【Web再録】成熟(六)

 朝だと思った。
 天井の照明がつく前に、あとほんの一二分で起床時間になることがわかった。
 まだ部屋は真の暗闇だった。斧神の右腕と胴体の隙間に、すっぽりと自分の体がおさまっていて、上の方から聞こえてくる息づかいで男が目を覚ましていることに気づいた。
 目線を少し上に向ける。なにも見えはしないが、そこに胸元を覆う被り物の毛があるはずだった。
 俺の動きに、男もこちらが眠っていないことに気がついた。
 パッ、と照明がついた。
「湯に浸かりたいか」
 斧神が言った。
 まぶしさに目を細めていた俺は、寝返りをうち、友の顔が見やすいよううつ伏せになる。小山のような胸に上体をのせた。
 山羊の鼻は天井を向いたままだ。
「…あんの? シャワーじゃなくて?」
「大浴場くらいある」
「へぇ」
 左腕を胸の下に入れ、身を乗り出した。のしかかっても、体の下の巨体は苦しげな素振り一つない。
 山羊の鼻がこちらを向いた。
「入るか」
「そりゃ、浸かれるなら…」
 ここに連れてこられてからだけでなく、本土に戻ってきて以来、なかなかそのような機会はない。島にいた頃は時々、仲間や村人たちと交代しつつ湯を入れ替えつつ、自分たちで沸かした湯に入っていたものだ。
「入りたいけど…」
 被り物がうなずいた。その顔をじっと見る。
 左手を伸ばし、起き上がろうとする山羊の鼻を触った。男の動きが止まった。
「……」
 指の先で鼻全体を撫でる。かさかさして、わずかにひび割れている。死んだ動物の頭部自体に生気は感じられない。
 エネルギーを感じさせるのは、その下からあふれ出る男の生命力だ。
 細胞が古くなったような、発酵したような、起きたての男のにおいがした。少し経てば消えるだろうそれは、生臭くも、どこかぬくみがあった。
 斧神は黙っている。
「…なにを考えている?」
 訊いても、答えないことがわかっていた。案の定、親友は俺を胸に抱いたまま起き上がり、兜の位置を直しただけでなにも言わない。
 床の上に座り、その眼を見つめ続けていると、斧神が立ち上がった。
 視線で促され、仕方なく立ち上がろうとした。
「…」
 その脚に力が入らない。
 左手を体の横につき、右膝を曲げた。グッと足に力を込める。上体を屈めた。
 斧神はこちらの様子を見ている。
 何度かそれを試し、尻を浮かせては尻もちをついて、俺は早い段階で立つことを諦めた。こんなことも初めてではない。
「立てないか」
 「初めて」の時も、翌日はこうだった。
「うん」
 答える自分の声がひどく小さなものになった。顔にじわじわと熱が集まっていくのに、男から顔を背ける。
 認めるのは恥ずかしいことだった。いろいろなことが記憶に残っているが、加えて、体を清めることなく寝てしまったことを思い出し、よけいに居心地が悪くなった。
 両脚を動かしたことで、女性器の奥にある乾く気配のない湿りを嫌でも意識させられる。
 うつむきがちに、左手を顔の前に掲げた。
「手ぇ、貸せ」
 斧神がすぐそばの床に膝をついた。兜の眼に天井の光が反射して、チカッと輝く。
 男は俺の左手を下ろさせると、膝裏と背中に手を回してきた。
 親友の動きに見当がつき、思わず、全身がかあっと熱くなった。
「いいから、手貸せって」
「黙ってろ」
「いい、すんな、そんなの」
 俺の言葉に耳を貸さずして、男の胸の高さにまで体が抱き上げられる。浮き上がる感覚に、慌てて男の胸にしがみついた。毛皮を握った。
 一気に視点が高くなる。
「この、バカッ…!」
 焦りに声がうわずる。すぐ上から低い笑いが聞こえた気がしたが、目は下へとばかり向いてしまう。
 混血種の目の高さといっても、少し高い脚立にのぼった程度だ。大したことのない高さだ。義手があり、体の自由がきく状態であれば。
 手指が兜の毛の束を引っ張って、きつくつかんでいた。腕一本な上に、足腰が立たない状態でのこの高さは、正直言って玉が縮む。
 斧神の両手がしっかりと俺の体を支え、扉の方へと歩き出した。
「そう引っ張るな。脱げる」
「うるさい」
 男の言葉を強い調子で遮ったが、体は相手の腕の中で縮こまった。被り物の毛が当たるところがチクチクする。密着した男の胸が、厚みがあり、鼓動が力強くて、あたたかい。
 怖さと照れが半々に混じり合った気分だった。
 手のひらで顔を覆い、ますます男の胸に顔を寄せた。
 一体、なんて格好だ。
「ふざけんなクソ…」
 歩みに合わせて、抱かれる体が揺れる。
 扉の前まで近づくと、斧神の足音に呼応するように扉は開いた。親友は頭を下げてそこを通った。それでも角の高い位置がわずかにこすれた。
 見張り役以外と部屋を出たのは、その時が初めてだった。
 扉が後ろで閉まった。
「これぐらいさせてくれても、いいだろう」
 俺を抱え直し、斧神が言った。非常に静かで、囁きに近い。
 部屋を出ると、殺風景な廊下が先へと続いている。最初の一瞬だけ病院のようなにおいがした。

 いつも部屋から連れ出される度に、この建物がどういう類いの施設で、どのような目的のために使われており、あの男は何をしようとしているのか、限られた情報から答えを導き出そうとする努力はした。そういうことを考える時間は山ほど与えられていたから。
 しかしいずれやめた。奴の考えを知ったところで、自身の置かれた状況は変わるはずもない。そのことに気づいてからは、ただ歩かされる廊下の道順だけを覚えた。同じ経路だ。すぐにそれも飽きてしまったが。
 シャワー室の前を早い段階で通り過ぎた。緊張するのは、ここからは、知らない道だということだ。
 斧神の裸足の足音が廊下に鳴り渡る。歩けば地を割る大男だが、この男は、必要に迫られればまったくの無音で駆けることができる。
「お前、どこにいたんだ」
「どこに、とは」
「あいつが…北にいるっつってたから」
「ああ」
 男は本州最北端の県の名前を口にした。
 進むにつれて、数人の吸血鬼とすれ違った。作業服姿の者もいたし、制服のようなものを着た者もいた。誰もが慌てて道を譲り、斧神と目を合わさないようにしていた。
 なんとなくわかっていたことではあるが、どいつもおそらく吸血鬼だ。人間は見当たらない。いたとしても、そのへんを歩いたりはしていないのだろう。
 男もいたし、女もいた。運ばれる俺から、過剰なほどに目をそらしている。見てはいけないものを見たようなおそれを含んだ表情は、どこか見覚えがある気がする。
 やはりここは吸血鬼の巣のようだ。雅の所有する施設だというから、奴らの拠点の一つなんだろうか。
 エレベーターの前を通り過ぎる際、男の腕の中から目で追ったが、階数の表示は出ていない。
 斧神が非常口らしき扉を開けた。
「どこまで行くんだよ」
 階段をのぼる親友に声をかける。一歩が大きいことで四段飛ばしで上がっている。
 斧神は黙っていた。質問には答えず、薄暗い空間をあっさり三フロアぶん移動した。男の体越しに見る階下が暗く、かなり見えづらい。
「斧神」
 冷え冷えとした階段室は人気がない。患者衣の下で、体がぶるっと震えた。
「もうすぐだ」
 男が言った。被り物の下にいる分身たちの息づかいが、山羊の口からもれている。
 扉を開け、また明るい場所に戻ると、床の色が変わっていた。つるつるした材質は同じだが、白ではなくややクリーム色になっている。
 廊下や壁、全体の雰囲気が過ごしていたフロアとは多少異なっており、こちらの方が親しみのあるインテリアを意識されているようだ。ここには漂う薬品臭さはなかった。
 天井を見上げる。照明の光がほんのりと黄味がかっていた。あたたかみのある印象を与えているのは、このライトの効果が大きいのだろう。
 斧神はフロアを先へと進んでいく。俺は顔の向きを変え、後方を見た。
 予想していた以上に広い建物だった。
 不意に、本土に渡ってきてからのことを、目にした風景を、さらに言えば、ふるさとの町のことが頭に浮かんだ。
「…」
 今いるこの場所がまだ東京だとすれば、ここはいつか自分が暮らす予定だった街だ。行ってみたいと、幼なじみと語った夢に近いところだ。
 しかし、本土に戻ってきてからは、明るすぎて逃げ場のない関東平野に、自分はなかなか慣れることができなかった。
 この広さに反して、街には物も化け物もひしめいている。
「なあ」
 角を曲がった。
 俺はまだ後ろを見続けていた。
「あいつ…」
 斧神が歩調を緩めた。友の肩にかけた左手に力を入れ、首を回して山羊の顔を見上げた。
 被り物のあご裏と、たれ下がったひげが見える。男は正面を向いていた。
「雅はどこにいる」
 自分の問いかけが廊下にやけに高く響いた。
 斧神がゆっくりと立ち止まった。
「ここに」
 俺は親友の兜を、下から見上げ続けていた。
 耳に入ってきた声が脳に浸透するまでのあいだ、瞬きをしなかった。刹那、まぶたがあることを忘れていた。
「私はここにいる」
 スピーカー越しでもない、本当の声。この声を、どの声とも間違えたことはない。
 声がした方向を見るのに、長い時間がかかった。
「明」
 視線の先に男がいた。以前に見た姿と寸分違わぬ外見をしており、記憶の中からそのまま抜け出てきたような様子だった。
 男は廊下の少し先に立ち、俺たちを眺めている。礼服姿の背後には姑獲鳥がいた。
「…お前…」
 赤い瞳がそっと細められるのを、言葉を忘れて見つめていた。
 白い顔が微笑を浮かべた。
「しばらくだな」
 雅。


「お前たちはさがっていい」
 親友の腕にかすかに力が込もったのは、本当に一瞬のことだった。
 俺は気づき、それよりも先に命じた男が気づいた。気づかれたことに、斧神自身がたぶん気づき、そのことに友が激しく動揺したのがわかった。
 何もかもを見通す目が、部下の反抗を観察していた。
 しばらくのち、鷹揚にうなずいた。
「構わん。明を」
 雅が立てた人差し指を自分の方へと向けて動かした。
 俺は呼吸が浅くなりはじめていた。肺が縮んだ錯覚に陥りかけていて、取り込む酸素に限りがあるかのように感じられた。この男と対面するといつもそうであるように、近くにある尖ったものを手にしたい欲求と、男の目の届かない場所に行きたい衝動で、体が落ち着きをなくした。
 親友の鼓動が、俺よりも少し遅いぐらいで、それでも速まっているのが伝わってくる。
 主人の後ろに立つ姑獲鳥はこちらを見ていた。目にきらめきがなく、どこにいて何が起きているのか、関心がない風を装っている。男が苦しみを感じているのが見て取れた。自分の中の核を守ろうと、硬い殻に閉じこもっているだけだ。
 四人のうち、寛いでいるのは雅だけだった。
「斧神」
 雅がまた指を動かした。
 深い声色だが、有無を言わせない響きがあった。
 歩き出そうとした親友の胸に左手を当てると、山羊の鼻がこちらを向いた。
 獣の眼を見返す。
「いい」
 俯き加減に廊下の明かりを遮る山羊の面に影が落ちる。触れた裸の胸はざらつき、昨晩の名残が肌に付着したまま、乾いて薄い膜を形成している。
「おろしてくれ」
 小さく言った。
 膝を抱く腕は動かなかった。その胸を、手のひらで軽く押した。
「立てる」
 死んだ動物の瞳は、もはや飾りだ。被り物の下に隠されたあの一つ目が、この男の本当の目だ。けれども山羊の瞳に、生気を感じないはずの兜に、宿っている魂は見える。そこに男がいる。
 床に足をつけると、体がよろめき、廊下の壁に肩がぶつかった。前方から笑い声が上がる。
 床に倒れ込まないよう、慌てて壁に寄りかかった。体が弱っているわけではない。たんに足腰が使いものにならないだけだ。
 顔を上げた先には、白い顔にうっすらと笑みをたたえた宿敵がいる。
 こいつの前では、死んでも無様な姿を晒してやるものか。
「相変わらず、意固地な奴よ」
 可笑しそうにつぶやかれる声に聞こえないふりをして、左手で壁伝いに歩きながら、慎重に廊下を進んだ。十分みっともないが、横抱きで引き渡されるよりはよほどましである。
 進むごとに、俺が裸足で歩く音が廊下の静けさを揺らした。
 階下とは異なり、不思議なことに、ここにはほかの吸血鬼の気配が一切感じられない。フロア全体に静寂が満ちていて、陰鬱ではないが、建物全体が眠っているような印象を受ける。
 通路を挟むようにして、一定の間隔で左右に扉が並んでいた。扉には大きな窓がついていて、中が見えるようになっている。室内は空っぽだった。
「少し、話をしようか」
 雅が言った。立ち止まって部屋の中を覗き込んでいた俺は、顔の向きを元に戻す。
「…話?」
 じっと男を見る。姑獲鳥がチラッと主人を見た。
 話。
 雅は、よく見なければわからない程度に口角を持ち上げている。
「そう」
 右手をポケットに突っ込み、男は重心を片足に移動させた。リラックスした様子でいる。
 肩越しに振り向き、後方でまだ同じ場所に立っている斧神を見た。被り物に表情はない。
 顔を前に戻した。赤い瞳は俺を見つめている。
「お前はこれまで、どれだけ私の同胞を斬ってきたか、覚えているか」
 言われたことの意味がわからず、すぐには反応できなかった。
「……」
「何十、何百。どうだ、万に届こうか」
「…いちいち…数えていない」
「そうだろう」
「…」
「いつもどの程度、気をつけていたのだ?」
 肩から壁に寄りかかったまま、廊下の先に浮かぶ色のない顔を見つめ返した。
「……何のことだ?」
「血だよ。お前とて、いつも無傷ではいられまい。あれだけ斬り殺しておきながら、返り血を浴びないことは、可能か?」
「……」
「だから、どの程度、気をつけていたのだ?」
「それは……」
 男と壁の中間点で視線がさまよう。
 それは、もちろん、そうだ。一滴でも体内に入ってしまえば、たちまち化け物と化してしまう悪魔の血だ。いつも万全の注意を払って戦いに臨んでいる。
 一滴の血が、それまでのすべてを一変させてしまう。いつかの兄や、幼なじみのように。
 男の言いたいことはわかった。それは自分も長いあいだ、感じていたことだ。
「ツいてただけだって、言いたいんだろ」
 雅が笑って、顔の横で軽く手を振った。子どもの理屈を適当にいなすように。
「なんだ、何が言いたい」
「明、ただの強運で片付けるには、お前は程度を超しているのだ」
 眉をひそめた。
「……は?」
 雅はしばらく俺をじっと見ていた。
「わかるか? お前は、とうに感染しているはずなのだ」
「ふざけたことをぬかすな」
 自分の声が非常に低かった。雅が首を振った。
「明。おかしいとは思わなかったのか」
 今では、男の言葉に神経を尖らせ、肩まわりの筋肉がこわばっていた。
 この話の行き先がどこかはわからない。わからないのに、男の語る言葉が、なにか自分にとってよくない、望まない方向へと向かっているのを察していた。
 二体の混血種は俺たちを挟む位置にいて、それぞれが出す空気が、この話を初めて耳にすることを示していた。姑獲鳥の頭の向きが固定されたように主人から動かない。
 廊下の照明の下で、雅の白髪がにぶい輝きを帯びていた。
「実はお前の血液に、我々の血を混ぜてみた」
「なっ」
「最初の頃に血液を採っておいただろう。採ってすぐに試したのだ」
 口を半開きにしたまま、男を凝視した。
 たしかにここへ連れてこられた直後、あの部屋で血を抜かれていた。痛みでうろ覚えではあるが、治療中になぜ血を抜かれるのか、意味不明に思ったことは記憶に残っている。
「通常であればヒトの体内に吸血鬼の血液が混入した時点で、細胞はウィルスに侵される。お前も知っての通り」
「……」
「しかし例外はある」
「…例外?」
「ごくまれに、人間の中に、細胞は感染しているにもかかわらず発病しない者がいた」
「!!」
 悲鳴をあげそうになった。
「知らなかったか」
 雅が言った。問いではなかった。
「発病、しなかったのか……」
「肉体の一部の変形や、巨大化など、ほぼすべての者にいくらかの変化が見られた。変化には個体差もある。しかし共通しているのは、体内にウィルスが潜入していながら、吸血鬼にはならないことだ」
「そんな、ばかな……。信じられん…」
「驚くにはまだ早い」
 あまりにもいろいろな考えが頭の中で駆けめぐっていて、処理が追いつかない。その中のほとんどは、失った者たちの顔だ。
 この手で救えなかった者たち。
 吸血鬼ウィルスに感染しても、人間のままでいられる。そういう者たちがいる。それが真実であり、そんなことが現実に起こり得るのなら、それは、そこには、どんな可能性がある。
 額の裏をギュッと締めつけられるような頭痛が襲った。
 深く考えはじめる前に、耳に声が届く。
「お前の血は、どうなったと思う」
「…? 俺の、血…」
「私の血を混ぜたお前の血だ」
 言われた内容を理解しようとするも、思考が散らばって、再構築しようともがく。質問に答えられず、左手を額に当てた。
 脳がフル回転している。
 なぜだろう。その続きを、聞きたくない。
「どう、なったと」
 紙やすりが風に吹かれるような、乾いたかすれ声しか出ない。
「お前の細胞は吸血鬼化しなかった」
「……」
「それどころか、陽性の反応すら示さない。これがどういうことか、わかるか」
 男の声はおそらく、これまで交わした会話、どれ一つとも変わらない、穏やかな調子だった。
「考えてごらん、明。簡単なことだ」
 教えさとすように、雅は言った。
「俺は…」
 ぐるぐる巡る思考の渦の中で、切れ切れに断片的なシーンが浮かんでは消えていく。非常に流れの速い川で、川底についた足を踏ん張っているようだ。
 本当は、あの時も、いつかのあの時だって、感染してしまったと確信した瞬間はあった。やってしまったと頭の九割が後悔と自身への怒りを感じていて、残りの一割が、なるべくしてなったことだと、諦めとかすかな安堵を抱いている。
 いつも、吸血鬼になったところで自分はあの仇を追うことをきっとやめないだろう、と思った。生きる理由ではなく、それを果たさなければ、死ぬことは許されないのだとわかっていた。
 返り血を恐れ、どうやって化け物どもを駆逐できよう。
 しかしなぜだろう。毎度戦いが終わると、自分は人間のままそこにいて、人々に賞賛されている。あっけなく感染してしまう者を横目に刀を振るい、自分だけが、ヒトであることを許されている。
 ずっと不思議だった。ここでもまた、同じ疑問が立ち塞がる。
 どうして、俺だけが。
「俺……」
 どうして。
「わからない…」
 床に自分の影が薄く落ちていた。
 うつむいて、言葉を失い、式を見つけられずにいる。教師にあてられて答えられない、できの悪い生徒のように。
 前方の男が、息だけで笑った。静まり返った廊下に、その震えがやわらかく伝わる。
「ウィルスを体内に抱えたままの先ほどのケースと異なり、お前の細胞は、潜り込む前のウィルスを分解してしまうのだ」
 雅の言葉を真っ先に理解したのは、おそらく斧神だった。背後で短く息を吸う音がした。俺がわかるまで、二秒かかった。
「……ーー!」
「そうだ。これまで、どれだけの血を浴びようと吸血鬼化することはなかった。それも当然だ。なぜならお前は、このウィルスに対して完璧な抵抗を持つ、絶対にこの病にかからない人間であるからだ」
 姑獲鳥のくちばしが開き、そこから牙が見えていた。
 雅は続ける。
「そしてお前は、睾丸と子宮の両方を持つ男だ」
「雅様」
「理解が早いな、斧神。そう、そういうことだ」
 振り返ると、親友は絶句している。石像と化した男から、さっと視線を仇敵に戻す。
「一体、なんなんだお前は、何がしたい…」
「私は、お前が可愛いのだよ。明」
 雅がこちらに向かって歩きはじめる。反射的に後ろへさがろうとし、がくん、と膝が落ちた。
「種の進化は、いかにして起こるか」
 尻もちをついた姿勢から、なんとか立ち上がろうと脚に力を入れた。
「そのメカニズムについては、まだ解明されていない点が多い」
 だめだ、汗ですべる。
 裸足の足の裏から指のあいだまで汗がにじみ、なめらかな床材に吸収されない湿りで、踏ん張りがきかなかった。
 男の靴音が鳴る。
「しかし引き金と考えられているのは、基本、突然変異だ」
「…突然、変異」
「そう。お前は五十嵐一郎の報告書を読んでいたな。我が一族の由縁や、研究の詳細はおよそ知っていよう」
 こく、と唾を飲み込んだ。うなずくことも、相槌を打つこともしなかったが、俺が黙っていることを雅は肯定と受け取ったようだ。
「あの実験で私の細胞は変化し、先祖代々から伝えられてきた遺伝子に、それまでの種にはなかった決定的なエラーが生じてしまった」
 知っている。この男が悪魔と成り果てるまでを記したあの報告書に、すべてが書かれていた。
 すべての元凶。
 今では、黒い礼服の布地まで確認できるほどの距離に、男が近づいてきていた。立つこともままならない状態では、ろくに立ち向かう手段さえない。
「そしてこの生じたエラーは、次世代に忠実にコピーされていく」
 雅が言った。
「コピー……?」
「子孫へ引き継がれていくのだ」
「!」
 全身に鳥肌が立った。
「突然変異とは、その遺伝子が複製を重ねられることで、やがて新たな種へと発展する可能性を示しているのだ」
 口を半開きにしたまま、なにも答えることができなかった。
 この男の体に生じた変化。
 物凄いスピードで脳が稼働する。あちこちで火花が散り、これまで得た情報と男の話が、一気に二重螺旋に組み立てられていく。
 恐ろしい考えに。
「っそんな…ことが……」
「夢物語だとでも?」
 肺をわしづかみにされるような息苦しさに胸を圧迫され、バランスを崩し、床に手をついた。
「ありえねぇ……」
 つぶやいた声がしわがれた。
 あまりにもおぞましい、その考えが。身の毛もよだつ計画が。
 寒気がする。
「駄目だ…そんな……」
 後天的なものであるこの男の不死は、血液分離剤で攻略が可能な類のものであった。肌身離さずにいた五〇一ワクチンも、今はどこにあるかさっぱりわからない。とうに破壊されている可能性は高いだろう。しかし先例があるかぎり、その不死に対する攻略の希望は、今後も決してゼロではない。少なくとも、俺はそう信じていた。
 しかし、これは、この話は。
 この男の目指すところは。
「産まれてくるものは、おそらく親と同じ不死であろう。しかもそれは、生まれながらの不死身だ」
 遺伝子に生じたエラーは子孫に引き継がれ、種を滅ぼされまいと不完全な箇所を克服する。
 その時点で血液分離剤はただの水と化す。
「しかし、これだけでは不十分」
 あごに何かが触れた。
 男の指が皮膚の薄いあご裏を這い、俺の顔を上げさせる。
「なぜ、お前なのだ?」
 持ち上げられた視線の先、真上に、白い顔があった。
 血よりも赤く、濃い、煮詰められた瞳に、目の奥をのぞき込まれている。
 唇がわななく。
「おれが……」
 なぜ、俺だったのか。
 感染させられず、殺されもせず、生かされていた。ずっとそれが不思議だった。なぜ俺だけが。
 この男に。
「俺が……」
 その理由が、こんな。
「…にんげんの、ままだから…」
「そう」
 男の目にやわらかいなにかが浮かび、それが徐々に輝きを増していった。あごに添えられた乾いた手が、首筋を撫でる。
「ただの人間、ましてや吸血鬼を母体にするつもりなど、毛頭ない」
 吸血鬼ウィルスに対する完璧なブロック。人々を苦しめ、この国を死滅させていく病の治療へのヒントが。
 そのすべてが、この身体に入っている。
「ウィルスに真の抵抗性を持つお前の体は、やがて人間の希望となろう」
 男の骨張った指が、探り当てた太い血管を上から緩く押した。爪が肌に食い込み、チリチリとした痛みが喉まで届く。
「ただ」
 男の息が唇にかかった。
「それはお前の腹から生まれてくるものにとっても、同じやもしれん」
 白い前髪が額に触れた。
 鼻が触れ合うほどの距離に、仇敵の穏やかな表情があった。急いでいる様子はなく、落ち着いていて、冬の朝のように静かな目をしていた。
 見上げる首の後ろが痛む。
 視線を外すことはできなかった。
 その瞳孔の裏に、狂気ともいえる燃えさかる生気が宿っている。
「俺たちが……あそこで、していたことは」
「混血種という生き物自体、非常に優秀な遺伝子を有しているのでな」
 雅が微笑した。
「私が戻る前に、少々試したかった」
 その言葉で、なにかが決壊した。長い監禁生活で、今この瞬間までこらえてきた、一日一日ため込まれてきた精神的緊張が、一気に破裂したかのように体の外へとあふれ出した。
 頬を伝いあごを離れ、ポタポタと滴り落ちるそれらは、仇敵の手や袖を濡らした。
 触れられた箇所から腕を走って、無力感が腹の底で固まりになる。
「……ぅ…」
 目をきつく瞑った。
 先ほど目にした姑獲鳥の姿が、頭に思い浮かんだ。廊下の横幅をいっぱいに占領する巨体の横で、行き場をなくした両手がぶら下がっていた。
 斧神の姿は、もっと見られなかった。
「ッ…ゥウ……」
 志も、立場も、正義も違う。もとは同じ生き物で、人間で、こんなことにならなければ、おそらく出会うはずもなかった。互いに命を奪い合う人生には、ならなかった。
 初めから必要などなかったのだ。心を通わせることも、名前を呼ぶことも。
「困ったものだ」
 好きになったって。
「お前は、泣き顔がいっとうかわいい…」
 ぐしゃぐしゃになった顔に、嗅ぎ慣れない淡い香りが降ってくる。
 甘ったるい香のにおい。子供の頃、親に連れられてきた寺で嗅いだ、白檀の香りだった。