※注意
・篤、斧神生存ルート
・篤、斧神ともに交戦済み設定
・明が吸血鬼軍に捕まって雅に飼われています(本土未上陸)
・蚊は本土にばら撒かれませんでした
・明の右手も健在
・師匠は邪鬼になっていません
・腐女子の妄想、捏造、何でも許せる方向け
ガチャリ。重たい鍵が開く音が玄関の方から聞こえたので、飲みかけの牛乳が入ったグラスを食卓に置いて、椅子から立ち上がる。
裸足のまま、ペタペタと足音を立てつつ居間から玄関に抜ける廊下へと出た。外灯の明かりに照らされて、不気味な山羊のシルエットが廊下の床に前屈みの影をつくっている。三和土に立つ斧神がこちらに背を向けて横開きの扉に鍵をかけていた。ガチャリと、また重たい鍵の音がした。
「…おかえり」
山羊のかぶり物がこちらを向いた。その手にはあの巨大な斧を持っていた。鼻腔を嗅ぎ慣れた匂いが刺激する。血の匂いがする。
斧神が斧を土壁に立てかけた。血がついていなかったので、どうせ帰ってくる前にきれいに『掃除』をしてきたのだろう。異様な存在感だが、そこにそれがあることにも、もう慣れた。
「ああ…、邪魔する」
言葉を一句一句、はっきりと区切るようにして斧神は挨拶をした。帰宅の挨拶を返しはしない。山羊の無感情な眼が俺を見つめる。かぶり物の中にいる、男自身の探るような視線を感じた。
俺は居心地が悪くなり、物も言わず廊下を引き返した。いつもこうだ。背後で廊下が軋む音がし、斧神が上がり口を踏む足音が聞こえた。
「今日は何をしていたんだ」
「べつに…、何も」
「…」
居間の古ぼけた明かりの下で、先ほどからそうしていたように、飲みかけの牛乳を飲みながら扇風機の風にあたっている。縁側の硝子戸を開け放っている為、夏の夜の空気が部屋じゅうに満ちていた。昼間ほどではないが、庭にぼうぼうに生えた雑草の青臭い匂いが鼻をくすぐる。
牛乳はぬるく、舌に甘い。斧神が斜め後ろに座っていることを気配で知りながら、俺は外を見続けていた。斧神がなお会話を続けようとする。
「何か変わったことはなかったか」
「…例えば」
「なんでもいい。お前が気になったことだ」
ちらりと後ろを振り返った。畳の上にあぐらをかいた斧神が、俺を見ていた。かぶり物がこちらを向いているだけで、中身は実際にはどこを見ているのか分かったものではないが、彼が俺自身の動向を気にしているのは感じられた。
俺はまた庭に向き直り、グラスから少しずつ牛乳を飲んだ。新鮮な牛乳なんて、一体どう仕入れてくるのだろう。
「電球が」
「?」
「台所の電球が切れたから、新しいのが欲しい」
そう言って、台所の方に顔を向けた。斧神もつられてそちらを見る。今日の夕方にスイッチを入れても点かなかったことを話した。斧神がうなずき、「わかった」と言った。
斧神は、欲しいものはなんでも言え、と言った。
「じゃあ、ここから出してほしい」
と真っ先に言った言葉は黙殺される。
この家に俺を閉じ込めた張本人が、(自由以外の)俺が望むものを全て用意するべし、と言い置いているらしく、その世話係に斧神が任命されたようだ。半死半生の状態で連れてこられた俺の面倒を見たのも、どうやら彼のようだった。
一人で暮らすには広い家だった。一階建ての日本家屋で、以前に人が住んでいたことは宅内の様子から見ても明らかだったが、家具や生活用品などを全て残し、今は誰も住んでいない。こんな空き家は彼岸島に腐るほどあるので、理由を考えても仕方がない。
逃げ出さないのにはいくつか理由がある。最初の頃は逃げる機会をうかがっていた。しかし、その都度斧神が全力で止めにかかるのを切り抜けなければならず、毎回どうにかして手に入れた武器も取り上げられ、殺される寸前までいっては連れ戻されるということを何べんか繰り返し、最終的に俺を閉じ込めた張本人が出てきたことで、脱走を止めざるをえなくなった。雅が斧神に命じたのかどうかは知らないが、それからだ。斧神が毎晩やってくるようになったのは。
時々、俺がいなくなった後の仲間や、人々のことを考えた。あまり考えたくはなかった。思い出すとつらかった。師匠が俺を探しているのを感じた。
寝室に斧神が用意した蚊帳を張り、昨晩と同じ時刻に布団を敷く。湿気っぽいマッチを使って蚊取り線香を焚いた。斧神がそんな俺の様子を蚊帳の外から眺めていた。
「じゃあ、俺は寝るよ」
声をかけたが返事がなかったので、与えられた寝間着に着替える。寝間着といっても、上はTシャツ、下はジャージのズボンだ。はじめは男物の浴衣を持ってこられたが、慣れなかった為に着るのをやめたら、次に用意されたのがこれだった。ジャージには知らない学校名と誰かの名字が縫ってある。これまたこの島の名前の知らない誰かの持ち物だったものだろう。
天井から垂れ下がった紐を引いて電気を消した。おとなしく布団に入って、斧神の方を向いて横になった。月明かりのおかげで、電気を消しても部屋の中がうっすらと見える。斧神は襖を背にして片膝を立てて座っていた。縁側の戸を開けたままにしている為、リー、リー、という虫の鳴き声がよく聞こえる。それ以外は静かだ。
「なあ、泊まっていけよ」
俺の言葉に、薄暗がりで山羊が少し頭を動かした。
「気にするな。お前が寝付いたら出て行く」
「俺を監視するなら、あんたはずっとここにいるべきだろ」
「俺は監視をしているわけじゃない」
膝の上にのせた手を、斧神が開いたり握ったりした。今はおとなしい鋼鉄の身体が、呼吸に合わせて穏やかに動く。
「お前の世話をしろと、雅様から命じられているだけだ」
それを監視というんじゃないのか、と思ったが、口にしたとしても男に口で勝てる気がしなかった為、それ以上言うのをやめた。それに、彼がこの家から出て行った後も、夜中暑さで目が覚めた時などにふと周囲に彼の気配を感じることがあったので、どこかには居るんだろうと思った。
枕に頭を乗せ直した。扇風機の回る音が徐々に眠気を誘った。くっつきそうなまぶたのすき間から山羊を眺めつつ、ぼそりと呟く。
「あんたが世話係なんて、贅沢なペットだな」
皮肉のつもりだったが、その晩初めて、斧神がかぶり物の下で笑った。面白がっている様子だった。
この家に住まわされてしばらくして気がついたことは、他の吸血鬼の姿を全くと言っていいほど見かけないことだ。島のどの辺りにいるのかも自分にはわからない。家の周りはいくつかの空き家と山と田んぼに囲まれていて、実際に確認をしてみたが本当に人気がない。諸々の必要な生活物資や食料は全て斧神が用意をし、ここまで一人で運んでくるという流れだった。斧神はそれを面倒臭がるそぶりを見せない。
昼間、一人の時に辺りを散策した。田んぼは荒れていて長い間水を入れられてない様子だ。ジリジリと照りつける太陽の光に汗が背中を伝い、Tシャツの色を変えた。山の方を見上げる。生い茂る緑がはっきりとした色で生気にあふれ、白い入道雲との対比が見るも鮮やかだった。誰の声も聞こえない。汗を手の甲で拭う。蝉の鳴き声ばかりがミンミンとうるさい。
雅の手によって死にかけていた俺を、雅に命じられた斧神がこの家で治療に当たったと斧神自身から聞いた。激痛と疲労で記憶も定かではないが、縫った傷口に斧神が手ずから包帯を巻いていたのは覚えている。消毒液と血の匂いが室内に充満する中、斧神は三日三晩、痛みにうなされる俺を見ていたと言った。そう話す声は淡々としていて、その山羊の頭から考えていることを推し量ることはできない。
斧神は傷の具合を毎日欠かさずチェックした。俺の全身をくまなく見て、触れて確かめ、治り具合を見ていた。雅の意図がわかるはずもないが、俺を死なせることはしたくないようだった。
ごつごつとした大きな手が、巨大な斧を振り回すのとは全く異なる手つきでガーゼの上にできた黄色い染みをなぞる。その手が汗と血で汚れた布団のシーツを取り替え、抱きかかえた俺を清潔なシーツの上に寝かせる。痛みで夜中目が覚める俺のそばにいつも座っていてくれた。傷が治りきり、この家からの脱走を企てた俺を逃がすまいとする斧神の手は、自分が塞いだ傷口の上からまた新しい傷を作ることを、これっぽっちも厭わない様子だった。
「いつまでこうしているつもりだ?」
鍋に入れる白菜を一枚一枚ハサミで切りながら、背後にいるはずの斧神に尋ねた。刃物という刃物を全て取り上げられたせいで、料理をする為の包丁すらないといった状態だ。ざく、ざく、と白菜の芯の部分にハサミを入れる。よく切れる鋏でいい。
返答がなかったので手を止めて後ろを振り向いた。斧神は居間の畳の上に座っていた。
斧神はこの家では座っている姿の方が多い。立っていると山羊の角が天井を擦るどころか兜を落としそうになる為、ずっと頭を下げていなければならず、それが苛々するらしかった。師匠で散々そういった様子は見ている為、とりあえず、不便だな、といった感想だ。まあ兜を取ればいいだけの話だが。(但しこの提案が受け入れられないことを俺は知っている)
斧神がゆっくりとうなずいた。
「さあな」
「なんだよそれ」
「言葉通りだ。俺は知らん。俺はただ、お前をここから出さなければいい」
「いい加減だな。さっさと殺せ」
俺の言葉に斧神が黙る。ハサミを持ったままの俺の視線に、何も返さない。死んだ動物の瞳がこっちを向いているだけだ。それきり、俺が鍋に入れる野菜を全部切り終えるまで何も言わない。今晩も、虫の鳴き声が耳障りなほどうるさい。
切った野菜をザルに山盛りにしていった。夏に買うには値が張る野菜ばかりだ。これまた島の外から手に入れてきたものなんだろうか。
パチン、とハサミを閉じた。
「どうして何も言い返さない?」
体の向きを変えてシンクに腰から寄りかかり、斧神を見た。斧神が山羊の鼻を少しだけ持ち上げた。こちらに意識が向いている。
自分が苛ついているのがわかった。大きな声を出してしまいそうで、嫌だった。それでも我慢ができなかった。
「なんであんたはおとなしく俺の話し相手になっているんだ。さっさと吸血鬼にするなり、殺すなり、すればいいだろう」
「それは俺が為すべきことではない」
「雅の命令だからだろ。じゃあ、あいつがいつ来たっていうんだ。あのたった一度だけだ」
網戸から流れ込んできた夜の風が胸から首筋にかけてできた傷痕を衣服越しになぶった。そこに空気が触れるといまだに背中がぞわぞわした。雅の鉄扇が肉をえぐって切り裂き、それを斧神が何週間もかけて塞いだ痕だ。
斧神が立ち上がり、俺の方へと近づいた。天井にぶつからないように身をかがめていたが、それでも兜の角が天井にぶつかっている。
「こんなところで生きながらえて、何になるっていうんだ。俺の仲間たちのところへ帰してくれ。でなければ殺せ」
斧神が俺のすぐ目の前まで近づいた。山羊のかぶり物の下から複数の呼吸音が聞こえる。巨大な体躯がシンクを背にした俺の前を塞いだ。
再びハサミを手にした俺の手を、斧神の手が上から押さえつけた。斧神を見上げた。胸が苦しくて、息がしづらかった。斧神が非常に近い距離にいた。血と、獣の匂いがした。
「こんなのは…、…ただのままごとだ」
出した声が震えていた。息が詰まった。斧神がゆっくりと首を振った。
「ままごとだろうと、構わん」
山羊の頭がつぶやいた。斧神の大きな手が、俺の手を離さないまま、器用にハサミを床に落とさせた。カシャン、と頼りない音が響く。
武器も持てないことが怖かった。吸血鬼がこの家にやってきたら丸腰の俺は終わりだ、と斧神に伝えると、斧神は「それはない」と言い切ってみせた。「この家に他の吸血鬼は近寄らない」と言った。なぜかは言わず、教えてもくれなかったが、ただその辺の吸血鬼の玩具にはされないことがわかった。雅の玩具であるからかもしれない。
奇妙な事だ。かつて殺気をぶつけ合い、殺し合いをした相手を前に刀を持てないことが、最初震えが止まらないほど恐ろしかった。目の前にいる斧神の、殺気を記憶から再現してしまう。そうなってしまうと武器を取りたいのに取れないことが、発狂してしまいそうになるくらいに怖い。発作的に家から逃げ出す俺を、斧神は殺さずに捕まえることを繰り返した。雅がやってきたことでそれも終わりを迎えたが、最後にはハサミを除いた家中の刃物が消えた。
斧神という男は最初から敵だった。それでいて、かけがえのない友だった。そばにいると、慕わしくて、胸が疼く。こんな状況でも訪ねてくると知った顔が見られて嬉しかった。不自然にも、斧神は丸腰の俺を前に殺気を出したことはない。逃げ出した俺を捕まえることはするが、基本的に俺にあまり指図をすることはしなかった。どちらかといえば俺に話をさせて、頷いていることの方が多かった。
信じられないことに、殺し合う瞬間と同じで、斧神のことが俺は好ましいのだった。
乾いた山羊の鼻先が俺の首筋に触れ、すり、と擦れる。その感触に背中のあたりがぞくぞくした。仕草がどこか懐かしくて、息ができないほどに苦しく胸が締めつけられる。
斧神の片手が俺の肩を抱き、自分の方へと引き寄せた。強い力ではないのに、引き寄せられるがまま、斧神の体に力なく寄りかかる。斧神の腹に手を置いた。巨大な体躯を前に、俺の背丈は男の胸までしか届かない。鍛え上げられた腹筋が手のひらに硬かった。
斧神は何も言わない。互いの息づかいと虫の鳴き声が、部屋にぽっかりと浮かんだように漂っていた。
くっついていると斧神の鼓動が聞こえる。他人と触れ合ったことがあまりにも久しく、驚くことに、俺は斧神に抱かれながら心が安らかになるのを感じていた。苛ついていた気分が徐々に冷やされ、平らにされていくようだった。斧神の腹に額を押しつける。
斧神が俺の背中に手を当てた。不意に兄を思い出して、鼻の奥が熱くなる。
「あんたが…」
言いかけて、途中声が出なくなった。斧神が黙って促すように俺の背中を手でさすった。続きが言えず、斧神から離れたくもなかった俺は、ただじっと声を飲み込んで男の体に密着していた。斧神は続きを聞くこともしない。
兄がそばにいるのと同じような錯覚に陥る。いつか体調の悪い時、兄貴が背中をさすってくれたことを思い出す。兄貴とは背格好から何まで違うくせに、斧神の仕草はまるで弟や年下の子どもに対するそれで、そういったところに腹が立つこともあればそこに救われることもあるのだった。
深く息を吸い込み、ゆっくり吐き出すと、斧神の胸に触れるだけの手を当てた。
「……もういい。大丈夫、平気だ」
「そうか」
背中にあった斧神の手が俺の後頭部に触れた。髪の毛をかき混ぜるようにして頭を撫でられる。無遠慮な手がその時は気持ちよかった。
「…すまない」
されるがまま、ポツリと謝った。山羊の頭を見上げると、斧神はかぶり物を通してこちらを見つめていた。何か言いたげな感じだったが、俺から手を離すと、いつもの時刻より随分と早くこの家から出て行った。
日々暑さが増していく。真夏日が続き、夜も扇風機の風だけでは寝苦しかった。あんまりにも暑いので、日中風呂場で浴槽に水を張って水風呂をした。
昼間の太陽が照りつけて屋根をジリジリと焼いた。家じゅうの窓を開け放しても風が通らず、暑さに額に汗が滲んでくる。頭がぼうっとして何もする気が起きず、やる事もないので裸で水風呂に入っていたら、誰かが家に入ってくる気配がした。
浴室のドアを見た。明るいうちからこの家を訪ねてくる客などいない。玄関のドアがガラガラと開閉する音がした。
一体誰だ。浴槽の中で、じっと動かないで待つ。
「どこだ、明」
廊下の床が重みで軋む音が聞こえた。斧神の声だった。気が抜けた。
「斧神、ここだ」
「どこにいる」
「風呂場」
浴槽の中で座った状態で声を張った。居間の方に行こうとしていた足音が、行き先を変えて浴室に近づいてくる。浴槽のふちをつかみ、ドアの方を見た。ちゃぽ、と水音が立つ。
がちゃり、とドアが開き、屈んだ体勢で山羊の頭が顔を出した。
「よお」
斧神が俺の姿を見下ろす。片手を上げてみせた。怪訝そうな気配が伝わってくる。
「何をしている」
「見りゃわかるだろ。水風呂だよ」
「ほんとはプールか、海にでも行きたいところだ」と言ってみる。斧神が呆れたように肩をすくめた。
電気をつけなくとも、昼間の浴室は窓から入ってくる日の光で十分明るい。タイルの壁には水濡れしても剥がれないシールが貼ってある。この家の持ち主の、子供や孫が貼ったものだろうか。水を両手ですくい、バシャッ、と顔を洗った。濡れた髪をかきあげる。
「こんな昼間っから、どうした」
そう言って、斧神の顔を見る。斧神が俺を見た。何か別のことを考えているのがわかった。
「斧神」
「今日は晩までここにいる。問題ないか」
「…問題も何も、あんたはいつも好きにするだろ」
「それならいい」
斧神が顔をそらし、浴室のドアを閉じた。足音が居間の方に戻っていく。
斧神が自分から昼間にここを訪れることはなく、俺が脱走を試みたのを阻止する以外には日中にこの家に寄りつくこともなかった。今では毎晩欠かさずやってくるが、最初の頃は傷が塞がり始めると徐々に訪問の頻度が減り、数日に一回というところまで落ち着いた。だからこそ脱走の為の武器をこしらえることが可能となったわけだが、斧神ははじめからそこまで俺を厳しく見てはいなかった。雅の指示がどういったものかは皆目見当もつかないが、雅は、俺をなるべく快適な檻の中に入れておきたいらしい。その檻がこの家と斧神のようだ。
斧神自身が俺を閉じ込める為の檻になれることを、おそらく雅は知っていて、斧神を俺の世話係に命じたのだろう。相変わらず悪趣味な男だ。
水風呂から上がってサッパリした心地でTシャツを着る。髪を拭いたタオルを首に引っかけたまま、洗面所から廊下に出た。
「明」
顔を上げた。
玄関の方から生ぬるい風がまっすぐ廊下に吹きこんでくる。風がまだ濡れている髪を遊んだ。自然と開けられた玄関のドアから外を見た。日差しの強さで飛び石の先の木製の門がゆらゆらと揺れて見える。そこから手前、一つの飛び石の上に人が立っている。
「こんなところにいたのか」
兄貴が言った。数ヶ月前に見たのと変わらない姿で、家の中にいる俺を見て笑った。眼鏡の奥の目が細められ、くっ、と笑った口の端から牙が見えた。
無意識に口が開いていた。足のすねから頭の先まで、一瞬で全身に鳥肌が立った。兄の姿を凝視した。
「兄貴、」
反射的に玄関へと走りかけた俺の手を、後ろから強い力で引っ張られる。ガクン、と前につんのめった。振り向いた。斧神が俺の手を、力を込めてさらに強く引っ張った。足がもつれた。倒れそうになりながら斧神の胸に手を突く。
「離せ、おい」
空いた片手でぶ厚い胸を渾身の力を込めて殴った。鈍い音がしたが、過去に嫌というほど思い知らされたように、鋼鉄の身体はそんなものではビクともしない。暴れる俺の体に腕を回し、斧神が俺の胸を押さえつけるようにして自分の方へと抱き寄せた。うめき声が口から出た。肺が潰されそうなほどに、斧神の力が強い。
「おい、かわいそうなことをするな」
「入ってくるな」
玄関の敷居を跨ごうとしていた兄貴が、斧神の声に足を止める。頭上から発せられた声に、指先がざわざわした。刀を持っていれば反射的に手をやっていたに違いない。刀の代わりに俺の胸を押さえつける斧神の手を握った。
斧神の声は静かで、殺気が滲んでいる。
「篤、入ってくるな」
斧神が言った。俺は兄貴を見つめていた。真夏の日差しの下で、まぶしそうに目を細めて、兄貴は俺だけを見ていた。前に別れた時と寸分たがわぬ姿で、唯一違うところといえば、あの絶対に外すことのなかったマスクをつけていないことだ。その口元には吸血鬼であることの証明である鋭い牙がのぞいている。
兄貴が自然な動きで腰の刀に手をかける。懐かしさで頭がくらくらした。修行の時、その動きを何千回と繰り返し頭に焼き付けた。真似したくて、兄貴のようになりたくて。
わき起こる蝉の声が場違いなほど暑苦しい。
「俺の弟を返してくれ、村田」
兄貴が俺の頭上を見て言った。誰のことを言っているのか一瞬わからず、少しの間をおいてそれが斧神の本当の名前であることに気づく。
肩越しに斧神を振り返ろうとしたが、押さえつける力が強く、首を動かすことも難しい。首に引っ掛けていたタオルがいつの間にか廊下の床に落ちていた。濡れた髪がうなじにへばりつく。
「村田」
「ここには近寄るなと言ったはずだ。即刻立ち去れ」
斧神の体にぴったりとくっつけられた自分の体から、斧神の胸の鼓動や、息づかいが伝わってくる。玄関の扉までは駆け出せばすぐの距離だが、斧神の手がそれを許さない力強さで俺の胸を抱いていた。
兄の眉が困ったように下がり、その手がレインコートのフードをさらに目深に下ろした。日差しによってできた濃い影が兄の表情を分かりにくくする。自分の指に力が入る。前のめりになる俺を斧神が戒めるように抱いた。兄貴の顔をもっと見ていたかった。
兄貴が独り言に近い小さな声で呟いた。
「お前が明を隠していたんだな」
「ああ」
「まだ感染させていないのか」
「雅様の意向だ」
「その傷は何だ?」
兄貴が俺を指差した。兄の視線をたどると、俺の首筋あたりを見ている。Tシャツからのぞく傷痕で、雅につけられた胸から首にかけての傷のことだ。わずかにそこだけ肉が盛り上がり、醜い痕になっている。
「雅様の鉄扇によるものだ」
斧神が言った。
俺を指差した手を体の脇におろし、兄貴がうなずいた。その手がかすかに震えているのが見えた。
「そうか」
兄貴が俺の顔を見た。
昔から兄に叱られた記憶というものはほとんどなく、そもそも兄が感情的になって怒りをあらわにする事さえ目にしたことがない。兄弟らしいことをしなくなって、結構な時間が経っているせいもある。何をしても優秀な兄と比べられてきたせいで、普通の仲の良い兄弟の関わりを持つことすら、物心ついてからは激減してしまった。この島にやってきてから俺は初めて、兄貴と実の兄弟であることを実感し、ようやく兄もただの人であるという当たり前の事実を受け入れたのだ。
兄貴は天才である前に人間だった。いつも冷静で落ち着いている。それだけではない。ミスもすれば、感情的になることもあり、痛みで泣くこともある。人を憎むことも、嫉妬することもあると言った。俺は本土にいる頃から、兄貴を聖人君子のように考えていたが、決してそうではないと兄貴は笑った。
「お前は俺を何だと思っているんだ」兄貴は俺の方がよほど優れた理想的な人間であると言う。ひどい兄バカだと思った。それでも兄にそう言ってもらえることが嬉しかった。ただの兄弟のじゃれあいの言葉だとしても、求められる人間だと思っていたい。兄貴は俺にそう思わせるのがうまかった。
「兄貴…」
兄貴の目が、涙の膜が張っていくように、徐々に眼球の下から赤く色を変えていく。フードの陰で眼鏡の奥の目が光る。兄貴は俺から目を離さない。こぼれて滴りそうな血の色に瞳が染まっていくのを、俺も凝視し続けた。
兄貴に戦う意思は感じられなかった。刀に手をやってもない、両手は体の脇にある。ただ眼から発せられる殺意だけが、斧神に斧を握らせている。
「俺も、お前も雅も、明が特別なんだな」
兄貴が言った。残念がっている言い方だった。自分が良いと思った物を、他の人間も欲しいと言い出したような、そんな響きがあった。斧神が俺を自分の背後、廊下の奥へと離した。大きな手が俺の肩を柔らかく押した。斧神を見た。
斧神が廊下を一歩、前へと進んだ。背の高さで窮屈そうに前屈みになっているが、殺気が体じゅうから溢れている。いつも訪問時に三和土に置く斧を、なぜか今日はそばに持っていたようだ。その事も聞かなければならない。磨かれた斧の刃が禍々しかった。
「篤、これが最後だ。ここから立ち去れ。そして二度とここを訪れるな」
斧神が言った。厳しい口調だった。斧神の背に隠れて、俺からは兄貴の姿がよく見えない。
「それは雅の言葉か」
「そうだ。雅様は、お前がこの家に近づくことにたいして懸念を抱いておられた」
「ハハ」
乾いた笑い声だった。あまり聞いたことがない類いの兄の声だ。兄貴がどんな表情でいるかを見たかった。ただし丸腰状態の自分がこれ以上斧神に近づくことは、頭よりも本能が危険だと訴えていた。とにかく刀が欲しかった。
「その可能性が心配なんだろうな。まさかお前を配置するとは」
斧神は何も言わなかった。また一歩、太い足が前に進んだ。蝉の声が空間を埋め尽くしている。水風呂で冷えたはずの体から汗がにじみ出て、背中にTシャツが張り付いているのがわかる。
じゃり、と砂の音が聞こえた。兄貴の靴音だろうか。
「…お前が明を気に入ることはわかっていたよ」
また靴音が聞こえ、慌てて叫んだ。
「兄貴、行かないでくれ」
「また来る」
「待ってくれ、斧神、少しでいい、兄貴のところへ行かせてくれ」
斧神は俺に背中を向けたまま、落ち着いた様子で首を振った。胸をかきむしりたいほどの焦燥感にかられ、玄関の手前にいる斧神に近づいた。俺の裸足の足音に、斧神の殺気が膨れ上がる。ヒュッと喉が詰まった。息ができなくなる。
兄貴に触りたい。兄貴に抱きしめてもらいたい。このまま、また別れたくはない。
「兄貴…兄貴…」
教会で、兄貴は俺に殺さないでくれと頼んで涙した。あの涙が忘れられない。心から兄の幸せを祈りたい。傷つけあい、殺しあうことを本当はやめたい。俺は兄貴と兄弟でいたかった。吸血鬼や人間である前に、彼のただの弟でいたかった。
息ができず、床にくずおれて膝をついた。斧神の殺気が弱まる。廊下の床に両手をつき、ゼエゼエと息を吐いては吸った。こんな命などくれてやる。
「行かないでくれ、頼む」
立ち止まる兄の靴が見えた。日差しが注ぐ地面の上で、壊れないよう布でぐるぐる巻きにされた靴が懐かしかった。涙で視界が滲んだ。
「兄貴…」
息苦しかった。そのまま何も見えなくなり、いつかすべての音が聞こえなくなった。意識を失ったのだろう。
気がついた時には雅が来ていた。
2016.8.2