いなのか」
「……なんで俺の人間関係を、あいつはこんなに吹聴しまくってるわけ」
「お前のことが心配だからだよ」

 小さくため息が出た。あの日の出来事が思い出され、つい渋い顔つきになる。その後の後輩のしつこすぎる追求も、あれから現れた来訪者の存在にも、つくづく閉口していた。適当にあしらい続けたせいなのか、後輩は作戦を変えたらしい。
 西山がテーブルに身を乗り出した。

「明お前…」
「ン」
「なんか、危ないことに巻き込まれてやしないよな」

 がしがしと頭を掻いた。
 亮介の阿呆め。

「ない。なんもない」
「…そうか。それなら、いいけども」
「お前が心配するようなことは何も起きてない。だから、みんなにも言うなよ」

 俺の言葉に、西山の表情が固まった。食堂の天井を仰ぐ。

 男が部屋を訪ねてきたのは早かった。運転免許証を渡した、その日の夜のことだった。荷造りをして逃げ出すひまを与えないためだったのだろうと今は思う。
 夕方に学校からバイト先へ直行し、上がったのは夜の十一時で、アパートへ帰り着いたのはもう日付が変わる直前だった。日中にあったいろいろな出来事で心身ともにくたびれており、しかしそれでも、言葉にはできない自身のどこかが、今日のこの一日がこのまま無事に終わるはずがないと訴えていた。そしてそれは当たっていた。
 昼間の暑さを引きずった蒸し暑い夜で、歩くだけで汗が額と腋の下ににじんだ。暗い帰り道を歩いてくると、自宅アパートの郵便受けの前に男が立っているのを見つけた。遠目にも立っているのが奴だとわかった。白白と光を落とす外灯の下で、一人道路の方を見ていた。
 俺は足を止め、しばらくその姿を離れた場所から眺める。

(どうやっても認めざるを得ない)

 知っている。
 俺は、この男を知っている。かつて。昔。ずっと前に。

(この男の顔もなんもかも)

 どうしてそれが「自分」にわかるのかもわからない。あの冬、顔を見た瞬間にこの男の前から逃げ出したのは、とてつもなく強い衝動から起こった体の反射だった。考えて答えを導き出す前に先に体が逃げていた。

(懐かしくて、恐い)

 あるはずもない何かが、頭のなかに、ずっとある。昔から。
 記憶の奥の裏側のほうにいるそれが、いつもずっとそれがあって、それがもう一つの人生のように、夢や、日々の生活に影のようにちらついてくる。ふとした瞬間に顔を出す。経験したこともないものが。感情が。
 とても長い、語り尽くせない、大きな何かが。

(俺だけなんだな)

 そこにこの男がいた。最初から最後まで。

(これを、覚えているのは)

 今もずっといる。

「いつからいたんだ」

 アパートの敷地に入っていくと、俺に気づいた男も近づいてきた。今日は曇りで、月がなく、地元ならもう少しあたりは暗いだろう。東京へ出てきて驚いたのは、真夜中の住宅街でも明かりが多いことだった。人を見かけない時間帯になっても、話し相手の表情がわかる程度には光源がある。
 不意に、急に、兄のことを思い出した。近づいてくる男の顔を見て、兄を思い出すのは、自身のなかでだけ、妙に恐ろしいことだった。

「遅い」
「バイトで…。まさか昼からいたんじゃないだろうな」

 男は何も答えない。俺もかける言葉を失う。アスファルトはまだ熱を持っている。あの猛暑のなか、ここで待っていたとは。

「あんた…」

 言葉が続かなかった。
 二歩ほど離れた場所で男が立ち止まった。頬が電灯の光に照らされ、白い顔が能面みたく目立った。装いは朝と変わらない格好だ。一日の汗と疲れでよれている自分とは対照的に、まるで試着室から出てきたばかりのようだった。

「どうして私から逃げる」

 男が言った。

「『宮本明』」

 この声。この響き。
 まぎれもない。間違えるはずもない。

「…免許証、返してくれ」
「話が終われば返す」
「話すことなんかない」

 男の目もとに厳しさが出た。
 その顔を見上げつつ、行き場のない腕を体の前で組む。自身の指先がかすかに震えていた。
 その場から見える住宅や、アパートの幾室かは閉じられたカーテンの隙間から明かりがもれていたが、人通りはなく、ぬるい夜があたりを包んでいた。離れた筋で車が通る音がした。
 体が汗でべたついて、それがやけに不快だった。早く部屋に戻ってシャワーを浴びたい。

「そんなもん、俺にはない…」

 ぼそぼそした声になる。男の目が細められる。
 強く主張しきれないのは、丸一日ひとを待たせてしまったことへの罪悪感もあったが、本当は、男の言うことの方が正しいのを知っているせいだ。

(でも、話したって、意味がないじゃないか)

 男の空気に気圧される形で、目をそらした。とてもあの目を見ていられない。赤く染まりきった瞳よりも、一層はっきりと視線の先がわかってしまう。
 男の目に悪意はない。敵意も。わかっている。ただただ、ひたすらに強い関心が向けられているだけだ。危険などありはしない。もう。
 生ぬるい弱い風が吹き、どこかの工場からだろうか、塗料くささと一緒にそれが俺たちのあいだを通り抜けた。じっとりとした空気がまとわりつくように、うなじのあたりに引っかかった。手の甲で額を拭う。うっすら汗で濡れている。
 男の二本の脚が視界に入り続ける。黙りこくった俺を見続けている。

(どうして、俺だけ)

「お前は、いったい誰だ」

 男が言った。
 震える指先で、ぎゅうっと自身の腕に爪を立てた。

 口からこぼれ出ていた。

「てめえだけ、忘れてんじゃねえ…」
「何?」

 一拍遅れて、頭がクリアになった。顔を上げて正面を見た。男の顔色が変わっていた。

「何と言った?」

 思わず半歩後退った。逆に男の方が一歩踏み出した。見てわかるほど気が逆立っている。
 男の神経の昂ぶりにあてられて、こちらも膝が震えた。口がわなないた。

「お前が、お前だけ、忘れて、知るかよ!」
「何を言っている?」
「てめえが忘れたことだ!」

 深夜だということも忘れて大きな声が出た。みっともなくかすれた声になった。
 どうしようもないくらいに内側から沸き立つ感情を、衝動を抑えきれない。

「忘れるくらいなら、俺に関わるんじゃねえ!」

 感情の鍋が急速に沸騰し、ぼこぼこと激しく泡を立てる。こらえてきたものが、あふれ出して、器から中身がこぼれる。
 男が素早く伸ばしてきた手を振り払い、踵を返して走り出した。

 そこには俺が知っている人たちと、よく似た人たちがいて、その不幸の果てしなさには終わりがなかった。これが自分の頭が作りだした「嘘っぱち」や夢だと信じるには、あまりにもたくさんの不幸が彼らを襲いすぎた。こんなものを俺は絶対に作らない。こんな悲しい物語を、俺は書かない。
 もう一つの人生にいる「俺」の目が、今の、この世界を見ているときなのか、たまに、どうしようもなく涙が止まらなくなるときがある。今の俺が流す理由のない涙だと割り切れないのは、それがあまりにも切実な想いからくるものだと知っているからだ。覚えているといってもいい。ときどき、俺が知っている人たち、親しいひとと話したり、一緒にいるときに、ぽろぽろと勝手にでてくる涙。そういうとき、おそらくもう一つの人生の「俺」が泣いているのだとわかる。
 俺は一人であって、一人ではないような気持ちを、ずっと抱えて年を重ねてきた。俺は「俺」の地続きのようなものではないが、ある意味では地続きだった。「俺」は俺で、宮本明として、ふつうに進学して、地元を出て、東京にいる。一緒に上京してきた幼なじみたちみんなと、ふつうの大学生をやっている。
 生きてきた経験や得てきた記憶のほかに、手にしているものがあるのは、本来どちらの人生を生きているといえるのだろう。これは自分にとって、何回目の人生で、いつかの誰かの記憶が俺に残されているのは、何らかのバグのようなもので、俺は本来の人格や性格からすこし離れた人間になっているのではないかと感じる。
 二つの人生の記憶と生き方が混ざり合って、俺は、「俺」のいない、最初の俺がわからない。それを知るには「俺」のいない状態で生きた俺を目の前に連れてきて、くらべてみるしかない。しかしそんなものはきっとどこにもいないのかもしれない。俺は最初から、こういう自分になるはずだったのかもしれない。
 夜遅くに、幼なじみたちと集まって過ごしていると、涙が次から次へとあふれ出て、止まらず、どうにも笑いたい自分と、彼らを失った記憶が重なって、弱った晩がある。強固に感じるのは、彼らを慕わしいと、いつまでもこうしていたいと願う、点滅する星のような温もりだけだ。

 俺には、もうどちらのいつの感情や記憶が、いつの俺自身のものであったかが、よくわからないのだった。

 腕をつかまれ、ガクンと体がつんのめった。その反動のまま、痛いほどの力で後ろへ荒く引き寄せられ、体勢が崩れた。
 背中から他人の胸に倒れ込む。
 背後から巻きついてきた腕がきつく俺を掻き抱いた。あまりにも強い力で、その力の込め方で踵が浮いた。

「お前は、誰だ」

 耳元で囁く声が、深く、低い、腹の底から轟くあの声だった。それだけで首筋から腰まで鳥肌が立った。
 息を切らし、男の腕を引き剥がそうともがいた。両手に力が入らなかった。背後の男がますます俺を抱きしめる力を強めた。
 肺が圧迫される。息がしづらい。苦しい。

「俺は…宮本、明…」

 男の手が俺のあごにかかる。その指先の、こするような触れ方に、顔を覆いたくなる。
 知っている、知っている。俺はこの指を、知っている。
 ずっと知っていた!

「お前が、探している、男だ…!!」

 肺の息すべてのせて、吐ききった言葉が、男の耳に届き、抱きしめる腕が緩んだ。
 その瞬間、鼻の奥を、切なく引き絞られるような感覚が襲った。ツンとしたそれが、何からくるものかも理解できなかった。視界が急速に淡くにじんだ。
 その場にくずおれかけた体が、乱暴に、今度は正面から抱き直される。
 男が俺を抱きしめる。激しい抱擁だった。

「やはり、そうだろう」

 骨がきしむほど。互いの体の心音が重なるほど。

「そうだろうとも」

 男の手のひらが俺の後頭部を覆った。じかに伝わってくるその手のひらの温度に、ますます視界がモザイク化して、よく見えなくなった。
 スーツ越しに抱かれる体はあたたかい。この骨と、分厚い胴体の感触を、体温を、自分は。
 「俺」は。

「お前でないはずがない」

 頬が触れ合っていた。目尻から落ちた熱い雫が男の頬にも移り、互いのあごから首までを伝う。とめどなくあふれてくる温い水が、夏の夜気にさらされて、塩辛さを増す気がした。
 細い四つ辻の真ん中で、俺を抱えた男が座り込む。湿ったぬるい夜の底で、自身の指の震えが増していることに遅れて気づく。
 白い両手が俺の両頬を包みこんだ。

「お前のことが、分からずとも」

 感情の感じとれない瞳が、まばたきもせずに俺を凝視していた。ひたむきともいえるそのまなざしから、逃れなかった。
 男がつぶやいた言葉はほとんどひとりごとだった。夜にまぎれたかすかで低い独白のその言葉が、たぶんこの男が俺を探してきた日々の、すべてだった。
 身を切るようなその声だけは、記憶になかった。

「探した」

 探した。

 呼ばれれば、応える間柄となり。

 形容しがたい関係ではあると思ったが、なかなかその仲に一つの名前をつける気にはならなかった。ただ、どうしてももう、他人としては振る舞えなかった。男も同じだった。互いに会いたければ会えることが重要だった。
 夏が終わる頃には、月に数回会うことが定例化した。自分の日常に男の存在があることが徐々に当たり前になり、それは周囲も知ることとなっていったが、なにを言われてもうまく説明がつけられない俺に(だってどう言えばいい?)、幼なじみたちは説明に四苦八苦する俺を面白そうに眺めるだけで、あまり詮索をしてこなかった。もともとこういうふうに会っている男はほかにもいた。以前と同じようなことだと思われていること、それがありがたかった。

「明さん」

 荷物を取ってロッカー室から出ようとした俺を、廊下の先から後輩が呼び止めた。

「話があるんだけど」

 この後輩だけが、いまいち納得してくれない。

2024.9.22