【Web再録】成熟(一)

 何も見えない。
 今居る場所も、周りにある物の輪郭も、一切目にすることができない。
 目が慣れる、ということはない。
 真の闇では目は慣れない。
 黒く、濃い闇の奥の方に、自分は居る。
 とても小さな空間に閉じ込められているのだろうということはわかるのだが、それが例えば床下収納庫のような狭い場所なのか、それとも何かの箱なのか、そのあたりがよくわからなかった。何にしても狭い。幅も高さもなく、体勢を変えたくなっても、膝を抱えて座る姿勢でしかいられない。脚を伸ばすこともできないのだ。
 ただ、左拳で足元を軽く叩くと、冷たく硬い感触がする。金属であることは確かなようだ。
 眠っている間に(気を失っていたという方が正しいが)なんとか体を動かせるほどにはなっていた。
 目を覚まし、まず何よりも、気を失う前と同じ身体が揃っていることに安堵し、次に感染していないことに全身から力が抜けるほどほっとした。どこにも欠け損じはない。右腕の、義手を除いて。
 体じゅうが痛かった。あちこちがひらいていて、全身が氷のように冷たく感じられ、同時に熱っぽくて体がほてっている。複数の傷口が疼き、腹と脚が腫れて熱がある。それでも、生かされている。牙もない。最悪なコンディションではあるが、俺は、人間のままだ。
 傷口が見えないのが今はありがたかった。見ても、今はどうすることもできない。
 右腕の先に義手がなく、空っぽになった場所に強い不安と無力感を感じていたが、ゆるく頭を振って目を閉じた。今はこのことは考えまい。考えても無駄だ。
 しかし、奴はどこに行ったのだろう。
 目を開け、暗闇をじっと見つめた。
 生かされている理由はなんとなくわかる。あの男の軍門にくだった時点で、自分にただ死ぬという選択肢が許されないのは予想できていたことだ。雅は合理的に物事を考えるたちの男である。
 それなら、なぜ自分は感染していないのか。戦闘員にするつもりであるなら、これは意味のない保留だ。眉根を寄せた。
 奴は、どこに行ったのだろう。
 体の回復が追いつくまでは、無理な体勢でも眠るしかなかった。おそらく、どのみちいずれ何かがやってくる。敵にしろ、危害にしろ。
 ここへ。

「頼むから、俺を心配させるな」
 心配させたくて、させているわけじゃない。
「何度言えばわかるんだ。一人になるなと…」
 言われなくても、自分のことくらいわかっている。
「俺は…、お前のなんなんだ…?」
 兄貴。
「お前が、お前が…弟でさえなかったら…」
 兄貴、あんたは、俺の兄貴だ。俺の、兄貴だろう。なあ、兄貴。
「わかっている…わかっている……」
 兄が両手で顔を覆った。ベッドに腰掛けた両脚の間へ屈み込み、それきり、何も喋らなくなった。肩がわずかに震えていた。その肩に手を置こうとし、ためらった。
 右手を宙に浮かせた中途半端な姿勢で、自分の兄を見下ろした。
 目の前に立ち尽くす俺を見ないまま、顔に当てた両手を指先が白くなるほど強く握りしめていた。
「ごめん…」
 息と一緒に吐き出した自分の声が、小さく、弱々しかった。申し訳なさと、納得できない気持ちと、苛立ちと不安とやり場のない怒り、それらすべての裏側にたとえようもない悲しみがあった。
 好きで、こんな体でいるわけじゃない。
 好きでこんなふうに生まれたわけじゃない。
 兄は顔を上げない。
「兄ちゃん……」

 最初、何も見えなかった。
 目をしばしばさせ、上に向けた顔を動かさずにいた。すっと影が落ち、何かに光が遮られたのがわかった。
「出ろ」
 男の声に、反射的に素早く右腕を掲げ、すぐに義手がないことを思い出し、そろそろと腕を下げた。
 低い笑い声が落ちてくる。
「賢明だな」
「……」
「出ろ」
 徐々に光に慣れてきた目が、あの特徴的なくちばしを見つけた。その上にある黒い小さな眼も、胸元の白い羽も。逆光で影に隠されていても、男の目がこちらをじっと見つめているのはわかった。
 左手を伸ばし、頭上のふちに慎重に手をかける。長い時間を同じ体勢で過ごしたせいで、ブリキのおもちゃのような感じだったが、体力が少しは戻ってきているようだった。
 体を大きく傾けた拍子に、腹部を強い痛みが刺した。
 傷の腫れは引いていない。どういうわけか、三又鉾で受けた傷よりも、男に噛まれた場所の方がひどく痛む。あのぎざぎざの歯のせいだろうか。
 黙っている姑獲鳥の前で、何度か深呼吸をした。
 ようやく痛みが落ち着くと、膝をついて、四角の形に開いた場所から頭を出した。

「…ここは」

 白。

「どこだ…?」

 白い。
「あの方が所有する施設の一つだ」
 姑獲鳥が言った。見回す自分の口が開いていた。
 金属の箱から抜け出て、床の上にそっとおり立った。床も、白い。
「何してるんだ…お前ら…」
 白い部屋だった。
 見渡すかぎり、何もない。
 真っ白だ。
 姑獲鳥は横に立ち、俺を眺めている。
 物が何もないために、影がまったく存在しない。あるといえば、ただ一つ、俺が閉じ込められていたダイアル式の金庫だけだった。ぎりぎり人ひとり閉じ込められるほどの金庫を真ん中に、だだっ広い空間が存在している。
 四方を覆う壁のすべて、天井までが真っ白だった。天井は姑獲鳥の背よりも少し高いくらいで、端まで等間隔につけられた白いライトが頭上で明々とともっている。先ほどまぶしいと感じたのはこのライトだ。部屋全体をさらに白くしている。
「貴様が今日から過ごす場所だ」
見つめていた一つきりの白い扉から、隣に立つ男へと目を移した。
「…なんて言った?」
「貴様が今日から過ごす場所だ」
「何言ってやがる」
 姑獲鳥はピクリとも動かない。
 その時、やっと気づいた。
 なぜ、こいつ、俺を殺さない。これだけ近くにいるというのに、まるで殺気を感じない。どうして普通の顔をして、こんなふうに会話している。
 ごく、と唾を飲み込んだ。
 なんだ、これは。
「…奴はどこだ」
「奴とは」
「雅をだせ」
「雅様は外にでられている」
「呼び戻せ。今すぐ」
 こちらを見る黒い瞳が、じっと見ていなければ気づかない程度に細められた。
 大きな声をだしたことで、傷口の疼きが増している。その痛みに関係なしに、鼓動が早くなっている。
「姑獲鳥」
 男は武器を持っていない。
 数時間前、数日前までかはわからないが、この男と自分はたしかにあのドームで殺しあった。腹の傷はたしかに、その時のこいつに食われたものだ。
 くちばしの隙間からのぞく、この歯が、肉を突き刺し、皮膚の下の筋肉を引き裂いたのだ。
 背中から、どっと汗がふきだした。
 何か、得体の知れない、尋常でない状況に陥りかけている。
「姑獲鳥」
 男の目元が歪んだ。羽根のない場所の皮膚がつっぱり、頭部の羽根全体がさらさらと震える音がした。
 ぎゅっ、と左手を握りしめる。
 笑われている。
「処女か?」
 俺の知り得ない何かが起こっている。

 血の気が引いた。
 男の質問に対する答えを導き出す前に、床に押し倒されていた。背中を打った衝撃で倒されたことに気がついた。質問に気を取られ、反応が遅れた。
 着物の裾から入ってきた手に、叫んだ。
 なぜズボンではないのか。闘技場での変装のまま連れ去られているからだ。あの時力まかせに破り捨てた裾が半端に短い。
 なぜこいつが知っている。なぜ。
 まさか。
「見たのか、お前」
「その慌てぶりだと、どうやら担がれたわけではないようだな」
「離せ、やめろ、」
 節くれだった指先がすぐ下着に届き、勢いよくずりおろされる。その瞬間、息が止まった。
 直後、肺が締めつけられるような息苦しさに襲われ、体じゅうの産毛が総毛立った。
「やめろ、触るな、俺に触るな!」
 男の肩や腹を蹴飛ばし、殴り、必死に床を這いずって逃げようとするのを、ももをつかまれ、引き戻される。暴れているつもりが、力がほとんど入らなかった。精神が体から分離しかけているような。
 自分の体なのに、コントロールがうまくきかない。夢の中で相手を殴っているような感じだった。
「姑獲鳥、頼む、待ってくれ」
 説得しようにも頭が回らない。そもそも説得が通じる相手でないことは明白だが、そういったことが頭から抜け落ちていた。まともな判断力が失われ、とにかく、知られてはならない、の一点が意識の全部を占めている。
 胸が波打った。
 酸素を取り込む機能が遮断されたように、浅くしか息を吸えず、苦しい。苦しくて仕方ない。
 もぐりこんだ無骨な手が、容赦なく股の間に届いた。
 声のない悲鳴が空気を震わせ、左手で相手の手首をきつくつかんだ。覆いかぶさる姑獲鳥の視線が、着物の下の自らが触れている場所に注がれていた。
「……っ…」
 両脚をきつく閉じる。
 男の腕があるせいで、閉じきれず、ももで男の腕を挟む格好になる。
 歯を食いしばった。
 最初に、指先が陰茎に触れた。それから、太い指が下へとおりていき、二つの玉に隠れるようにしてひそんでいた割れ目を見つけ出した。そこに触られた瞬間、ビクッと体が揺れた。
 たまらず、目をぎゅっとつむっている。
 男の手が割れ目をなぞった。ここまでの粗暴さとは離れた慎重な手つきで、注意深い動きだった。
 やわらかさを確かめるように、指の腹がふっくらしたあたりを、下から上へと撫でる。
 息を吐いては、吸った。心臓が飛び出しかねないほどに鼓動しており、緊張でうなじのあたりがひどくこわばっていた。
「ッぅ…」
 なんだ、これは。
 なぜ、俺はこんなことをされている。一体なにが起こっている。
 目の前にいるのは、あの地獄で刃を交わしたはずの男だ。そのはずだ。幻覚でも、夢でもない。自分は負けたが、敗北後にどうなるかはわかっていたことだ。自分だけがその運命から逃れることはできない。
 生殺与奪の権はにぎられてしまったのだ。
 かさついた指の先が、ふに、と膨らんだ肉に埋まった。跳ね上がった自分の足を床にぶつけた。男の意識は逸れない。
 だから、なぜ、俺の性器に、この男の手が触れているんだ?
「ふ、ふざけるな、おまえ…」
「おとなしくしていろ」
「…っ」
 何から何までわけがわからない。
 わからない。起きている出来事の意味が。
 息が乱れ、目がくらくらした。どこもかしこも痛い。ありったけの力でした抵抗が、閉じかけていた傷までをもひらいたようだった。
 どれかの傷口から血がでている。においがする。
 金庫の中にいる時から、着物の内側が蒸れ、体全体がしっとりと汗ばんでいた。布の下で股間をまさぐる男の手が、俺の汗によって次第に湿り気を帯びていく。
 他人に触れられたことのなかったそこは、男の細心な触れ方に、様子をうかがうようにじっと隠れている。姑獲鳥の手はあくまで外側だけを調べている。
 天井がまぶしい。
「時間がいるな」
 男の手が離れる頃には、腹のあたりに新しい赤い染みがじわじわとひろがりつつあった。ひらいた傷が古い血の跡を上書きしている。
 人差し指と親指をこすりあわせ、立ち上がった姑獲鳥がつぶやく。
「よくひろげる必要がある」
 興奮と痛みの反動で床から起き上がれずにぐったりしている俺を見下ろし、男が肩のあたりで片手を振った。どこかへ向けての合図のように見えた。
「わかるようにものを言え、この、クソ鳥…」
 姑獲鳥がクッと笑った。
 自分の声がかすれて、変に喉にひっかかっている。触れられた感触が、まだ鮮明に股間に残っている。
 すぐ近くから火であぶられているように、腹が熱い。
「人体実験でも、するつもりか」
 たしかに、あの男には少し物珍しいかもしれない。新しいもの好きの男だ。この白い部屋。よくわからない施設。
 何をして遊ぶにしろ、必ず現れるはずだ。自分の前に。
「……」
 なら、この大男は、なんのためにここにいるのだろう。
 首を振った。駄目だ。同じ問いに戻ってくる。
 どうにも、普段よりも頭の回転が遅い。得た情報を組み立てようとした先から、いろんなことがバラバラになってしまう。
 何か、とても大事なことを見落としている気がするのに。
 動きを最小限に、そろそろと上体を起こした。思った以上に、疲れているのかもしれない。簡単なはずの答えが導き出せない。
 いつのまにか金庫の上に腰掛け、姑獲鳥がこちらを眺めていた。
「にぶすぎるな」
「疲れてんだよ…」
「雅様が仰せなのだ」
 しんとした白い空間に、俺の荒い息づかいだけが目立つ。
「……どうだって?」
 闇をたたえた目は、黙って俺を見つめている。
 男の目から視線を外さず、乾いた唇をゆっくり湿らせた。左手が意味もなく、自然と脇の下に入っていた。
「子をつくれと」

「我々と貴様で、子をつくれと仰せだ」
 言葉とほぼ同時に、男の後方で一つきりの白いドアが開いた。そこから作業服姿の男たちが入ってきた。