男たちは決して俺に話しかけない。
白い部屋の隅から、入り口付近で簡易トイレを片付ける男たちを目で追う。いつもの作業だ。一人が片付けている間、残りの二人が部屋の奥に座る俺を監視している。
それぞれの手にはしっかりと麻酔銃が握られている。ゴーグルの奥の目は対象である俺から離れず、銃口はこちらに向けられている。その目が赤く染まりかけていた。
二週間前に彼らを襲ったことで、いまだに警戒されているのだ。
白い作業服に、作業服と一体型になったフード、白いマスク。
みんな同じ姿で入ってきては、短い作業を黙々とこなす。俺はそれを離れた場所から眺める。
待つ間、男たちの立てる音、息づかいなどが、しんとした部屋の中に響いていた。それがやけに大きめに感じられるのは、やはり俺だけではないようだ。
すべてはこの部屋のせいなのかもしれない。
広すぎる。明るすぎる。清潔すぎる。それまでは意識を向けることすらしなかった静寂に気づくのは、音がそこに生まれた時だ。
男たちはどこか居心地悪そうに、やや焦り気味で作業を終えた。
扉が閉まった瞬間、小さく息をつく。まるで自分が悪霊にでもなった気分だった。
そんなふうに張りつめなくとも、もう襲ったりなんかしない。そんなことをしても無駄だということが、前回でいやというほどわかったからだ。
部屋は空調で快適に保たれている。どこからも風が吹く音はしないが、裸足の足の裏に触れる床はさらさらしていた。
こういう電力も、一体どこから引っ張ってきているのか。
また一人きりになったので、トレーニングの続きに戻ることにした。次に扉が開く時まで、やることがない。
体を動かしていると、誰もいない部屋でどこかから視線を感じる。きっと、いまも誰かに見られているのだろう。
「いかれてやがる」
あの日、有無を言わさず麻酔銃を打ち込まれる寸前、自分がやっと口にできたのはその一言だけだった。
部屋に入ってきた男たちは、十分な距離をおいて俺たちの周りを取り巻いた。倒れる前に、近づいてくるゴム製長靴の足音と衣擦れの音を聞いたような気がしたが、記憶をたどることはできない。早々に意識を手放してしまったからだろう。
暗闇に落ちる前に覚えているのは、あの大男が部屋から出ていく、その後ろ姿である。
そして麻酔からさめ、まず目に入ったのは、全身に施された治療のあとだった。
消毒し、縫い合わされ、空気に触れぬよう、すべての傷が清潔に覆われている。男が噛みちぎった腹の傷でさえ、包帯で隠されているが、丁寧にふさがれていることがわかる。
部屋には誰も残っていなかった。金庫も、医者たちも、男も、姿を消している。
並大抵のことでは驚かなくなったと思っていたが、人間、予想もつかない方向からの衝撃には、なかなか反応できないものだ。
しばらく動けないほどのショックに、じっとしているほかなかった。
鼻をつく消毒液のにおい。清潔な真新しい包帯。この、無菌室のようなひらけた部屋。
耳が痛くなるほどの無音。
その時、ようやく俺は、連中がそのおぞましい考えを本気で実行するつもりなのだと知ったのだった。
「近頃は、いいようだな」
ぼうっとする頭で、男の声に顔を上げる。指が抜かれていったのがわからなかった。
肩越しに見た二本の太い指は、薄い体液に覆われ、ライトの下でぬめぬめと光っている。その様子に、先ほどまで指が入っていた場所が重たくうずいた。
膣が空っぽになった感じがする。
「…なにが…?」
「ひろがっているのが、わかるか」
体を仰向けにされ、力の抜けた両脚がごつい手によってひろげられる。
膝下まである患者衣がめくれあがり、慌てて裾を下へと引っ張った。しかしそれでも隠しきれず、男からは全部見えているようだった。
「いい具合だ」
「っ…」
巨体に遮られていた照明の光が、男が体を引いたことによって俺の目に飛び込んでくる。光の強さに目をすがめる。
見つめられる先で、指が抜けでた後の穴が、ひくつき、体液をたらすのがわかった。尻の穴にたれ落ちるほど、あふれさせている。
こく、と唾を飲み込んだ。その動きに、乾いた喉がぴりりと痛んだ。
どうして抜くのかとでもいいたげに、膣は淫靡にうごめき、男の指を探すように収縮する。そこからまた愛液があふれ、つうっと肌に筋を作る。
「よく濡れている」
「黙ってろ…!」
姑獲鳥の喉が低く鳴った。どうやら、笑ったつもりらしい。
顔が熱くほてった。
「いいから、さっさと…」
言いかけた途端、たっぷりと濡れた割れ目を、男の指が円を描くように緩く撫でる。
無骨な指が膣口をこすっていく感触に、甘い痺れが下腹をかすめた。
裾から離した手でさっと口を塞いだ。それでも間に合わず、少しだけ声が出てしまった。
「……ッ」
それは膣の奥を掻き立てられるような、もどかしい愛撫だった。
入っていたはずのものが、焦らすように入り口付近でとどまっている。遅い間隔で、ぬるつきを落とすみたく、指の腹が割れ目を上下にこすりあげる。
男が手を動かす度に、ぬちゅ、ちゅぷ、と患者衣の下から音がもれた。
いつのまにか、両脚が男の膝に乗っている。
「ン…っ、う…」
まめを潰し続けたのだろう指の皮膚はかたく、頑丈で、敏感な秘所をじっくりと追い詰める。
ひだに溜まった粘液はとろりとし、姑獲鳥はそれを指全体に絡めるようにして、折り曲げた指の関節を膣口にこすりつけた。
それを二、三度繰り返されると、腰が浮いた。
たまらず声がでてしまう。
「っぁ、あ、うぁあ…っ」
あたりに漂いはじめた性のにおいで、頭がくらくらする。
甘酸っぱくて、あたたかい、ほんのりと潮の香りにも似たにおい。
ここへ来るまで嗅がされることのなかった、自身のにおいだった。
「ああ、たまらん…この香り…」
指が離れる。
上体を倒し、くちばしをぐっと近づけて、姑獲鳥が恍惚としたため息を吐く。
両脚を閉じようにも、がっちりと大きな両手にももをつかまれては、動けない。男の息が股にかかる。
熱っぽい吐息。
「嗅ぐな…そんなとこ…っ…」
男がくちばしの角度を変え、限界まで鼻を近づける。鼻息荒く割れ目のにおいを嗅がれ、羞恥で全身がかっと熱くなった。
この行為も、姿も、おそらくすべて記録されているというのに。
姑獲鳥の息に、愛撫を半端に止められた膣がひくついた。
においはますますひどくなる。
「嗅ぐなぁっ…」
こんなにおいを、これまでの自分は嗅いだことがなかった。自身の陰茎をしごき、精を放っても、どちらかといえばそれは青臭いにおいで、こんなに甘いにおいはしたことがない。
そちらの性器自体、進んで触ったことすらなかったのだ。陰茎を触っていれば、自然に膣の奥はうずきはじめたが、その熱をどうすればいいかもわからなかった。ひだを掻きわけて触るなんてことは、とても怖くてできない。
縦にしごけば気持ちよくなれる男性器とは違って、自身の女性器は、自分にとっても未知の領域だった。
怖かった。
自身の肉体に、知らない部分があることが。
そして、ろくに知りもしないまま、目の前の男に触られることによって、初めて愛液をにじませた。
男が唾を飲み込む音がここまで聞こえる。
「性器が…硬くなるにおいだ」
「…ッこの、ヘンタイ野郎が…!」
姑獲鳥が笑った。膨らんだ胸が震え、くちばしの先が笑い声にあわせてカチカチと鳴る。
「雌のにおい…」
自分でも気づかぬうち、徐々に脚を折り曲げ、体の方へと引き寄せていた。男からわずかでも距離をとろうとした結果だが、それは同時に、男の目に秘所をさらす姿にもなった。
腹にひやりとした感触があった。
見下ろすと、熱をはらんだ膣の上で、勃起した自身の陰茎が患者衣の下あたりに濃い染みをつくってしまっている。
唇が震えた。
一体、自分はなんなのだろう。
「もう…っ、いいだろう…」
腹から声が出ず、囁きかけるようになった。
裸の腰に手が添えられ、もう片方の手がふたたび患者衣の下へと入っていく。
口の中が乾き、喉がカラカラで、早く水が飲みたかった。
男の息づかいや、体の動き、視線の熱から、相手の興奮が日ごとに強くなっていくのがわかる。肌の焼けつくような、その熱が怖かった。
「頼む、もう…休ませてくれ…」
あふれる体液で濡れそぼった器官に、男の指が侵入する。続けて、二本。思った以上のやわらかさで、穴はひろがる。
男は聞いていなかった。
「姑獲鳥っ…」
身体を包み込んだ強い痺れに、こらえきれずに声をこぼした。
なかを傷つけないよう慎重に奥へと進む指が、粒だった肉壁をこすりあげたのだ。
膣内が断続的に男の指を締めつける。
白い患者衣の、陰茎のあたりが明らかに濡れていく。焦らされ、敏感になった膣内の刺激に、達することに慣れている男性器の方が反応してしまったようだった。
「あ、あ…あっ…」
姑獲鳥はその反応を見逃さなかった。二本の指を使って、同じ場所を執拗に刺激し続ける。
悲鳴とも、嬌声ともつかない声がでる。
「あッ、やめ、や…あっ…っ…」
床に背中を押しつけ、乱れる呼吸に喘ぎながら、一箇所からひろがってゆく快感に腰を浮かした。睾丸が揺れ、裾がさらにまくれあがった。
男の指のごつごつした感触がはっきりとわかる。
下腹が痛痒いような気持ちよさに、発作的になにかにしがみつきたくなる。
「ひ…んっ…ンっ…」
無言で手を動かす男に、ついに三本目の指を突き入れられ、身体が引きつった。
膣全体が男の指へと端から絡みついていく。
「そろそろ、頃合いだぞ」
男がつぶやいた。
汗と糞尿の混ざった動物の小屋にも似た、男の強い体臭が鼻をつく。
それが女性器から立ちのぼる甘いにおいと混じりあう。
嫌だと、それだけ口にするのが精一杯だった。
膣内を掻き回され、下半身をあらわにした淫らな姿勢で、緩い絶頂を味わい続ける。
「あと少しだ」
就寝時間を過ぎても、姑獲鳥は部屋から出ていかなかった。いつものごとく、どこからか控えめなブザーが鳴らされるまで、その視線が外れることはなかった。
治療はここへ来た翌日以降も続けられたが、完治まで、そう長い時間はかからなかったように思う。
早い段階で抵抗を諦めたのは、至極合理的な判断からだった。
冷静になって考えてみなくとも、部屋に吸血鬼どもが入ってくる度に暴れるというのは、あまり賢い選択ではない。暴れなければ麻酔銃を打たれることはないのだ。麻酔からさめた後の、あのどんよりとした頭の重さと血を凍らされたような体の冷えは、心底不快だった。
スムーズに治療が進められるようになれば、傷の治りは早い。
もともとの回復力も手伝い、俺はあっというまに、この殺風景な部屋を走ったり、逆立ちして歩いたりはできるようになっていった。
状況をただ悲観していても無意味だ。やれることから、はじめるべきである。
雅の声を聴いたのは、初日から十日は経った頃だろうか。それ以上は数えていない。
広い部屋の中を、俺が壁に沿ってぐるぐると走っている時である。
突然、スピーカーが耳鳴りのような音を残して、部屋に機械的な無音状態を作り出した。
立ち止まらずに、耳をすませた。
スピーカーがあることは知っていた。初日に就寝時間を知らせる音楽を聞いている。
「明」
数歩歩いて、ピタリと立ち止まった。
知っている声だ。
「具合はどうだ」
スピーカーを通して流れてくる声はがさがさしていて、本物の男の声とは少し違って聞こえた。
なにも答えず、部屋を見回した。
どこから見ているんだろうか。
「そこからは見えんよ」
「……」
「元気そうだな」
声は穏やかで、話しかける相手が目の前にいるような話し方をする。
あごの下をたれ落ちる汗をぬぐった。
「…おかげさまで」
あれほど駆けずり回って探した男と、こんなにもあっさりと言葉を交わしている。
皮肉なものだ。探すのを諦めた途端に、探し物が見つかったような感じだった。
雅がふっと笑った。
スピーカー越しに、静かな息づかいが部屋に落ちる。
「仲良くやれそうか?」
眉をひそめた。
少し上に目線を上げつつ、声を張り上げた。
「わかるように説明しろ。一体、なんのつもりだ」
「言付けしたとおりだ。聞かなかったか」
「聞いている。ばかげた話だ。俺は、その意味がわからないと言っているんだ」
「言葉のとおりだ」
握りしめた左拳が震えるのをこらえた。気持ちが落ち着くよう呼吸を整える。
今感情を爆発させてはだめだ。
落ち着いて、男から意図を聞き出さなければ。
治療がはじめられて以降、俺は入院患者が着るような白い服を着せられていた。浴衣のように前が開くタイプで、膝下まで丈がある。それ以外はなに一つ身につけていなかった。
慣れたはずの患者衣だったが、この男に見られていると思うと、いやに下半身がスースーした。
不意に、男が動く気配がした。
「いつまでも話していたいが、そろそろ」
ぱっと顔を上げる。
「まだ訊くことが」
「どのみち、お前は従うしかないのだ」
「待て、雅」
返事がない。受話器を置く前に生まれるわずかな沈黙。
男が去ろうとしている。
その瞬間、スピーカーの接続が切られるまでの短い時間。思考回路がフル稼働し、頭の中の記憶をさかのぼった。
相手が立ち去る前に、自分にとってなんらかの有益な情報を一つでも得ようとした。
自分を捕まえた男の言葉を思い出す。
見回した部屋の異様な白さ。まぶしいほどの照明の光。床に置かれた金庫。
あの時、なぜ、男は。
「二人じゃないのか」
沈黙。
「我々って、なんだ。お前と、息子以外に、まだいるのか」
自分で口にして、初めてそのことに考えが及んだ。言われた内容が衝撃的で、その点にまで気が回らなかったのだ。
(「我々と貴様で、子をつくれと仰せだ」)
たしかにあの時、男の言葉は複数を示している。この施設にいるほかの吸血鬼ともとれる発言だが、混血種という生き物は、総じて並みの吸血鬼と自身たちに一線を引く傾向が見られる。あの時の「我々」には、命じた父親を含まない存在が感じとれた。
あれはなんだ。
スピーカーの向こうで、仇敵がまだそこにいるのがわかった。
「おい」
「いずれそこへ向かわせる」
「誰なんだ、なにを寄越す気だ」
「楽しみに待っておいで」
お前が、喜ぶプレゼントだ。
一方的に接続を切られた後も、男の嬉しそうな囁きがゆらゆらと部屋を漂っていた。疑問の渦に放り投げられた俺を、取り残して。
その日からだ。
混血種の規格外の性器を受け入れるため、姑獲鳥による「拡張」がはじまったのは。
三本の指がスムーズに動かせるようになったことが、姑獲鳥は気に入ったようだった。
「このまま、挿れてしまおうか」
「…!」
激しく首を横に振る。その勢いで男の膝の上で抱かれた体がずり落ちそうになる。
頭のすぐ横でおさえた笑いがした。
「駄目だ…ッ、まだ、全然」
「痛いのか?」
「…っい、痛い…まだ痛い」
慌ててうなずき、肯定した直後、腹部側の肉壁を強めにこすられ、のけぞった。一気に痺れが背中を駆けあがる。
前へと腰が突き出た。
「ァアアッ…!」
それを追いかけるように、埋まった指が小刻みに上下に動く。
「痛いか。なるほど」
「あっ、ア、あは…ッ」
男の脚に手をついて体を支えるも、脚がガクガクして力が入らない。体のどこかに意識を向けようとすると、それらが膣に引き戻される。
股が熱い。
「い、たいっ…痛い…」
初めは、人差し指を入れられるだけで、痛みでものも言えなかった。圧迫感と異物感がひどく、敏感な場所を触られている感覚と、急所を暴かれているという強い恐怖があった。
とにかく体格差がありすぎる。指が太すぎる。相手の陰茎を確認させられた時には倒れかけた。遠回しに殺されようとしているのだと思った。
指は意外にも慎重にそこを掻きわけていったが、不快感でこわばった身体は乾いていた。
慣らしなどやるだけ無駄だと思った。
ヒリヒリして、痛くて、屈辱と羞恥と怒りで、ただただ、時間が過ぎてほしいと。
「あ…っ…アッ、あぁっ…」
抜き挿しされる指の動きに合わせ、体が小さく揺さぶられる。膣のすぐ上で睾丸が揺れては、男の手に何度も当たった。
隙間から糸を引いたいやらしい音がしていた。
体じゅうがにおいを発している。膣内のひくつきが止まらない。
三本の指がなかの膨らみをこねるように刺激し、濡れた肉をこれでもかとすりあげた。
「ひぁあッ…!」
後ろ手で男にしがみついた。後頭部が羽に埋まり、汗でべたついた体に片腕が回される。
じゅうっ、と奥から体液があふれ出すのがわかった。
同時に、陰茎の先から弱い勢いで精液が噴き出す。
「噓吐きめ」
「…っ……」
「こんなに、いやらしく股を濡らしておきながら…」
「…っ、あ、あ…」
蜜壺のようになった膣内を、入ったままの男の指が搔きまわす。
なかで粘液がかき混ぜられる感触に、濡れた声が出た。男に聞かせ続けたかすれた声が、自分のものではないみたいに甘ったるい。
姑獲鳥の喉が鳴る。
耳元でする男の荒い息づかいから、あからさまな欲情が伝わってくる。
「私の種を、存分にここに」
男の体臭と、快感の余韻で、頭がくらくらした。寄りかかった背後の体から、心音が伝わってくる。
その腰に、硬いものがあるのがわかった。
「楽しみだ…」
混血種。
たしか、ほかにも息子がいるという話だったはずだ。
フゥオン、というかすかな異音とともに、煌々と輝いていた照明が落とされ、部屋が真っ暗になった。
毛布を胸まで掛けて、両手を頭の後ろで組んだまま、ライトの消された天井を見上げていた。消灯時間も、もうなんとなく体で覚えてしまった。
解放された後もしばらく続く疲労感が、清めた体を覆っていた。体の奥がまだしっとりと濡れているような感じがあり、事実、なかに体液がにじんでいた。日々の愛撫によって、濡れやすくなっている。
「……」
一人が毎日のようにここを訪れるというのに、あとの四人は顔も知らない。選ばれた、あの男の息子たち。
我々という言葉の意味が、ずっと気になっている。
ごろりと寝返りをうった。今晩は(実際には夜かどうかもわからないが)あまり視線を感じなかった。誰もモニターを見ていないのかもしれない。
左手で触れた床はさらさらして、硬く、本質的につめたい。空間の端もわからない真の闇のなかで、自身の呼吸がゆったりと落ち着いていることに、心のどこかで安心する自分がいる。
自分がまだ、正気でいられていることに。
それとも。
「…もう狂ってんのかもな…」
ぽつりとつぶやいた。その言葉が、思った以上にぞっとする響きで、慌ててすぐにまた寝返りをうった。
奴らではないのかもしれない。
考えても仕方がないことだ。雅の考えることなど、俺に予想がついたためしがないのだから。
だけど。混血種。
次第に、虚脱感からうとうとしはじめ、目を開けていられなくなる。毛布にくるまって、手足を丸めると、いつかやわらかい眠りが訪れた。
姑獲鳥なら、知っているのだろうか。
ならば、誰だというのだろう……
兄の声を聞いた気がした。
ぱち、とひらいた目で、横たわったまま部屋の中を見回した。明るい。
どうやら、起床時間のようだ。
「…?」
むくりと起き上がる。
頭を掻いた。寝癖で右側の髪の毛がはねている。
部屋はいつもと変わらない。暑くもなく寒くもなく、白く、清潔に保たれている。汚れや汗は眠っているあいだに床の上から拭い去られ、もうすぐここへ誰かが朝食を持ってくる。
今のこの国の状況で、一体どういった管理でここのシステムが維持されているのかはわからないが、不潔や病気とはまさに無縁の生活である。
雅は、俺をなるべく長く生かしておきたいらしい。
「……」
不思議な直感に、怪訝な思いで立ち上がった。
再度、部屋を見回した。なにかが違う。
部屋というよりも、自分が違うのだろうか。気持ちがそわそわし、細胞の一つ一つが落ち着きをなくしているような。
誰かがくる。
それはほとんど確信に近い予感だった。
誰かがくる。俺の知っている誰かが。
視線を感じる。スピーカーに声をかけてみるか。なにか答えが返ってくるかも。
その時、前方の白いドアが急に開いた。普段と変わらない開閉音であるにもかかわらず、驚きに肩がはねた。
心臓がうるさく鳴っている。
早く答えが知りたい。なにをそんなに、自分は待ちかねているのか。
立つ脚を肩幅ほどにひろげた。つい右腕を左腕より心持ち前にたらしてしまうのは、これはもう癖だった。
無駄であるとわかっていつつ、体はいつでも斬りかかれる体勢になっている。
そして、部屋に入ってこようとする人物を見て。
一瞬のうちに、言葉を失った。
「……!!」
室内の照明によってくっきりと浮かび上がる。
その頭部の毛皮の下を走る、右半身の巨大な傷跡。
上半身を縦に両断する形で、醜く皮膚が引き攣れている。
部屋に入った男は、閉まったドアの内側からじっとこちらを見つめた。その場から動かない。
見覚えのある被り物。獣の頭。黒光りする毛皮。
乾いた鼻先。無感情な眼。尖った角の先端。
右腕の先がかすかに震えていることに、自分でも気づかなかった。
「…目が痛くなる部屋だな」
兜の下で、おそらく男の目が部屋を見回している。なにも答えられずにいると、視線を戻し、こちらへとまっすぐ近づいてきた。
空気が揺れ、男の裸足が硬質の床を踏む。
感情の読みとれない眼を追いかけている。忘れられない記憶の中でしか、確かめられなかった瞳を。
一歩分空けて男が立ち止まった時には、息をするのを忘れていた。
なにかが、胸をまるごと握り潰そうとしている。
「こんなところで、何をしているんだ、お前は」
低くおさえた、呆れまじりの、兜にこもった声。
「明」
殺したはずの、親友の声だった。