【Web再録】成熟(三)

 最後に見た姿は屋上で倒れて動かなくなった背中だ。うつ伏せになった男の姿が、記憶にそのまま焼きついている。
 額から流れ落ちる雨で視界がぼんやりした。がっしりした体に強い雨が打ちつけるのを、かすむ目で眺めていた。今では雨脚が激しくなっており、あたりは戦っている時の風景とはがらりと変わっていた。
 二つに分かれかけた体の断面から流れ出した血が、男の周囲を赤く染めていく。雨と風が混じっていた。
 確実に、首を落とさなければ。
 そう思ったのを覚えている。その足がもつれて、ふらついた。呼ばれている自分の名前が他人のものに聞こえた。氷を隔てているようだ。
 親友は遠く離れている。
 腰が塀にぶつかり、疲弊した体が大きく傾いた。
 襲った浮遊感と、幼なじみの彼女の悲鳴はほぼ同時だった。屋上から落下した俺を受けとめたのは、下で待ち構えていた師であった。

 俺がふらふらと後ずさっても、斧神は動かずにそこにいた。首がこちらを見下ろし、床に影が落ちた。
 被り物の鼻が照明の光を浴びて、硬そうな黒い毛が茶色がかって見えている。
 思わず、左手で口を覆った。体の横にたらしてある、男の大きな手のひらに目がいく。
「亡霊でも見たような顔だな」
 声も同じ。息づかい。しぐさ。まとう空気までもが。
 出会った時とまったくの一緒だった。
 違うのは、欠けたままの片方の角と、右半身の痛々しい傷跡、その二つ。
 その二つだけが、互いが出会い、別れた痕跡を物語っている。
 山羊の鼻が持ち上がり、獣の口からふたたび、間違えようもない声がした。
「死んだと思ったか」
 その言葉で、張り詰めていたなにかが切れた。
 涙がポロっとこぼれた。
 斧神は身動き一つしなかった。それでも被り物の下で、互いの視線が合っているのがわかっていた。
 左手が体の前を当て所なくさまよう。失った右腕の先が、親しい者に触れたいと神経を動かしている。もう二度と触れられない、右手が。
 相手に近づいて、男の親指をつかんだ時には、肩を抱かれていた。
「すまない」
「お前のせいじゃない」
「斧神…お前に…」
 回された男の腕に、ぐっと力が入った。屈んだ相手の肩に左腕を回し、首のあたりに顔を埋めた。
 涙が次から次へとあふれては、兜の毛を濡らす。
 大きな手のひらが後頭部に添えられ、髪をぐしゃりとかき混ぜた。その感触がまた涙腺を刺激する。
「すまん…」
 意味がないとわかっていて、あの晩に口にし続けた言葉を、涙声で繰り返す。みっともない、子どものような声になった。
 男はそれを黙って聞いていた。
 毛皮のほこりっぽいにおいが鼻腔に満ちる。しっかりと抱き合った体から、親友の体温が伝わってくる。
 謝る以外に、もっと言うべきことはあっただろう。けれど出てくる言葉はそれしかない。
 なにもかも知っているとでもいうかのような沈黙は、心の深い場所を見透かされたような気になった。
 肩に回した手で、兜の毛をぎゅっと握った。
「夜にまた来る」
 涙も出尽くし、目がじわじわと痛みはじめた頃に、斧神が言った。
 濡れた顔を上げ、顔横にある兜の眼を見る。男の腕は変わらず俺の肩に回されている。
 泣きすぎて頭が痛かった。目が熱っぽい。
「今は午前七時だ」
「そうか…」
「お前の顔を見に寄っただけだ」
 斧神は床に片膝をつき、俺と目線を合わせていた。患者衣越しに、互いの胸がくっついている。泣いたことで体が興奮気味になっているのか、こちらの心音の方が早い。
「俺も…会いたかった」
 そう言って、顔を綻ばす。照れくさいが、本音だった。
 山羊の首から表情は知れない。
「あんたと、いろいろ話がしたい」
「…」
「ここにいると…」
 目をそらし、こちらを取り囲む白い壁に視線を投げた。うまく言えずに、言葉の続きが宙に浮く。
 山羊の鼻が持ち上がり、続きを促すように俺の横顔を見る。しかしそれ以上、なにも言えなかった。
 この男には、それを言いたくなかった。
 起きてからずっとおとなしかった股の間の、その奥のことを、頭の隅で考えだしている自分がいる。別の男の手の感触が染みついたそこに、言いようのない後ろ暗さを覚えた。
 いびつで、醜い身体。
 ひと本来の完成図からは外れた体。
 あの屋上で嗅いだ雨と土ぼこりのにおいが、どうやら思ったよりも自分の中で特別なものになっているらしい。
 今の自分が、格好などつけられない状態であるのは一目瞭然だ。それでも。
 この男の前では、ただの男でいたい。
「日暮れには戻る」
 斧神が言った。視線を感じ、振り向いて後ろを確認していた俺は兜に向き直る。
 親友の姿は意外と背景の白い壁に馴染んでいた。
 人ならざる者であることを真っ先に証明する首と、非常に大きな体。その姿が、ここへ来るあの男と一瞬重なり、慌ててそのイメージをかき消す。
「お前に話がある」
 言葉や態度は落ち着いていて穏やかだが、巨大な体躯から発散されるエネルギーが対峙した者に動的な印象を与える。肉体に押し込められた力で、絶えず周りの空気が振動しているような感じだった。
 つい表情が緩んだ。
 こいつは、ちっとも変わっていない。
「…何だ?」
「いや、わりい…なんでもない」
 口元を覆って浮かんだ笑みをごまかした。
 被り物の下の、あの一つ目がこちらをのぞき込んでいる。
 うなじにジリジリと視線を感じる。
「夜まで待てるな」
 うなずくと、伸びてきた手に頭を撫でられた。
 そうやってしばらく、黙って撫でている。
 大きいというよりも、広い手だった。見知ったものに触れるような、親しさのこもった手つきが、懐かしく心地よかった。

 斧神が出て行くのと入れ違いにやってきた朝食係に、やはりすべて見られていたのだと知る。とっくにその時間は過ぎているはずだった。
 友が去ると、無言で食事をする俺と見張りだけの室内は、あっというまにいつもの隔離室に逆戻りした。自分でもそのことに少し驚く。自身の立場を、一瞬でも忘れていられたことに。
 がち、とスプーンを噛んだ。
 久々の親友との再会を盗み見られたことは、恥ずかしいが、まだいいとしよう。
 しかし、あの視線。
 缶詰の中身を口にしつつ、考える。斧神と言葉を交わしていた最中、背中に感じた視線。
 あれはえらく尖った視線だった。肌が焼けつくようなかすかな痛みさえ感じた。痛みは錯覚ではない。激しく、非難されているような。
 うなじがまだチリチリする。
「夜までか…」
 忘れていたが、夜は、奴がいる。親友の存命に驚くあまり、すっかりど忘れしていた。
 容器が空になり、プラスチックのスプーンも空き缶も回収される。食事中も見張っていた男たちが出て行くのを横目に、立って部屋の端まで歩いていく。
 いや、来るかどうかはわからない。来ない日もある。部屋の中には時計がないので確かめることができないが、消灯があるので、日にちの感覚はなんとなくわかる。
 丸一日現れない日も、たしかにあった気がする。毎日ここを訪れるわけではない。たぶん。
 そうであってほしかった。
 壁に置いた手を、歩みに合わせて横に滑らせる。さらっとした手触りに、刀を握らなくなって日数が経つ手のひらが、怠けていると言いたげだった。
 腹ごなしの散歩も、こうして部屋を歩き回ることしかできない。
 もはやこの状況が日常化しつつあるのが、焦りを通り越して、どこか滑稽だった。
「…おかしな話だ」
 かたく閉じられた白い部屋は、どこか、卵の殻を思わせる。内側からは、外の世界を知り得ない。卵が割れるその日まで、未熟な中身は、ただ待っている。
 これは誰の卵か。
 部屋で立ち尽くす俺に、誰も向かってこない。攻撃もしない。血を吸われさえしない。
 ぐっと拳を握った。
 今は無力でいい。ただ、待つ。
 幸い、斧神が来た。雅に近いあの男と、今晩にでも話ができる。この意味不明な状況を打開する術とまではいかないが、状況を把握することぐらいはできるかもしれない。
 壁を前に、ゆっくりと深呼吸した。

 いずれきっとなんらかの変化がある。その時が、チャンスだ。

 ひと通り、自主的に決めたメニューをこなした後。感覚にして昼前だった。
 突然開いたドアから入ってきた姑獲鳥に顔を上げた。
「精が出るな」
 俺は汗だくで、患者衣の胸元をつまんでバタバタと隙間から空気を入れていた。走った後で、まだ呼吸が荒かった。
「もうそんな、時間か」
 大きく口から息を吸っては、吐き出す。午前中は、ずいぶんとはりきって動いてしまった。いつもよりも酷使した筋肉がひきつりかけている。
 白い照明の下で、歩調に合わせて鮮やかな色合いの羽が輝く。
 すぐそばで、男が立ち止まった。
 そちらへと体を向ける。
「今日…早くないか」
 つぶやき、顔を上げた時には、もう手が裾から入り込んでいた。
 白い患者衣がたくし上げられ、手が股間に届く。
 遅れて驚きが追いついた。
「な、ちょっ」
 腹まで露出した肌に、とっさに裾を引き下げようとしたところ、腰に腕が巻きつく。ぐん、引き寄せられ、男の胸に勢いよく顔がぶつかった。
 胸元の羽をつかんだ。
 目を瞬かせる俺を放って、太い指が早くも割れ目を見つけている。屈み込んだ男の体で、体全体が大きな影に覆われる。
「何、なんだ…おい…」
 展開に頭が追いつかず、男の羽を強く引っ張った。数本の羽が抜けたが、姑獲鳥は意に介さない。
 乾いた指の腹が割れ目をひらき、隠れたひだを撫でる。ひくん、と腰が揺れた。昨晩も触れられていたそこには、汗ではない湿りがある。
 まぶしいライトの下で、男の片手が尻をつかんで支えた。
 散々、この男の指でほぐされてきた肉はもう、指先が触れるだけで期待するようになっている。
「いつもどおりだ」
 くちばしがモソモソと動き、耳元で囁かれる。その声のどこかが、普段と違う気がするのに、異なる点がわからない。
 目が何度も閉じたドアへと向かう。
「ま、まだ、昼間…」
「お前には、関係がなかろう」
「だが」
 俺の言葉を待たずして、手は女性器の膨らみから陰茎へと移った。
 慌てて口を覆った。
 大人しく股間におさまっていた雄を、手がするりと下から持ち上げる。
 顔を背けると、尻を抱く方の手が背中に回った。くちばしの隙間から聞こえる息づかいが近い。
 自慢するほどの大きさがあるでもなく、かといって、男としてコンプレックスを感じるほど気にしているわけでもない。いたって標準のサイズだと思っていた自身の男性器は、男の手に包むには小さすぎた。
 親指と人差し指が、先端部分を揉むように刺激した。
「…っ…」
 皮をずらし、上下に緩くしごく指に、性器が早速反応を示しはじめる。
 そこは嫌だった。
 男の手を上から押さえたつもりだったが、太い指は止まらず、亀頭を触り続ける。
「やめろ、そこ、いいって…っ…」
 左手を突っ張って男の胸を押す。体格差で届きづらい距離を埋めるように、だんだんと巨体が覆いかぶさってきていた。
 立っていることが難しくなってくる。
「姑獲鳥…っ」
 このままだと床に押し倒される。
 身をよじり、男の腹を押しやろうとした。わからないが、何かがいつもと違う。おかしい。
 姑獲鳥は離れようとはしない。
 陰茎をしごき上げる手の動きがひどく性的で、岩のような手の隙間から音がもれていた。徐々に皮がぬめりで滑りやすくなっていく。
「あ…あ…」
 しごかれる性器と一緒に、腰が揺れた。まずい。
 相手の手の感触が頭を占め、開かなくなった目がぼんやりしてくる。
 自分でまともに触ったことすらなかった陰唇と違って、陰茎は、思春期の頃から自慰を重ねてきた場所だった。島に渡ってからも、必要と思えば短い時間で終わらせてきた。仕方のない生理現象だ。
 知りたくもないことだった。
 自分でするよりも、他人に触られる方が、何倍も気持ちがいいだなどと。
 勃ちあがっていく雄につられて、その下の女性器までもが濡れていく。前は違った。そういう体に、されてしまったのだ。
 射精寸前で止められた手に、しがみつくようにして男の体に寄りかかった。力が抜けて、膝が体重を支えきれない。
「さあ、もっと股をひらけ」
 両脚のあいだから、床に体液が滴る。
「…っ…ハ…」
 脚がガクガクした。高められた自身の男性器が、つらそうに先走りをこぼしている。
 なにかが違うのに、頭がまともに考えることを放棄したがっている。身体はこのままいつものように、快楽に流されることを望んでいる。
 むき出しの股のあいだに、姑獲鳥の熱が押し当てられた。それが露骨な腰づかいで揺すられ、腰巻越しにもその欲望と振動が伝わった。
「あ、ぁ、駄目…ッ…だめだ…」
 その言葉が聞こえなかったように、硬いものが強く割れ目に押しつけられる。敏感な場所に、腰巻の羽毛がチクチクして痛い。
 背中になにかがぶつかった。はっとして、肩越しに後ろを見る。
 気づけば、壁際に追い詰められていた。唯一の扉が遠い。
 正面からこちらを見下ろす男の下あごがかすかに動く。
「挿れてなかろう」
「…っ…でも…」
 ほとんど壁に倒れかかった俺に、のしかかるような形で男が腰をすりつける。
 自分の口から嬌声がもれる。
 たっぷりと濡れそぼったそこに、羽根の下の雄を感じた。
「挿れなければ、構わんのだろう」
 姑獲鳥が囁いた。照明を背に、逆光となった相手の表情はわからない。
 俺は、拒むべきなのか、うなずけばいいのか、わからなかった。挿れなければ、いいのだろうか。たしかに、そうだ。
 頭がほてって、目の裏が熱い。
 けれど、それなら、どうして拡げることを許したんだ。なんのために、「そう」していると思っている。
 これだけで終わると思っているのか。
「俺……」
 その矛盾が、自分でもわからない。今の自分の頭には荷が重い。
 膣はヒクついて、羽根の感触にかゆみを感じはじめていた。
 男は返事を待たなかった。

 それは、とんでもなくいやらしい行為に思えた。
 両脚のあいだに深く入り込んだ男の腰が前後に揺すられるたびに、腰巻の下に隠された硬さが股間を突いた。陰茎と膣口の両方がこすられ、あふれた体液が羽根を濡らす。
「あっ、ぁ、アっ、あぅッ…」
 今では、床を背に男に上からのしかかられ、動きを同じくしていた。きつく抱かれた体に相手の体温を感じていて、触れてない場所にさえにおいが染みつくようだった。
 体格の差で、密着させるために浮かされた下半身に、姑獲鳥が小刻みに腰を打ちつける。
「あッあッ、ぁンッ…」
 それはまったく、性行為と同じ動きだった。
 下から突き上げるように揺すられ、愛液を次々とあふれされる割れ目に陰茎を覆い隠す羽根が当たる。しつこく、何度も。
 チクチクこすれる。
「嫌ッ…それ…ァ、ンンっ…」
 男の息づかいが荒い。
 突き出された腰がねっとりと円を描くように動き、膣が軽く痙攣した。先ほどから、ずっとそんな調子だった。
 大きく息を吸う。
 いつもなら、ここまで高められた時点でなかには指が入っている。肉壁が欠落感にうずき、この男を求めてうねっている。早く雄を迎え入れろと。
 男が少し身を引いた時、下の方に見えてしまった。
 巨大な陰茎が腰巻の一点を押し上げており、その部分が、光る体液でべっとりと濡れている。そこから目が離せなくなる。
「どうするんだ…こんなに、羽が汚れてしまった…」
「…っ俺の…せいじゃ…」
 繰り返される羽毛の刺激に、先ほどからただでさえ敏感な部分がひりついて痛い。しかも、清潔さのかけらもない、この薄汚い腰巻。
 腰巻だけじゃない。男のこの、におい。
「いやらしい男だ……、本当に、どうして、やろうか」
「っあ、ぁっ、あふ、…っ…」
 膨らんだところが、ふたたび割れ目に食い込み、膣口を押し上げる。
 下腹がきゅうっとうずいた。
 男が交尾中の犬のように、また腰を前後に振るいはじめた。その度、膣の入り口に硬いものがぶつかり、濡れた割れ目の肉を男性器の膨らみがこすっていく。
 日をあけることなく慣らされ続けた穴は、ぽっかりと空白を維持し、絶え間なくうずき続ける。
「はっ、はぅっ…あっ…ンっ…んくッ…」
 体が揺れる。
 声が抑えられない。
 与えられる快感に、つま先が断続的にひきつる。
 胸までまくれ上がった患者衣の下で、体は自身の汗と体液で汚れていた。そこに男の唾液が滴り落ちる。
 きつく密着した男の腰が、一度、二度、乱暴な腰つきで揺すられて、仰け反った。空洞から愛液があふれ出す。

 女の声が聞こえる、と思った。
 思考が桃色に染まり、口から嬌声が止まらない。悦んでいるとしか思えないかすれた声。
 男を誘う声が、部屋じゅうに響き渡っている。
 違う、と叫びたい。違うんだ。これは。
 これは、俺のせいじゃない。
「ああ…もう、我慢できん」
 男の声が遠くでした。
 今の状態よりもさらに持ち上げられた腰の下に、濡れたかたまりが当たった。あたたかくて、ぬるぬるしている。
 涙で視界がぼやけて、意識もはっきりしない。夢と現のあいだをさまよっているような感じで、もうなにが気持ちいいのかもわからない。
 自分から腰を振っていたことに、この時、ようやく気がついた。
 ぬめっとしたものが、割れ目を拡げ、強く膣口に押しつけられる。その感触に、後頭部がぞわぞわした。
「ああぁ…」
 ずっしりと重たくて、太くて、硬い。よく濡れている。
 位置を確かめようとしているのか、数回、熱が割れ目を縦にこすった。つられて腰が振れて、動きを追いかける。体液の満ちた膣では、にゅる、と捕まえきれずに滑ってしまう。
 男の呼吸が獣のように速い。
 そのうちに、狙いを定めたように、巨大な熱が陰唇にぴったりと添った。
「やめ………」
 もう、頭がそのことしか考えられない。呼吸が荒く、天井の照明の光しか見てない。
 下腹がじわりと熱くなった。

 次の瞬間、それが身体のなかへと入ってきた。