そろそろ鹿肉が食べたいと思っていた斧神だったが、食い気に襲われても数日間は我慢をしていた。それも新鮮な鹿肉。捌きたての内臓をその日のうちに食べる。
ただ面倒だった。部下に言いつけるのは、さらに気が進まなかった。いくらなんでもしょうもなさすぎる。しかし、どうしても鹿肉が食べたい。
やはり自分で行くしかない。
まかせられた持ち場を離れて一人狩りに行くとはさすがに言いづらかったので、適当なもっともらしい理由をつけて、ある日の朝のうちに村を出た。特別な日ではなかった。狩りの成果を持ち帰ってきた際には、帰り道で偶然仕留めたことにしようと決めていた。
山に入ると、先日積もった雪がまだ残っており、一面の銀世界が続いている。時々、枝の折れる音がパキリと響いた。これだけ静かで視界が白ければ、動くものがあれば見つけやすかろう。
斧神は機嫌よく木々の間を歩いた。雪も歩行を妨げるほどではなく、順調に歩を進められた。普段持ち歩いている斧をここでも手にしていたが、不審に思われぬよう持って出てきただけで、実はあまり必要ではない。腰巻きのすき間に鉈を入れている。そちらで十分であった。
この体になってからも、斧神は何度か鹿を仕留めたことがある。山歩きにも慣れているつもりだ。鹿を一頭、運が良ければ二頭、すっかり持って帰る気分でいた。
ここまではよかった。
午後から降りはじめた雪は徐々に激しさを増した。
大粒の雪の中を鹿を探して歩き続け、太陽が傾きはじめても、運に見放されたかのようにいまだ一頭も見つけられずにいた。声は時折聞こえてくるのに、肝心の姿が見えない。朝からそんな調子だ。
もちろん、そういう日もある。狩りというのは本来そういうものだ。決して買い物ではない。ただ斧神は、どうしても、今日、鹿を食したかった。
朝から鹿肉を持ち帰る気でやってきている。数日前から抑えてきた、持って行き場のない食への欲望が、記憶から舌の上に味を再現している。
斧神は、今日は見つけられずに戻るようなことはしたくなかった。どんなに痩せた鹿でもいい。今日だけは、何としてでも、鹿肉が食いたいと、強烈に願った。
めずらしいことに、斧神は意地になっていた。こだわりが彼を意地にさせた。そのようになっている自分に、男はあまり気づいていない。
日暮れを迎えても狩りは続いた。
雪はすでに吹雪ともいえる降りかたで、男の体じゅうにあたっては、凍えた全身を石のつぶてのごとく容赦なく叩いた。灰色の視界で、斧神は耳にしているはずの鳴き声をたどる。
斧神はだんだんと、あの鳴き声は鹿ではなく、狸か狐の類いに化かされているのではなかろうかと思えてきた。そして、一度その考えが頭に浮かんでしまうと、途端、鹿の存在自体が怪しく感じられ、すべてが馬鹿馬鹿しくなった。
その場で立ち止まり、男は、今日はもう戻るべきであることを理解した。やっと頭が冷えた。また今度にしよう。鹿なんぞ、いつだって手に入る。
あたりを見回した。
猛吹雪が視界を奪い、日はとうに暮れて山は闇に包まれ、足元はどこまでも灰色で埋め尽くされている。数メートル先の木々も見えず、生き物の気配もない。
自分が今どこにいるのかが、斧神にはほとんどわからなかった。
悪天候でなければ頂上を目指しただろうが、ここまで視界が悪ければ、山中を歩き回らず、なるべくひとところでじっとしている方がいいと判断した。
体を覆う物が何もない状態で、一晩強風下の降雪の中で過ごすことに、凍死という言葉が斧神の頭をよぎる。
手も足も、指先の感覚がなかった。それでも男は兜の下で笑っていた。ここで死んではいい笑いものだ。
斧神は手を兜の前に掲げ、視界を遮る雪を防ぐ。こうなってしまったものは仕方がないと、半ば開きなおりにも近い気持ちで、少しでも雪と風をしのげる場所を探した。
夜が更ける。
視界が悪く、歩けば兜の角に枝がしょっちゅう引っかかり、巨大な斧も積もり続ける雪にとられて思うように下げられず、肩に担いで歩いた。あまり動き回りたくはなかった。どの方角へ進んでいるのかもわからない状況で、むやみに体力を消耗するべきではない。
そこまで長くはない距離を歩き、一本の太い木のそばで足を止めた。古い木だ。雪を割って、斧と鉈を近くの地面に突き刺した。
重たい体を曲げて、木の根元に座ってみる。巨体が隠れるわけもなく、気休めにしかならないが、ないよりましだった。
体温を逃さないよう、斧神は体を丸めた。体を打つ雪の激しさを感じながら、寝ようと努めた。
ジンジンとする寒さに何度か目を覚まし、体に積もった雪を落としては、手足が動くことを確認する。体から出た水分で肌の表面が凍り、腕を伸ばすと出来たての薄い氷がバリバリと割れる音を立てた。
風が止み、雪がボタン雪ほどの大きさまで小さくなったら、かなり寝やすくなった。兜越しに見る、山羊の口からもれる息の白さが濃い。
夜明けが待ち遠しい。
尾根の上が明るくなり始めた頃に、なるべくゆっくりと起き上がる。あたりは静かだ。
身体中の節々が凍ってしまったのかと思うほど冷えて、痛み、伸びをするのも一苦労である。
昨晩の悪天候が嘘のように雪はピタリとやみ、男のいた場所を除いて、周囲には高く雪が積もっていた。斧の柄の周りの雪をどける。金属の部分に触れないよう斧と鉈を回収した。
空を見上げ、日の出の位置で自分が今いる位置を確かめる。
東か、西か、上か下か。ほんのしばらく考えた末、毎朝村から目にする日の出の方向を頼りに、山を下りてみることにした。
夜の間に積もった雪で、昨日よりも歩きづらい。風と雪がやんでくれたのが幸いだった。斧神は一人、もくもくと雪をこいで歩みを進める。
マツの枝の隙間から空が見えた。よく晴れた、雲のない青い空だ。
太陽が真上にくる頃に、やっと見覚えのある場所に出た。鹿の声を追いかけ、昨日通ったあたりだった。
斧神は足を止めずに進んだ。歩みが速くなり、斧を持たない手で雪をこいだ。痛みを通り越して手足の感覚がないので、体が自分のものではないみたいだった。
太陽の光が雪にはね返り、自然の白さが暴力的なほどに寝不足の眼球に眩しい。
林が途切れる場所を見つけた斧神は思った。とにかく、冬の山には二度と行くまい。あとやはり狩りに斧はいらない。
街道沿いの畑に出た時、斧神は疲労のあまり、水路に足を落っことしてしまった。
「シカぐらいとってこさせろ」
正面から投げかけられる愉快げな声に、湯に全身を沈めた斧神は、主にしかわからない表情を浮かべて、羞恥に肩をすくめた。
2017.1.24
お題『遭難しかける斧神』
「斧神様」になりたての頃の斧神で捏造昔話。(凍傷は治りました)