大浴場は使われた形跡があまり見られず、中は静かで、人気がなかった。そもそも今いるフロア自体に俺たち以外の誰かはいないようだった。量の少ない、熱くはないが体をあたためる程度にはまだ温かい湯に浸かっていた。全身がくたびれており、力なく男の胸に体を預けていた。
雅はかたい浴槽の縁に寄りかかっていて、先ほどからものも言わずに天井へ顔を向けている。両脚の間にいる俺の存在を忘れたかのように、広げた両腕を縁に乗せて目を閉じていた。緩やかに上下する胸の動きで、息をしていることはわかる。
互いの肌が湯の中でくっついていた。そばにいると、性交後のだるさと余韻に包まれた体が、自然と吸いつくようだった。
「…あの部屋…」
自分の声が心持ちかすれていた。声を発したことで肺に残った空気が抜け、体の向きが少し変わった。湯が揺れる。
骨ばった片腕が伸びてきて、ぐい、と肩を抱かれた。体が大きく傾き、思わず男の腕をつかんだ。雅は構う様子がなかった。
「もういい」
「…いい、って」
男の顔が俺の顔のすぐそばにある。乗りかかり、体をもたせかける格好となった俺を、赤い瞳がじっと見上げている。
「戻る必要はない」
空気が湯気で白っぽく、湯のにおいと、時間の流れがここで止まっているような感覚が強かった。見知らぬ場所にいるのに、目の前の男がそこにいることに、不思議と、なんとなくぴったりした感じがした。遠くから帰ってきて、見覚えのある通りに出たかのような、懐かしさを覚えた。
どこかへ何かを置いてきた感じだった。
細められた目が深い暗みをおびていて、俺を眺めていた。白髪を伝う水滴が落ちた。
「…そうか」
俺がつぶやくと、その声が広い浴場にひそやかに響いた。雅がうなずいた。
「そう…」
男が顔をこちらの方へ上げてきた。身をかがめ、口づけた。
口を開けたままの長いキスが続き、終えた後には、相手に体をきつく押しつけていた。息がわずかに乱れて、裸の体がいたたまれないような気がした。そんなことを、この男の前で感じたことはなかった。
「上がる…」
雅がまたうなずいた。後頭部が引き寄せられ、ふたたび唇が割られた。
そのうちに、体を離している時間の方が短くなってきた。しばらくたって、男の目が下に向けられていることに気づいた。
湯の中で、白いもやのようなものがふわふわと漂っていた。俺の股のあいだと、糸のようにか細くつながっている。
目の前の男が注いだ精液だ。
「……?」
そのもやにまぎれて、褐色の、何か体液のようなものが見える。精と同じように股から出てきている。
黙ってそれを凝視した。
褐色だが、見ようによっては赤に見えないこともない。
かすかに脚を動かすと、汚れは金魚の尾ひれのようにふわっと浮いて、湯の中に見えなくなった。
汚れ。
「……」
出血、ではないと思った。
姑獲鳥があれほど慎重に慣らしたことで、混血種を受け入れる時ですら、自身の女性器に傷はつかなかった。痛みはなく、内部が傷ついているという感じもなかった。
顔を上げた。
男と正面から目が合う。
「遅かったな」
「……何が?」
俺の問いに、男の眉がほんのわずかに上がった。めずらしい変化だった。予想外の言葉を聞いたような反応だった。
その後、表情の下で動くものがあり、それが次第に大きな笑みに変わっていった。
「貴様は、本当に何も知らんのだな」
雅が言った。吐息まじりのおかしそうな口調に、なんと答えたらいいかわからず、口をつぐむ。
見下ろすと、それはまだ流れ出ている。脚のあいだでゆらゆらしている。
(これは、何だ)
膣から、もれ出ているのか。
「前から、気になっていたのだ」
男の肩から手を離し、浮かした腰の下に、そっと指先をもぐり込ませた。ひだに触れると、腰がひくんとかすかに引きつる。
ぬるついた感触。
「お前に生理がないことに」
見える位置まで持ってきた親指と人差し指のあいだに、挟まっている細いものがある。指をこすり合わせたら一瞬で消えた。褐色の体液の、かたまりのようなもの。
その時、目はどこも見ていなかった。
男の言葉を繰り返した。
「生理…」
首元に埋められた男の鼻が、深く息を吸い込む。ずいぶんと前に噛まれた場所の真上に、男の口があった。
左肩に触れた唇は、慕わしげに肌を撫でるだけだった。
次に男が声を発した時には、口調に喜びがこもっていた。
「遅い初潮よ」
終