【Web再録】成熟(五)

 ハンドルをひねると、少し時間をおいてから、シャワーヘッドからジョロジョロと水が流れ落ちてくる。勢いは弱く、いっぱいまでハンドルをひねってみても水量は増えない。毎回試すが、同じことだった。
 しかし、これだけでも表の世界では贅沢だ。
 蛇口をひねれば当たり前のように飲める水が出てくる。夜中に腹が減れば、どこでも食べ物が手に入る。労せずして得られていた当たり前の日常は、ある日突然崩れる。誰も心の準備を許されないまま。
「五分だ」
 背後の声に、患者衣を脱いだ。壁のフックに濡れないよう注意して引っ掛ける。磨りガラスの向こうには、にじんだ見張り役の姿が見えている。
 白熱灯の明かりが狭い個室を照らしていた。シャワー室内に数部屋ある個室のうちの一つだが、いつ見てもあまり使われている感じがしない。こうなる前は建物内の人間が共用で使っていたのだろう。今は、夏休みの小学校の図書室よりも静かだ。
「おい」
 早くしろ、と背中に声がかかった。どこか焦りが含まれている声だった。
 たぶんもうすぐ、どちらかが戻ってくるのだろう。
 全裸になった体を一瞬だけ見下ろして、目を閉じると、水の下へと首を倒した。
 体じゅうについた痣を思い出さないよう努めつつ、冷たい水で頭と体を洗った。手で肌をこすり、顔を上に向けて水に打たせた。
 排水口に水が流れていく。

 週に二回だった水浴びが五回に変更されたのは姑獲鳥の指示であったが、当の斧神は意に介さないようだった。
 もともと、排泄時と似たような要領で水とタオルは与えられていたので、体を清める作業は日々欠かしていなかった。そのままだと臭くて、寝られやしない。
 それでも濡れたタオルで体を拭くのと、流れる水で全身を洗えるのはやはり違う。だからたまの水浴びは、たとえごく短い時間でも、人間らしい自分を保てる気になった。
 週二回という回数は、部屋から出た俺に情報を与えたくない、あちら側にとってのギリギリの数字なのだろうと思っていた。事実、姑獲鳥もそうであったはずだ。あの白い隔離室以外の情報を、男は極力与えないようにしてきた。
 そこに注意していることがわかっていた。以前までは。
 別の男のにおいが残っていることを嫌う男は、水浴びを終えた後でも、執拗ににおいを確かめるようになった。
「クソッ…臭い……」
「っ…あらった…つってんだろ…! あっ、ぁん…ッ」
「忌々しいこと…この上ない…」
 抱いている時ほど、姑獲鳥の目に宿る憤りははっきりと現れた。射精後もなかなか性器を抜きたがらず、陰茎が熱を取り戻しはじめると、行為はそのまま続けられた。
 たまらないのは俺の方だ。
 膣で得られる快感には、終わりがない。止まらない快楽は、際限なく体を高め、雌としての器官をぐずぐずにしていく。
「もっ…無理…むり…っ…」
「駄目だ…お前の子宮に、覚えさせるまでは…」
「嫌…っ、嫌らぁっ…」
「ハァッ…ァア…」
 姑獲鳥はよだれをたらし、のしかかった状態で腰を振り続ける。泣きべそをかく俺の髪に細長い舌が入り込み、頭皮を舐め、髪に唾液を染み込ませる。
 うなじを牙がかすめると、つま先までがぞくぞくした。くちばしの先が床に何度もぶつかり、金属音にも似た音を立てる。
 舌が離れていった後も、唾液でべとべとにされた髪が不快で、長く湯に浸かった後のようにのぼせている。
「腹立たしいことよ……」
 すえたにおいと、生臭さで、頭がぼうっとした。密着した互いの体が熱くて、どちらの体温がここまで高いのかも判別し難い。
 辛抱強く未経験の体をひらいたはずの男の姿は、そこには見当たらなかった。変わってしまった。
 ほかでもない男の父親によって、変貌させられてしまったのだ。
(「お前に話がある」)
 あの日、俺が待ち続けていた斧神の話の内容は、実際には語られなかった。そもそも本当に話をするつもりがあったのかどうかも、今となってはあやしい。
 親友はそれを行動で示してみせた。躊躇うそぶりはかけらもなかった。
「斧神、やめろ、やめてくれッ…!」
 つかまれた両脚を持ち上げられ、下半身が宙に浮く。立ち上がる力さえ残っていない体を、斧神は獣の解体でもするかのようにたやすく扱った。
 みっともなく開かされた股が男の眼前に近づけられ、全身の体温が一気に上昇する。上体が床についたままの不安定な姿勢で、悲鳴が喉に詰まった。
 小刻みに息を吸う。
 これは嘘だ。
 悪い夢だ。きっとそうだ。
 こんなことが、現実に起こるわけがない。起こってはならない。
 親友の目が、眼球を動かせるほどの水分をたたえ、ぬらぬらと輝いている。その目はしっかりと女性器に据えられている。
 開かされた股のあいだに、生温かい息がかかった。その感覚が恐ろしいほど生々しかった。
 巨大な一つ目の前に、自分の女である部分がさらされている。
「斧神ッ…!」
 男の肩の向こうに姑獲鳥の姿が見えた。泣き腫らした目を通し、一瞬、その黒い瞳と視線が交わった。
 姑獲鳥は言葉を失っていた。
 裂け目のような口の奥で、しまわれていた舌がぐにゃりとうねるのが見えた。
 たった今まで別の男の性器が入っていた場所に、陰唇にも似た口がかぶりついた瞬間、なすすべもなく両脚を引きつらせていた。
「きっ…!」
 突然の慣れない感触に、落ち着きかけていた女性器が目を覚ますのがわかった。
 男の両手が尻をわしづかみにし、縦に割れた口が音を立てて膣を吸う。蜜壺と化したくぼみの体液が、一気に上へと吸い上げられる。
 声が出なかった。
 下半身が二三度、痙攣するように大きく震え、足の裏が男の肩を蹴った。
 斧神が身を屈め、さらに強く股間に顔を埋めた。腰が浮き、内壁の刺激に陰茎が勃起した。
 広い口ひだが股間全体にまとわりつき、陰茎や陰嚢をも覆って、そこらじゅうの肌をしゃぶり尽くしていく。
 溜め込んだはずの精液を吸い出そうとしているのだと、男の意図に理解が追いついた時には、すでにほとんどが膣口までおりてきていた。
「ッァッア…ぁ…」
 肉が溶かされ、溶けた場所から男の唾液が染み込んでいく。
 吸われる度、下腹を中心にきゅうきゅうとせつない痺れが襲った。得たはずの子種をなぜ奪われるのかもわからない膣が、男の舌づかいに混乱している。
 あたかも、心臓が頭に移動したようだった。
 どくどくと脈打ち、熱くて仕方がない。うるさくてたまらない。
 男の目は、先ほどからずっと俺を見つめ続けている。その目を見ていると、ますます頭がうるさくなる。
 汚い。
 恥ずかしい。
 なぜ。
 どうしてーー。
「……ふ…」
 両脚の向こうで、一つ目が卑猥に歪められる。姑獲鳥には見えない位置での、かすかな笑み。
 この男の、初めて見る笑い方だった。
 奥まで注がれた精が、余すことなく斧神の口へと移動し、最後にその舌がぐるりと膣内の汚れを拭い取った。
「…っ…ひ」
 なんともいえないあの甘酸っぱいにおいが、周囲に淡く漂っていた。そこにまぎれて男の体臭が香る。
 ごくりと、口に溜まった体液を飲みくだす音が、大きく響いた。
「ハァ……」
 手が離れ、持ち上げられていた両脚がずるずると男の体を伝って床に落ちる。陰唇がヒクヒクして、絶えず刺激を受けている感じが消えない。
 斧神が深く息をつく。
 しゃぶり尽くされた膣はすっかり空っぽにされ、子種を奪われ、さびしさを主張していた。
 俺は気が遠くなりつつあった。
「……たまげた男だ」
 姑獲鳥がつぶやいた。その声も、ずいぶんと遠かった。
 たれ下がったグロテスクな突起の下から、あの目がこちらを見ているのがわかった。その視線の熱さで、体じゅうがジリジリと焼けつくようだった。
「俺も種馬の一頭となるからには」
 伸びてきた手が胸の下に添えられ、それがゆっくりと下腹部へと移動する。
 大きいというよりも、広い手だ。この手が、頼もしくもあり、恐ろしくもあり、そして憧れでもあった。敬意を抱いていた。目指す道は違えど、その姿が一つの到達点であることを認めないわけにはいかなかった。
 尊敬した。こいつに、恥じない男でありたいと。
「そのつもりで、役割を果たそう」
 俺の腹をさする男は、かつて自分が親友と呼んだはずの吸血鬼は、そう言ってこの悪夢に入ってきた。残されたわずかな希望を、踏み倒して。

 見張り役に挟まれて戻ってくると、部屋の真ん中に大男が座っている。前方を歩く吸血鬼の肩が、ビクッと揺れた。
 山羊の首が持ち上がった。
「もういい」
 斧神が言った。
「下がっていい」
「し、失礼します」
 兜の眼と目があった。
 この男の素顔が伝わったからだろうか。吸血鬼たちの斧神への態度は、まるで腫れ物に触るような扱いだ。今現在本土にいる吸血鬼のほとんどは、きっとこの男のことなど知らないのだろうが、それにしても怯え方がひどい。
 しかし思えば、島にいた吸血鬼もそのようなものだったかもしれない。尊敬や畏怖など、実は恐怖とあまり変わらないのかもしれない。
 慌てた手つきで手錠が外され、逃げるように作業服の男たちが出て行く。
 手首をさすりながら、あぐらをかいた男に近づいた。
「今日、お前か…?」
 昨晩もここへ来た男に、怪訝な気持ちで尋ねる。
 今晩は姑獲鳥のはずだった。シャワー室へと連れ出されたのも、そのつもりでいたからだ。
 被り物の首の角度が微妙に変わり、男がこちらを見た。
「今晩は留守にするそうだ」
「……留守?」
 部屋は静かだ。いつもは膨張しがちなこの白い部屋が、中心にいる斧神によって広がりが薄れ、強引にピントを合わせられているように見える。
 そばへ寄ると、一日の終わりかけといった感じの体のにおいがした。
「明日には戻るだろう」
「俺は…何も聞いてないが」
「急な話だ」
「……」
 黙り込んだ。留守。
「…あいつ、あんたと話したのか」
「いいや」
 ますます黙るしかない。
 斧神はこちらを眺めている。俺の反応を見ているのか、何も考えていないのか。
 何やら妙に胸騒ぎを覚えた。目の前の親友の、もはや今の関係を友と呼べるのかもわからないが、考えが読めない。
 どれが本当で、どれが嘘かも、もう自分にはわからないのだ。
「また風呂か」
 伸びてきた手に、まだ湿り気の残った髪をぐしゃりと掻きあげられる。軽く頭を振って、その手から逃れた。思ったよりもすんなり手が離れていく。
「洗えって…うるせえんだよ」
 ぼそぼそと言い訳する俺の手を取り、斧神が自分の方へと引き寄せた。引っ張られる体に足がもつれ、体のバランスが崩れる。
 引かれるがまま、半ば倒れるようにして、あぐらを組んだ男の膝に座った。すぐ近くに山羊の鼻がくる。
「聞いていたよりも、神経質な男だな」
「っ……」
 首筋に埋められた鼻先がひかえめに肌を撫でる。薄い皮膚をこする、動物の乾いた鼻の感触に身をよじった。
 ここまで近づくと、兜の下のこもった息づかいがはっきりと聞こえた。複数の呼吸音。
 男が大きく息を吸い、胸を膨らませる。
「嗅ぐな、バカ…!」
「お前のにおいが薄い」
「しっ、知るか!」
 頬のあたりを鼻がかすめ、耳にかかる髪を掻き分ける。耳朶に触れられたら、腰から背中にかけてを言い難い感覚が走った。両脚がぎゅっと男の膝を挟んだ。
 その反応を見られているのを感じる。
 毎日、毎日、昼も夜もなく弄ばれる身体は、今では些細な刺激さえも食い物にした。敏感な部分はすべて股間と直結し、愛撫ですらない接触を交尾の前段階と結びつけるようになってしまっている。
 親友の手が、大きく分厚い、関節の突き出たその手が、太ももの上にそっと置かれた。その手が股のあいだでどれほどいやらしく動くか、自分は知っている。
 背中を丸め、左右に首を振った。
「どうしたい」
 斧神が静かに訊いた。
 男の胸を押しやろうとする俺に、たくましい腕が背中に回される。
「なんで…」
 自分を二度も助け、そして命を奪おうとした手を、その持ち主を、恋しく思ったことがあった。どこも似ていないはずが、失った兄の面影を彼に見出すこともあった。
 もう一度会って、少しでいい、話がしてみたいと。愚かな夢だ。自分が壊し、自分が招いた結果だというのに。
 二度と会えないのだと、この体を両断した時、覚悟したはずだった。
「なんで、あんたが、これをするんだ…」
「…」
 山羊の眼にはなにかが含まれている。
 すがりついてどうにかなるものなら、そうしたかった。
「どうして…引き受けたんだ…」
 こんな形で再会などしたくなかった。
 あの日の自分が、その気持ちに蓋をする。
「斧神」
 男はその問いには答えようとはしなかった。
「自分で、思うようにやってみるか」
 友の言葉に体がこわばった。
 俺の表情の変化を、斧神はじっと見つめている。

 もともと抱いていた信念を壊し、まったく新しい形へと再構築したのが斧神という男だ。
 ただ一人へ捧げた信仰、隙のない振る舞い、厳しい抑制の下で、この男には、それがわずかでものぞくと相手を震え上がらせる狂暴さがある。男自身の規範に基づいて、奪い、殺し、必要があるかないかはほぼ瞬間的に判断され、決断を後悔することはない。
 危険を感じさせる以上のもの。殺される相手に、確信を与えるもの。
 抱かれている時、目の奥にはっきりと表れるその光が、刀を持たない身には恐ろしすぎる。
「…いッ……ぅ、ううっ…」
 腰を下ろせず、目のふちに涙の溜まりはじめた俺を、斧神は黙って見ている。腰回りを緩くつかんだ両手は、あくまでも添えられているだけだった。自分でやれと言われているのが、ひしひしと伝わってくる。
 涙がこぼれた。
 ここで懇願したくはなかった。みじめでも、たとえ負けが確定していても、そこまで恐れ縮むわけにはいかなかった。
 首を振りたくはない。
 けれど尻の下で構えるそそり立つ男の陰茎が、怖くて、身がすくんで動けない。
「できないか」
「…っ……」
 ぎゅっと目を瞑った。身じろいだ拍子に、割れ目の膨らみに先端が触れる。男の肩を左手できつくつかみ、自身の体を支えていた。
 どこか裏切られた気持ちが、なかったといえば嘘になる。仲間でもない。馴れ合いはなかった。責める筋合いなんか、最初から俺にはない。
 しかし、なぜ言わなかった。なぜ言わないまま、俺を、あのみっともない姿を、見て。
 お前は。
「っぅ……」
 そのまま慎重に押しつけると、かすかな耳鳴りが襲った。プールの底に沈んだ時のような遮られた感じがあった。
 開ききった膣は滴り落ちるほどに濡れて、割れ目の隙間からはみ出たひだが、陰茎を包むように絡みつく。
 耳鳴りがひどくなる。
「あ、は…っ…」
 目を開けると、男の胸にぱたぱたと涙が落ちた。男の肩に左手をついた姿勢で、さらにあごを引くと男の股間が目に入る。ほてった頭で、相手の陰毛を見下ろす。
 この刺激だけで、達してしまいそうになる。ぞくぞくする。
 息を吐き、腰をそおっと揺らしてみた。
「ンッ…」
 尻の穴がきゅう、と締まる。
 割れ目を掻き分ける陰茎が動きに合わせ、膣口を軽くこすった。それだけで、体の奥から新しい愛液がにじむのを感じる。
 普段と変わらない照明が、なんだかやけに暗く思えた。色のないこの部屋で、裸の身体を隠すものは何もない。完璧な空調に保たれた室内は暑い気がした。
 前髪の隙間から、正面の男を見返した。
 あと少しで殺意にも届きかねない光が、一つしかない目に表れていた。つかんだ肩が汗で湿っている。分身たちの呼吸が荒い。
 体はほてっているのに、自分の指先は冷たかった。恐怖と期待、一体、どちらが本当なのか。
 斧神の目は微動だにしない。
 頼むから、丸腰の男をそんな目で見ないでほしい。
「…ふ…」
 揺れはじめた腰に、骨張った手が尻を下から撫でていく。視線が離れない。
 見つめあっていられなくて、目を逸らした俺に、男の手にわずかに力が入った。
「ん、ん…っ…」
 上下に揺する動きにつられて、息がはずむ。口を閉じきれず、唇の端から唾液が一筋あふれ落ちた。
 たまに狙いを外し、陰嚢の裏側に陰茎がこすれると、びりっと股間が痺れる。
 すぐそばから発される斧神の欲情に、欲望の濃密さに、息が詰まった。
 今では、こすれあうところから淫らな音が立ち、ぶつかる亀頭が勢いで膣の入り口に出たり入ったりを繰り返していた。
「う、ンっ…ンゥっ…ん…!」
 親友の性器は大きく膨れ上がり、ガチガチに硬く反り返っている。それがぬぽ、ぬぼっ、と音を立てて割れ目の隙間に埋まると、自分がもはや雄にとっての雌であることを強烈に感じた。腹の奥で内臓がどうしようもなく熱くなる。
 斧神の口のなかで、舌がうごめく気配がした。唾液が粘っこく糸を引いている。きっと口内が乾いているのだろう。
 ごく、と俺は唾を飲み込む。
 いやらしい腰つきをしていることはわかっていた。
 膣が内側から溶けていくようだ。
「ハぁあっ…」
 腰を落として、陰茎の半分までを一気に膣内へと誘い入れると、甘い衝撃が内臓を下から押し上げた。ふちがめくれ、限界まで膣口がひろがる。
 混血種の陰茎のサイズに馴染んだそこは、最初の圧迫感を忘れ、スムーズに巨大な異物を包み込んだ。肉体的な苦痛はない。
 額から汗が滴った。
 顔もうなじも、全部が熱い。まるでサウナにでも入っているみたいに。
 あごの下にできた雫を、裂け目から出てきた舌が舐め取った。
「…まだ余裕があるが」
 ぼやけ気味の視界で、男を見る。
 なぜなのだろう。
 この男に抱かれると、不思議と目から涙が出てきた。傷ついているわけでもない。陥った状況も、されている行為も、決して認められるものではないのに。
 互いの体がくっついているだけで、どうしてこんなにも、胸が苦しくなるのだろう。
「及第点、といったところか」
「…何様だ……この、タコ…ッ…」
 クッと斧神が笑った。一瞬、獰猛な気配が霧散する。その親しげな笑みに、喉の奥が締めつけられる。
 肩に置いた左手を握りしめ、ぐいっと左腕を男の首に回した。
 応えるように、硬い手のひらが背中を覆う。
「旧友だと…?」
 つぶやいた自分の声は弱々しい。
 男の頭部に頭を寄せかけた俺に、分身が小さな声で何か喋っていた。聞き取りにくい声は、意味のある言葉ではないようだった。
 ただ生き物のか細い鳴き声が、無性に胸に迫って、さびしくつらい。
「ふざけんな…」
 つんとしたにおいが鼻をさす。
 男の体臭と、汗の香りがきつかった。決していいにおいではないのに、嗅いでいると、唾液が多くなる。
 あの夜、屋上で嗅いだのは、大量の血のにおいだった。
 退却した後も、その次の日も、爪の中まで入り込んだ血がなかなか落とせず、躍起になって手を洗った。親友の肉体の切断面を思い、断末魔を思い出しては、目の下にくまを作った。眠れない夜が明けていくのを、幾度も越えて、得たのは、ただただ男に会いたいという気持ちだけであった。
「どの口で…っ……」
 涙声は言葉にならなかった。
 男の眼球が動き、頭のすぐ横にある俺の顔を見たのがわかった。吐く息もが肌に感じられる。
 二つの体が発する熱があたたかい。息も。
「なぜ、戻ってきたか」
 背中を抱く無骨な手が、うなじへと移った。
 繋がった場所は、じわじわと雄を締めつけ続けている。中途半端に浮かせた腰に、同じく半端に挿入された角度の陰茎が脈打っていた。
 こわばったうなじを触る手は懐かしい。
「俺でなくとも、済んだ話だ」
 きつく抱きしめた体は厚みがあり、左腕だけでは抱えきれない。しかし密着した胸に、心臓の音が聞こえる。友の鼓動を感じる。
 その事実だけで、この胸が震える。
「志願した理由は、たった一つ」
 慕わしい。
 諦めきれない。
 そばにいたい。
 友だちだとか、そうでないとか、関係につける名前などなくとも。命を救った手で、また何もかもをバラバラにするのだとしても。
「ここに宮本明がいたからだ」
 とにかく俺が、この男が大事だ。

 裂け目が言い終える前に、その口ひだに口を押し当てていた。

 抱かれたまま、ゆっくりと体勢を変えられ、こすれる結合部に声がもれる。一体になった体を男が徐々に前へと傾けると、頭上にあった天井が正面にきた。
 等間隔で並んだ照明。
 この部屋の、どこにカメラが仕込まれていたのだろう。
 まぶしがっている表情に気づいたのか、男の肩が光を遮った。逆光で表情は見えづらくとも、ぬめる目玉がこちらを見ていることだけはわかった。
「……奥…はやく…」
 もう、誰に何を見られているのかも、どうだっていい。
「頼む…」
 床に押し倒された体はほてり、唇の震えを抑えきれずにいた。
 両脚のあいだに男の腰があった。みっともなく開脚させられた、女のようなこの体位が、ここへ来たばかりの頃は苦痛でたまらなかったのに。
 半端にとどまった陰茎に、一番奥がさみしくて、もどかしくて、うずいて仕方がない。
「斧神………」
 男が上体を屈めた。崩れた顔が近づいてきて、眼前に迫った大きな口で視界が埋まった。
 そこから伸びてきた舌の先を、すくい取り、吸った時。
 斧神が深く腰を沈めた。
「…っん……!」
 期待しすぎて腫れたそこに、緩やかに押し進んできた亀頭がぶつかった。ググッと押しつけられる股間に、両脚が男の腰に巻きつき、体がそり返っていた。
「ンーーっ…」
 結合しやすいように持ち上げられた腰が浮遊感に襲われる。ぬるい舌でいっぱいにされた口が閉じられず、胸が波打った。
 斧神が腰を引き、引く時と同程度の速度でまたなかを突き上げた。陰茎が前後にこすれる時、糸を引いた音がしていた。
 開ききった子宮口にすりついてくる先端に、後頭部がぞわぞわした。
 見えなくても感じる。わかってしまう。抱かれるほどに、その感覚が強まってゆく。
 この男の形に、自分の膣がぴったりと合わさっている。
 斧神もそう感じているのがわかる。
 貪っていた口が離れていくと、裂け目から唾液がぼたぼたとこぼれ落ちた。どちらのものかもわからない唾液にまみれた俺の顔の上に滴る。
「そろそろ…言ったらどうだ」
「…?」
 ぼうっとした頭に、互いの荒い息づかいがますます視野を狭めていく。
 酸い、甘い唾液の味が舌の上に残っている。
 太い指が陰唇のふちをくすぐるのに、小さく声が出た。
「俺に言うべきことが、あるだろう」
「あ、ぁ…や…」
「ン?」
「な…なんも、ない…っ…」
 くすぐる指は上へと向かい、勃ち上がっている陰茎の裏筋を撫でる。先走りが出るところを指の関節でこすられ、男をくわえているところが小刻みに締まった。
「ぁ、っあ…だめっ…」
「明…」
「…っ…やだ…、無理…っそんなん…」
 左右に首を振る俺に、手のひらが陰茎全体を覆う。ごつごつとした手が上下に動くと、快感の強さに泣き声があふれた。
 押し潰すようにしごく指の隙間から、いやらしい音が出ている。
「やらッ、だめ、だめっ…ちゅっちゅ、しないでっ……」
 男の責めは緩まない。
 陰茎に刺激を受けるほど、腰がぶるぶると震えた。男の腰はわざとらしく、軽く揺すられるだけになっており、陰茎を弄ばれるだけ膣が物足りなさを募らせていく。
 陰茎から先走り汁がどんどんあふれて、男の手を濡らす。
 手の動きに合わせ、浅ましく腰をくねらせた。一つ目はこちらを凝視し続けるも、求めには応えてくれない。
「斧神っ…頼む、たのむっ…」
「口で言え」
「〜〜…っ…」
 男の顔を見上げる。興奮しきった表情に、嗜虐的な色が混ざっている。
 とろけた膣は断続的に収縮し、俺自身よりも雄弁に欲望を語っているのに。
 顔がくしゃりと歪んだ。
 体内の陰茎は張りつめ、硬く、限界まで高まっている。
 自分の声が低く、性交時の独特のかすれを伴っていた。
「…っ…ほしい…」
 高くも、艶めかしくもない、どう聴いても男のものでしかない声が恥ずかしい。半端な自分も。
「くれッ……」
 屋上の床で雨に打たれる親友の体が、目に焼きついている。
 あの姿を、たぶん死ぬまで忘れない。
「ここに、あんたの全部…ッ…!」
 ずんっ、と腹に衝撃があった。
 大きく揺すぶられた体が、男の腕にきつくかき抱かれる。うめき声すら許されない。身の内で骨が軋む音が響く。
 膣の奥、もっとずっと上の方で、男の存在を感じている。
 左腕でしか抱き合えないのが、涙が出るほどもどかしい。
 それでも、今の俺たちにはその不足感がふさわしい。足りないことがちょうどいい。きっと。
 斧神が腰を使いはじめると、初めのひと突きで自身の陰茎から精がほとばしっていた。友の腹を汚す精液が、律動に合わせて互いのあちこちに飛び散る。
「アッ…あっ、…あっ…」
 とろけきった女性器に、男の陰茎が突き刺さる。何度も、何度も。
 嬌声が口からあふれ出る。
 涙を流し、ピストンされる肉棒を締めつけ、よだれをたらす口で男の呼び名を繰り返した。巨体の動きが激しさを増すと、膣の収縮はさらにひどくなった。快感は途切れることがない。
 夢中だった。
 あまりにも長いこと「そう」であり続けた体は、もとの状態からかけ離れつつある。男に犯されることに病みつきになっていた。
「そこ、すきっ…好きっ…ぁんんッ、ン…ッ」
「わかるぞ…この、ここだろう、ここが」
「あっ、あひっ……ぁあー…っ」
 気持ちのいいところをこすっていく陰茎に、濡れそぼる膣肉がしゃぶりつく。子宮口が限界までおりていて、乱暴される悦びで熱く痺れている。
 ちゅぽちゅぽと出し入れされる肉棒に、のぼってくる潮のにおいが大量の愛液が出ていることを伝えていた。
「そんなにおいを、させるな、この…」
「だって…ンっ、んぅ…っ…」
「クソッ…またしゃぶりつきたくなる…」
 肉のぶつかる音があたりに響く。獣のように腰を振りたくる親友にしがみつき、股間をこれ以上近づけないくらいに押しつける。
 男が腰をこね回すと、結合部が粘ついた水音を立てた。そのまま小刻みにこすれあう。
「あっあっぁっ…」
 開きっぱなしの口から甘ったるい喘ぎがもれていた。その顔に視線が痛みを伴って突き刺さる。
 膣と陰茎がくちゃくちゃと交わり、生殖のための快感を生み出している。このまま、雌である自身を孕ませるために。
 子孫を残すために。
 頭が快感でバカになる。
「だめっ…できるッ…」
 それだけは。
 それだけは、許されない。
「できちゃう…っ…」
 消え入りそうな声で発した言葉に、一つ目が糸のように細められる。
 まただ。
 あの時と同じ表情。この男の、こんな卑猥な笑い方を、俺は知らない。
「何を今さら…」
 笑うように息を吐き、親友が囁く。腰の動きを止めずに、上体を前へと倒れ込ませた。隙間なく覆いかぶさった男の、その口が耳元まで近づけられる。
「もう、とうにできているかもしれん」
「…っ…ま…まだっ…まだ、っあ、ぁん、あっ…!」
「あれほど、男に子種を仕込ませておいて、何を言うか」
 幾度も首を振った。
「ちがう…っ…俺、そんなこと…ッ」
「違わん」
「…ッ……!」
 声は力によってかき消される。
 子宮口にはまり込んだ亀頭が、器官を強い力で圧迫した。ありえない位置まで、内臓が容赦なく押し上げられた。
 体の奥で、なにかが切れた。
「俺の子だ…」
 頭が白くなる。
「誰の種だろうと…構うものか」
 鼓膜に注がれた声はかすれていた。
 身を切るような、せつない声。
 内壁全体が陰茎を強烈に絞り上げ、男の腰が大きく痙攣した。獣じみたうめき声が落ちてきて、体内のそれが獰猛に身を震わせるのを感じた。
 もはや目を開けていられなかった。
 そして、一番奥に熱いものが入ってきた。
「ッ…ァ゛アー……」
 叫びはか細く、溶けて、雌の色をにじませる。
 射精される快感は絶頂に届き、失いかけた意識は快楽の海へと流れる。
 かたく抱きしめ合った互いの肌が、様々な体液で濡れて、ぴったりと吸いついていた。互いにひどいにおいを発している。
 それも、徐々に気にならなくなった。
 放たれる精液が勢いよく子宮内を満たしていく。熱くて、どろっとして、気持ちがいい。
 言いようのない幸福感が、じわじわと体を侵食する。取り返しのつかないところまで侵されるのを、正気の自分が、離れた場所から見つめていた。
 わからなかった。どちらが自分で、どちらが自分ではないのか。
 その瞳は、失望を伝えている。

 頼むから、そんな目でこっちを見るな。
 もう、これ以上、俺を責めないでくれ。
「明…」
 最後に意識が拾ったのは、声だった。それすら薄れ、いつか世界が暗転した。

「なんで、そんなことを…」
 ……。
「あんたは、俺の……俺の、兄貴じゃないか」
 そんなことはわかっている。言われなくとも……
「……普通に俺たち、兄弟じゃ、いけないのか…?」
 ……無理だよ。
「…」
 お前が、いつか連れてくる相手が、女であれ、男であれ…
「……」
 俺は、許せる気がしない。
「……」
 すまん。
「…俺が、普通の弟だったら」
 お前じゃない。俺が一方的にそうなんだ。俺が一方的に、お前のことが欲しいんだ。

「駄目な兄貴で、ごめんな」
 兄は俺から離れていこうとしていた。それを呼び止めることもできずに、だからといってなにを差し出せばいいのかも、わからないまま、なすすべもなくその背中を見送るしかなかった。
 いいや、違う。
 わからないはずはなかった。わからないふりをしていただけだ。怖かったから。
 血の繋がった兄に向けられたくないものを、向けられていたから。
 一緒に暮らすはずの女性を連れてきた兄を、二人を見て、言いようのない感情を抱いた俺はきっとおかしいのだ。兄の笑顔に、捨てられたような気にさせられたのは俺のほうだ。期待させ、傷つけたのは、自分だというのに。
 俺はただ、兄弟でいたかっただけだ。死ぬまでこのまま、こんなふうに、兄のそばで「できの悪い弟」をやっていたかった。
「駄目じゃない…全然…」
 俺の嗚咽に、それまで表情のなかった兄がやっとかすかな笑みを浮かべてくれた。困ったように笑うその顔が、俺は心底好きだった。
 受け入れる勇気もなく、つき離す勇気もない。だから一番大事な人が去っていくのを、俺には止められない。
 止められなかった。
「兄貴……」
 だって俺が一番、この体がわからないのに。わからないことが、怖くて怖くて、仕方がないのに。
「ごめん…」
 体のせいじゃない。まともな体に、生まれてさえいたら。そんなものはどう悲観したところで言い訳でしかない。
 自分を好きだと思えない人間が、どうして心からひとを愛せるというのだろう。
 自分の体を受け入れられないのなら、俺は諦めなくてはならなかった。前へと進めないのなら、希望など持ってはいけなかった。
 誰かと繋がりたいと思ってはいけなかった。
 どんなにここがさみしくても。つらくても。終わらせてしまいたいと、思うことがあっても。