魚が跳ねたのだと思った。
草を踏み分け、首を伸ばしてみて、抱えていたたらいを落とした。たらいはひっくり返って、入っていた洗濯物を足元にぶちまいた。反射的にしゃがみこんで、草の陰に身を隠した。
春先の陽光が眩しく、大気はあたたかい。乾いた地面と、生えたての草のにおいが鼻をくすぐって、木々のすき間を縫って吹く風が、じわじわと活動をはじめる生命の動きを伝えた。咲いたものも、まだつぼみのものも、花はすべてがいいにおいをさせて、枝に止まった鳥たちは軽やかに鳴く。のどかな昼前だった。太陽はいま、真上にこようとしている。
(肩が、白い)
思いがけないものを見た驚きに、心臓が激しく鼓動していた。声も出ないまま、地面に腹をつけて、草のすき間から前方をうかがった。緊張に全身が張り詰めていた。
濡れた髪を掻き上げて、首をゆっくり左右に捻る。手の平が、腕から腰にかけてのラインをなぞっていき、マッサージするように、時々筋肉を揉む。あごや、指先から滴る水が水面を打って、その体が動くたびに、小さな水音が響いた。むき出しの胸板が、穏やかな呼吸に上下している。
(明さん)
濡れて黒々とした髪が、肌に張りついて、分かれたところからうなじが見えた。水面に反射した太陽の光が、あらわな腰から上を照らし、みずみずしい肌をやわらかく焼いていた。
息をひそめて、辺りを見回した。刀や衣服は、一体どこにあるのだろう。あたたかい風が吹いて、草や木々をざわざわと揺らし、腋の下を通り抜けていく。生き物の動く音に、私の息づかいが同化して、紛れて、いまいる場所よりももっと奥へと消えていった。自分たち以外の人の気配は感じられなかった。しかし池の真ん中で裸の背をさらしている彼の姿は、すこし無防備すぎるように思える。
(一人なのだろうか)
だとしたら、いまこうしているのは、もしかしたらよくないことかもしれなかった。そんなつもりはないが、これは、盗み見ているといっても過言ではない。
大きな音を立てて、彼が頭から水のなかに潜った。気づかれないうちに、腹ばいの姿勢のまま、後方へと後ずさろうとした。
(けれど、もし一人だったら……)
手足が固まり、ぶちまけた洗濯物の海の上で、体が動かなくなった。その考えが、ぐるぐると頭のなかで渦巻いた。それは実にばかばかしい考えだった。
(だが、もし一人だったら…)
それだけで私は、前に進むことも、後ろへ退くこともできなくなってしまった。どうすることもできないまま、ただ息をひそめて、その場に伏し続けるしかなかった。
よく晴れた日だった。このような島にも、季節の変わり目が訪れるのだ。咲いたタンポポが、黄色い頭をふらふら揺らしている。雲の流れが遅く、太陽はまったく動いていないように映り、時間の進みが感じられず、実際、それはなんともいえない時間だった。
緊張に引き攣っていた体は徐々にほぐれて、跳ねていた心臓は、いつのまにか普段のリズムを刻んでいる。うつぶせになった背中が陽光によってあたためられ、けれど皮膚に熱くはない。体によって薙ぎ倒された草は、温い絨毯といったところだろうか。指先で雑草を弄びながら、呼吸も静かに、私は胸のうちでせめぎあっている二つの感情を持て余していた。いますぐにでもこの場から去らねばならぬという、そんな焦りと、できることなら、許されるかぎりこの場に留まっていたいと願う気持ちだ。胸を緩く締めるような、やわく喉を押さえつけられるような感覚が、泉のごとく、こんこんと湧き出てくる。しかし、なんとも不思議なことに、それらはすこしもうっとうしくはない。むしろそれを感じられること、それ自体が心地よく、葛藤そのものを、頭では愉しんでいるという、奇妙な矛盾を味わっていた。
(すぐそこに、明さんがいる……)
さざめく木々や、波打つ水音が聴覚を満たす。それら一つ一つが鼓膜から、頭の底に溜まり、私のなかに浸透していくのがわかる。水辺の空気が喉を湿らせてゆく。
その事実一つが、全身を包んで、やわく浸し、ささくれ立った神経から力を抜くのは、それがあの人だからだ。
目を覚ましたきっかけは床の軋む音だった。長い冬の間に、一度だけ深夜に出歩く彼の姿を見たことがある。吹雪に廊下がすこし明るく、覗いたら、あの背中が階段を下りていくところだった。その手は刀を持っていた。私は足を忍ばせて窓際に立ち、昇降口付近を見下ろして、彼が出てくるのを待った。廃校の廊下は、室内であろうがとても寒く、呼吸をするたびに息が真っ白く染まった。吹雪にすこし身を屈め、出ていった背中がすぐに見えなくなったことに、内心驚くほど怯えた。
その夜、窓際で私はしばらく彼を待ってみたが、眠気と寒さには勝てず、早々と寝床に戻ってしまった。しかし次の日の朝には、彼はちゃんと運動場で素振りをして、彼の仲間たちと共に修行に精を出していたから、なにもなかったのかもしれない。実際はどうなのだろう。その朝のようすを、私はあまり覚えていない。きっと眠たかったのだろう。
一度も話したことのない人間が、こうして意識をして、見ているということを、彼は知らないはずだ。そして私も、どちらかといえば、それを知らないままでいてほしい。知ってほしいと思う気持ちも、ないことはないが、本当はただ、単純に眺めているだけで満足なのだ。彼がたまに見せる、健やかに笑うその顔が見られるだけで、明日が楽しみに思えれば、それで十分なのだ。暗闇のなかに一つ、希望がそこに光るから。
息苦しさから、蒸れた口当てを下にずらした。揺れた草の葉が、むき出しになった唇や鼻をくすぐって、鼻がむずむずした。こんなところで、まどろんでしまったらしい。池に射した日が、来た時よりもずいぶん傾いている。
ぼんやりとした頭で、頬をつけたまま、しばらく池を見つめていた。水面は、まったく静かに凪いでいる。自分が、一体どのくらい眠っていたのか、考えて、いやになった。肘で体を支えながら、のろのろと上体を起こしかけて、止まった。
(………)
体から数メートルも離れていない位置、視線の先に、彼が座っていた。一本の木に寄りかかって、こちらに向く形で、あぐらをかいていた。裸ではなく、服を着ている。上着だけは丸めて、刀と一緒に脇に置いてある。おかしな体勢で固まった私を、彼は見ていなかった。かすかな寝息に、ゆっくりと上下するシャツの胸が、午後の木漏れ日を浴びて、白くやわらかい。
春先の陽光が眩しく、大気はあたたかい。乾いた地面と、生えたての草のにおいが鼻をくすぐって、木々のすき間を縫って吹く風が、じわじわと活動をはじめる生命の動きを伝えた。咲いたものも、まだつぼみのものも、花はすべてがいいにおいをさせて、枝に止まった鳥たちは軽やかに鳴く。のどかな午後だった。太陽はいま、西に向かっている。
(髪が、乾いている)
私はまた横になると、口当てをつけて、目が覚める前と同じ格好をした。そうして薄く目を開けたまま、いつまでか知れない寝たふりを始めた。いつまででも構わない、と思った。
2010.3.11
モブから見たヒーローや主人公という構図が昔から好きです