オフィーリア

 明が病にかかった。もう二度と目覚めない。だから早く感染しておけばよかったのだ。今さら言っても、もう遅い。

 脳の病気だかなんだか知らないが、医者は男がふたたび立ち上がり剣を振るう事は不可能に近いと言った。息はしている。心臓も動いている。ただ目を覚まさないだけ。起き上がらぬだけ。私の顔を見て悪態を吐くことも、息巻いて斬りかかってくることもない。これから先も、ずっと。おそらく男の寿命が尽きるまで。
 なんとつまらない。

 男を拾ったのは優秀な部下だ。湖の真ん中に裸で浮いていた、引きあげると気を失っていたので捕まえてきた、というようなことであった。後から調べれば、それは単に気を失っていたわけではなく、病が発症した事による彼の頭の中で起きた変化の所為であり、それによって男が意識を保てなくなったのだと知るのだが、部下が連れ帰ってきた男を見て、私の胸は大きな喜びで満たされた。
 欲しかった男が、そのまま己の夢の形だ。自分が見た欲しい未来、望んだ選択肢、すべてがその体に詰まっていて、それがまるごと「宮本明」という存在だ。部下の手から男をもらい受け、濡れた身体を両腕に抱きかかえる。意識のない肉体の重みは心地よい。
 すべての命に終わりがある。その約束事から、一刻も早く男を切り離してやりたい。私が見ている未来を、景色を、お前にも見せてやりたい。この欲求は一体何であるのか、どこからやってくるものなのか、ついぞ己にはわからなかった。強く、魅力的な、立ち続ける私の夢。
 嬉しかった。やっと手に入ったのだ。

 浮かない様子の部下は全身ずぶ濡れでいた。
 これはおかしいと気がつくまで、時間はかからなかった。

「明」

 目の前に立つ部下の視線を感じた。

 どれだけ血を注ぎ入れても無駄だった。吸血鬼ウイルスは一度目の実験で男の細胞を喰らい尽くした。あっという間につくり変わっていく体から目をそらせず、もう喜べもしなかった。病の方が強かった。
 止まった心臓が動き出し、鋭い牙が現れても、男の頭の中で起こっている現象はこちらを嘲笑うように同じ場所に居座った。明は目を開けず、無力な姿で、されるがまま静かに吸血鬼となった。

「頭を開いてみるか」

 急に立ち上がった私を見て、周囲にいた部下達がぎょっとした。大股で歩き、ステンレス製の台の上に並んだメスを握った。眠る明の額の上にかざした刃が、素早く横から伸びてきた手に掴まれた。
 握った拳の間から、赤い血が一筋流れる。

「雅様」

 顔を横に向ける。山羊の頭を身につけた大男が、メスの刃先を自らの手で固く握りしめた。
 真下にある明の頬に、数滴の血が滴り落ちた。

「いけないか」

 メスを離さず、兜を見つめた。

「無駄か?」

 獣の無感情な瞳がこちらを見つめ返してくる。明の頬を斧神の血が伝う。

 病は強敵だ。脳全体に散らばった腫瘍は数が多すぎて、取り除くにはあまりにも、肉体にかかる負担が大きすぎるらしい。切ってもまた転移する可能性の方が高い、と医者は震える声で言った。メスを入れるほど苦しませるだけ。
 この途方もない感情を、どこにぶつければいいのかがわからない。自我を保つ事が難しくなるほどの憎しみと怒りが、全身を支配する。憎い。許す事ができない。何故思い通りにならない。何故。どうして。
 嵐のようなそれが過ぎ去ると、今度は虚無感がやってくる。思い知らされる。二度と己の夢は手に入らないのだという事を。

「傑作だ」

 午後の日は暖かい。あの日もこうやって縁側に腰掛け、庭の片隅に咲いた山百合を愛でていた。抱いた男の体温を思い出しながら。

「待たなければ…」

 隣で深く息を吸う音がした。膝の上で、緩く両手を組み合わせた。
 しばらくそうして、組んだ手と、その下の足の甲を見つめていた。

(そうか。これが)

「いくら言っても、詮無いことだな」

 その場で立ち上がると、隣で沈黙を貫いていた部下の兜の下から、一筋、また一筋と、涙が流れ落ちた。

(後悔というものか)

 声もなく涙を流す部下を見下ろし、その時になってようやく、「夢」はこの男にとっても夢であったのだと気づいた。

 きっと、水浴びでもしていたのだろう。体を清めるついでに、湖でひと泳ぎといきたかったのかもしれない。発見時には男は仰向けで浮いていたと聞いた。水死体にならず、運がよかったか、悪かったのか。
 水面に浮かぶ裸のお前を私も見たかった。水草の絡みつく手足や、湖岸の草花が、その時の私の目に焼きついただろう。死んでいるようにも、ただ眠っているだけにも見えたはずだ。

 そこから見える景色は、きっとずっと美しいに違いない。

2017.2.23

吸血鬼ウイルスはどれだけ病に立ち向かえるのか、気になった話。