スクエア 最終回【前編】

※注意
・篤、斧神生存ルート
・篤、斧神ともに交戦済み設定
・明が吸血鬼軍に捕まって雅に飼われています(本土未上陸)
・蚊は本土にばら撒かれませんでした
・明の右手も健在
・師匠は邪鬼になっていません
・腐女子の妄想、捏造、何でも許せる方向け

・前編、後編、ともに性的描写にご注意ください

 外見だけでいえば、斧神の上半身は元通りの姿に戻っていた。
 手術台の上に横たわる男は、動き出す気配がまるでなく、鋼鉄化を解いた肌の色は血の気がなくただひたすらに青白かった。二つに分かれていた肉体は縫合され、ぴったりと一分のずれもなくくっつけられており、体じゅうを真っ赤に染めていた血は跡形もなく拭い去られている。
 部屋の中央はライトで照らされ、白々と眩しい。台の周りを、医療ドラマで見たことのあるような機械や道具が囲み、足もとのバケツには血がついた手袋が山ほど捨ててあった。その下の床は血溜まりができている。
 手術台を見下ろす俺を、白衣姿の吸血鬼達は距離を置き、不気味そうに窺い見ていた。横たわる男の頭部があるはずの場所には、普段と同じように山羊の頭があり、血でところどころを黒く汚した獣の無感情な目が俺を見つめていた。その目を見つめ続ける。吸血鬼達に、雅は何か言ったのかもしれない。

「どうだ」

 俺の背後に立つ雅が、吸血鬼達に訊いた。

「雅様…」

 吸血鬼が言葉を濁した。

「信じられません……」

 吸血鬼の報告を、雅は黙って聞いていた。俺も聞いていた。斧神という男の生への執着が凄まじかったことや、耐久力に優れた混血種であること、さらには男自身の生命力の強さ、それらによって手術がうまくいったことなどの話を、かすかな動きで上下し始めた斧神の胸を見ながら、ただ口を閉じて聞いていた。
 手を伸ばし、斧神の手首を触る。しばらく触れていないとわからないほどだったが、脈打つ生命を、指先から感じ取ることができる。

「この方は、おそろしいほどの強運の持ち主です」

 吸血鬼が呟いた。感激しているというよりも、気味悪がっているような声の感じだった。
 その言葉に、雅が息だけで笑ったのがわかった。

「面白い話だ」

 斧神の手を軽く握ったまま、背後を振り向いた。雅が俺の全身を眺めていた。

「みすぼらしい」

 雅が言った。言葉とは反対に、白い顔には笑みを浮かべ、尖った歯が口の隙間から見えている。
 ひどい格好をしていることは、自分でもわかっている。ただ、もう今の自分にとっては、見た目などどうだっていいだけだ。

「好きに言え」
「後で人をやる」
「俺に構うな!」

 俺の声をうるさげに手で振り払い、雅が吸血鬼達に何かを伝えた。おそらく俺に関することなんだろう。吸血鬼達が相変わらずの目つきで俺の方を見る。目の前に亡霊が立っていると言わんばかりの目だ。
 腹の立つ目だ。

「俺を見るな」

 言葉に殺気が混じる。
 一斉に部屋の奥へと消えた吸血鬼達に体を向けたまま、斧神の手を握りしめ、その場に立ち尽くした。

「奴らを脅かして何になる」

 隣に立った雅が言った。
 動かない俺の横で、礼服のズボンのポケットに片手を入れた。どうも癖らしい。

「一晩やろう」

 白く照らされた手術台のそばで、親友でもある愛する男を前に、宿敵と二人並んで立っていることが、自分からしても奇妙な光景だった。どこか他人事で、物語の中のように、果てしなく遠い出来事のように思える。

「明、私はお前がかわいいのだ」

 雅の言葉、一つ一つがすべてが夢の中の出来事のように、近くて遠い。
 隣に立つ男を見上げた。認識している以上に背が高く、思ったよりも頭の位置が近くに感じられる。この数ヶ月間、斧神としか接しない生活を送っていたからかもしれない。俺は、そこで初めて、自分が目の前の男に対し何の感情も抱かずに隣に立っていることに気がついた。殺意さえも。
 俺を見下ろし、雅が言った。

「私の恩情だと思え」

 男から白檀の香りがすることに気づいたのも今この瞬間が初めてだった。親のあとをついて寺を訪れた時なんかに嗅いだことのある、特徴的な匂いだ。そんな懐かしい記憶を、この男から嗅ぎとることになるとは思いもしなかった。
 何も言わずに雅の白い顔を見上げる俺を、落ち着いた赤い瞳が見下ろしていた。
 不思議な目だった。この仇のそんな目は、一度も見たことがない。
 赤く熟した蛇苺を連想させる眼が、平静を装う裏で、歓喜に震えている。そこに混じって、遺伝子に植えつけられた怒りと、憎しみ、谷底のように深い孤独が存在し、加えて信じがたいことに、ほんのわずかな疲れも、そこにはみられた。

「一晩で整理をつけてこい。そしてここへ戻れ」

 そのときこそ、わたしからおまえにちょくせつちをいれよう。
 言葉の意味を理解する前に、突然、ぐっと手を握り返され、雅から視線がそれた。手術台を見下ろすと、斧神が目を覚ましていた。

 雅が出て行った後にすぐに別の吸血鬼が現れ、屋敷内の浴場に連れて行かれた。こんな場所で無防備に裸になるつもりもなかったので、着替えだけをくれと伝えたが、聞き入れられなかった。

「雅様が仰ったんだ。頼むから、言うことをきいてくれ」

 編笠姿の男の言葉は懇願に近かった。吸血鬼にしても顔色が悪く、俺を見て青ざめているのか、雅からの命令自体がおそろしいのか、どちらかはわからない。
 外側から入り口を塞がれ、仕方なく洗い場で体を洗った。湯につかることはしなかった。水が肩の傷口にひどくしみて、かなりの痛みを感じた。流れ落ちる水に自分の血が混ざった。この傷は今すぐにでも縫わなければならない。本当だったら。
 あの家を出る時から着ていたもとの服はもう着られそうになく、用意されていた着物を身に纏う。着方もわからないので、適当に帯を締めた。
 出てきた俺を見て、吸血鬼は明らかに肩の荷が下りたようだ。

「もういいか」

 尋ねた。歩いてきた通路を戻り、斧神が居る部屋へ戻りたかった。

「いいぞ」

 薄暗い廊下の奥から声が聞こえた。顔の向きを変え、声がした方を見る。
 吸血鬼の男の向こうから、兄貴が俺達の方へと近づいてきた。

「大丈夫だ。俺が引き継ぐ」

 兄貴が言った。目の前に立つ兄の姿を見上げる。昨晩の争いが嘘のように、いつもと同じような服装を身につけ、口もとを見慣れたマスクが覆っている。眼鏡のレンズに壁の松明の火が反射して光っていた。
 現れた兄の姿と言葉に吸血鬼が動揺しているのは明らかだった。俺の顔と、兄の顔を見比べる。宮本篤が俺の兄であることを知っているのだ。

「篤さん…」
「心配するな。雅様から承っている」

 マスクで口もとを隠し、眼鏡をかけていることによって、話している相手からは表情が確認しづらくなる。兄貴が男の顔をじっと見つめた。

「もう行った方がいい」

 しっかりとした口調で、誠実な声色だった。有無を言わせない感じがあった。
 吸血鬼が逃げるようにして去っていくと、浴場の前の廊下には俺達兄弟だけが残った。

「少しは眠ったのか?」

 穏やかに聞かれ、黙ってうなずく。
 俺の姿を上から下まで眺める視線が、どことなく雅のものに似ており、それがとても居心地が悪かった。兄といて居心地が悪く感じるなど、俺のこれまでの人生では、無かったことだ。兄弟の間に流れていた空気が、今までとはまったく別のものに変質してしまっていることを、はっきりと感じていた。それは、彼が親友を殺そうとした事だけが理由ではないような気がした。
 肩の傷口がジンジンと痛む。

「…俺はあそこに帰る。雅がいいと言った」
「知ってるよ」

 兄貴が歩き出した。つられて歩き始めた俺も、その後をついて行く。

「あいつの体はお前だけでは支えきれない」

 廊下の角を曲がり、来た通路を戻る。風呂上がりの濡れた髪が首に冷たく、うなじに後ろ髪がはりついて、気持ちが悪い。

「家まで送るよ」

 兄貴が言った。その腰にぶら下がった刀が気になる。

「必要ない」

 すかさず返すも、兄貴は気にしていないように、静かな足取りで歩き続けた。火の中で松脂がはじける音がし、廊下は朝だというのに天井の端まで暗い。

「悪いが提案じゃないんだ」

 その言葉に、喉がギュウッと変に引き攣る感じがした。
 斧神の居る部屋の前まで戻ってくると、振り返った兄貴が俺の顔を見た。それから、俺の傷口がある方の肩に上から触れた。強い痛みが半身を襲った。

「俺とお前は、たった二人の兄弟だ」

 顔を寄せ、兄が耳元で囁く。

「わかるか」

 触れられているだけとは思えないほど、傷のある場所がズキズキと痛んだ。
 部屋の扉は閉まっており、しかし、この扉のすぐ向こう側に、目を覚ました斧神が俺を待っていることを知っていた。気配で感じる。斧神が待っている。

「…離してくれ、兄貴」

 なるべく小さな声で言った。
 着物の上から肩を握られ、声にならない悲鳴をあげた。

「雅に渡すためにお前を連れ出したわけじゃない」

 兄貴の声が囁き続けた。

「たった一人の弟だ」

 痛みのせいで頭が朦朧とした。同じ言葉ばかりが何度もヒソヒソと頭の中で繰り返される。兄の声ではない気がした。

「忘れると思うか」

 鷲の鉤爪みたく肩に指が食い込んだ。あまりの痛みに、兄貴の腕を掴んだ。体を支えきれずに、痛みで体が震えた。

「わかるか?」

 激しく首を横に振った。奥歯をギリギリと噛みしめる。まぶたの裏が赤と黒に点滅する。

「兄貴」

 松明の火がまたはじけた。浅く呼吸を繰り返す喉が震える。自分の声が自分のものではなくなる。
 兄貴の低い声が鼓膜から注がれる。

「……俺のこと、待てるな?」

 かすれた声だった。たまらずに、きつく目を瞑った。腹の底の空洞から響いてくる、寒気がする声だった。
 斧神が待っている。

「明」

 兄が怖くて、怖くて、たまらなかった。視線と痛みに耐えきれずに、うなずいた。
 肩から手が離れ、体がふらついた。なんとか足を踏ん張って、その場に立った。着物に血が滲んでいる気がした。兄貴の手が後頭部に回り、肩を庇いうめく俺の頭を引き寄せた。
 湿った唇に兄の唇が触れた。その瞬間、自分と同じ黒目がちな瞳が、レンズ越しに俺の顔をのぞきこんだ。

 扉を開けた先には斧神が立っていた。手術台に手をつき、その巨体を支えている。それでも変わらず、俺の腕を引き、大きな手で無遠慮に俺の頬を撫でた。

「明」

 体の小さな震えが止められず、斧神の体に寄り添った。斧神の片腕が背中を抱き、俺の名前を呼んだ。後ろに立っている兄貴が斧神を見ていることがわかった。

 斧神が歩けるまでに回復するのを待って、雅の屋敷を出た。日が傾きかけており、あたりは黄金色の秋の日差しに包まれ、立ち並ぶ木々の葉の色は変わり始めていた。
 俺が横から斧神の体を支えつつ、二人で砂利道を進んだ。斧神の回復が白衣の吸血鬼達の予想以上に早いらしく、切り離された肉や骨は、驚くことに、すでに体内で再生を始めているとのことだった。
 「吸血鬼は腕を切られたとしても、傷口を合わせていれば大抵の場合、もとどおりにつくこともある」とは、斧神の言葉だ。無茶苦茶だと思う。腕一本切り落とすのと、体を真っ二つにされるとでは、わけが違う。
 麻酔が効いており、一人で歩くことの難しい男の体に、腕を回し、強引に巨体を支えた。斧神は「触るな」と「一人で歩ける」を兜の下から何度も繰り返した。しかし、なんと言われようとも、俺はやめるつもりもなかった。

 家まで送るという兄の言葉を、斧神は頑として受け入れなかった。自分を殺しかけた男が、などという理由から断っているわけではない事が、俺にもわかったし、兄貴にも、おそらくわかっていたはずだ。
 斧神は抑揚のない声で、淡々と話した。非常に落ち着いていて、手術台に寄りかかっている事を除けば、普段の姿とあまり変わらない。

「こうしてくれ」

 斧神が兄貴に言った。

「明朝、俺がこの男を雅様の御前まで連れてくる。あのお方は、それで満足されるはずだ」

 兄貴の目が山羊のかぶり物を見つめていた。俺は斧神のそばにいても、兄の目をまともに見ることが出来ず、俯きがちに二人の話を聞いていた。
 ごつごつとした、乾いた大きな手が、後ろから俺のうなじを撫でさすっていた。俺のおかしな緊張の仕方に、男は気づいているようだった。
 斧神の主張を聞いた後、兄貴はしばらく黙り込んでから、頷いてみせた。

「お伝えしておく」
「すまん」

 兄が部屋を出ていく前に、俺のことを見たような気がしたが、視線を合わせなかった。自分にはできなかった。

 あの家を出たのが、まるでもう何ヶ月も前のような気がする。

「つらくないか」

 人が歩いたあとの残る野道を歩き、山を越える。斧神は左手で右のわき腹を押さえつけて歩いた。胴体と肩は医療用のサポーターで固く固定され、その下を覆う包帯が痛々しかった。話を聞くと、人間のサイズはとても使えないと判断され、大型動物に使用する物に変更されたらしい。

「馬鹿なことをきくな」

 斧神が答えた。山羊の兜の下から聞こえる息づかいが荒く、男は体じゅうにあぶら汗をかいている。歩行による揺れで、痛むに違いない。
 これまでの日々、隣の男が往復をしてきた屋敷と家との間の道は、けもの道とまではいかないが、なかなかに歩きづらかった。

「あんたが倒れたら、俺が背負わなきゃならん。俺には無理だ」

 山羊の口から、ぜえぜえと苦しげな呼吸音がする。

「ふざけた心配をするな」

 斧神が言い、軽口をたたいた俺の首に、空いた片腕を回し、手の先であごの下をくすぐるようにして撫でた。気持ちがよくて、口から笑い声がこぼれた。男がつられて肩を揺らす。

「笑わせるな、痛い」
「ハハッ、ハッ、笑え」
「無茶を言うな」

 腹からしぼり出されるような苦しげな声に、それでも、悔しいほど安堵させられる。
 あの、冷たく横たわった血だらけの体よりも、この一人じゃ歩けない体の方がずっといい。息をするのを諦める姿よりも、痛みを訴える声の方が、ずっとよかった。その方がずっとずっとよかった。

「歩け、斧神」

 俺が言った。
 斧神の手に、上から自分の手を重ね、山羊のかぶり物を見上げた。木々の枝葉の間から射し込む太陽の光が、俺達の体を通り抜けて、やわらかく地面に降り注いでいた。
 斧神が俺の顔を見下ろした。

「帰ろう。早く」

 日光のかけらが、三角や四角に形を変え、視界の端でくるくると輝いた。木と、土と、草と、どこかで何かが燃やされているような、乾燥した秋の午後の匂いがしていた。
 あごに添えられた手が動き、親指の腹が俺の唇をかすめた。

「戻ったらすぐに」

 兜の下から響く声がかさついていた。親指が唇の線をなぞる。

「すぐに」

 斧神が呟いた。後頭部のあたりがぞわぞわした。
 男が欲情している時の声だった。

「うん」

 うなずいた。
 木漏れ日は暖かく、まぶたの裏に眩しかった。親指が名残惜しげに離れていき、深く息をつく。再び歩き始めたが、二人とも、もう話すことができなかった。
 たまらない。離れた指が、もう恋しい。

 とっくにわかっていた。多くを望んだわけではないと、そう思っていたことが最初から大きな思い違いだったのだ。

 自分が一番欲しいものを決めて、二番め、三番めを選んで、それから要るものといらないもの、捨てるものと残すもの。大事なものと、見捨てても仕方のないもの。誰もがやっている簡単なことが、俺には昔から、ずっと難しかった。
 持ち物を選び分けることができない時点で、俺の勝ちの可能性ははじめからなかったのかもしれない。自分には、無理な話だった。もともと、失くしてしまったものをきっぱり諦められるほど、割りきれる性格でもない。考えてもしょうがないことで、ぐずぐずと長いこと悩んで、要領も悪い。手からすべり落ちたものを、いつまでも忘れることができずに、新しいものを快く受けいれることも下手くそで、窮屈な気持ちでおさまっている。

 順番をつけなくたって、別のものを押し出さなくたって、好きなものは、素直に好きでいいと、なぜそう考えることが難しかったのだろう。好きなものが一つ増えれば、それでいいじゃないか。それによって押し出された何かを、無理に落っことして捨てなくたって、それは俺が決めることじゃないか。大事にしてきたものを奪われることが、怖くて、恐ろしくて、でもそれがどうだっていうんだ。大事な人やものをなくすのは、こわくて当たり前だ。誰もがそれをおそれて、でも、奪われないようにちゃんと大事に持っているのだ。

 すべて捨てるも、拾うも、自分が決めることだ。誰のものさしでも測ることはできない。

 ポツリ、ポツリと、西の空に星が出てきていた。濃紺の空の下を二人で歩いた。いくつかの空き家と、荒れ果てた田畑の前を通り過ぎ、小さな集落の奥にある家を目指して進んだ。
 塀に囲まれた一軒家は、家じゅうが暗闇に包まれ、おそらくは出てきた時のままだった。斧神を支えた姿勢で門をくぐる。男は頭部を低くして、兜をぶつけないようにした。玄関の扉が開け放たれており、玄関前の廊下が見えた。
 足元にサンダルが片方だけ落ちていた。兄貴が俺を連れて出た際に、自分の足から脱げたのだろう。ずっと前のことに思えるが、あれはつい昨日の出来事なのだ。
 家の中に入り、玄関の扉を内側から閉める。家の内は外よりもさらに暗闇が濃い。暗闇に慣れた目で、静かに横開きの扉を手で滑らせながら、外の世界を扉の隙間から盗み見た。
 誰もいなかった。
 扉に鍵をかけると、ガチャリと、重たい鍵の音がする。

 振り向いた俺の体を、背後に立っていた男の力ない両腕が抱きすくめた。手触りで、斧神が兜を脱いでいることがわかった。

「暗い……」

 そう口にしたが、暗闇に慣れていた目は、ちゃんと目の前の男の一つ目を闇の中でも見分けた。夜目にも白い眼球がぬるりと動き、俺を見下ろした。
 斧神がゆっくりと身を屈め、上からかぶさるようにして、崩れた頭部が目を閉じない俺の顔に重なった。
 三和土に抱きあって立った状態で、大きく縦に割れた口と、開けた口をくっつけあわせる。濡れた肉厚な舌が口内いっぱいを埋め尽くし、上あごから、奥歯までを舐め尽くしていく。両腕に抱かれた体が、舌が動くたびに、甘く震えて疼いた。
 言葉は出てこなかった。息だけがあがっていく。俺を抱く男の両腕に、徐々に力が入っていき、大きな身体の内側に抱きこまれるようにして、玄関の扉に背中から押しつけられた。ガシャン、と何度も扉が揺れて音を立てたが、気にしていられる余裕はなかった。
 傷にさわらないよう、斧神の身体に意識して力をかけないようにしているのに、相手が興奮から、俺をこのまま押し倒そうとしているのを感じとり、内心慌てた。キスの合間に、急いで男の名を呼ぶ。口のなかが弄られすぎて、うまく発音が出来ない。

「おのがみ、まて、ちょっと…」

 唾液にまみれた口がまた塞がれ、言いかけた言葉がむなしくも宙に霧散する。扉に押しつけられながら、止まらない激しい口づけに、頭がふわふわして、まともにものが考えられない。男の唾液の味と、舌の感触ばかりを考えてしまう。
 分身たちの息が荒く、下肢に押しつけられる硬い感触に、斧神がかつてないほど欲情にかられていることがわかり、顔が一気に熱くなった。
 着物の下には、失禁で汚れたせいで、下着を身につけておらず、密着した斧神の興奮がありありとわかる。

「おのがみ、斧神、待て」
「ふざけるな待てん」
「だって、ちくしょう、こらっ…」

 顔じゅうをよだれまみれにして悪態をつく俺を、斧神が抱きかかえ、上がり框に引き倒した。上体を起こそうとした俺を、すかさず伸びてきた腕が床に押さえつける。

「あんたの、傷にさわるから、おとなしくしろっていうのに…!」
「それ以上言うなら」

 斧神の手が俺の着物の裾を割った。大きく、熱い手のひらにむき出しの太ももを撫でられ、たまらず脚を閉じようとした。それさえも、斧神が脚の間に腰を割り込ませてきたことによってかなわない。

「この場で、貴様を抱き殺してやる」

 かすれた、低音の声がすぐそばで囁かれ、後頭部がぞわぞわした。目に涙が滲んだ。
 とろけた唇に、上から勢いよくかぶりつかれる。

 口づけを交わしすぎて、口の間で唾液が白く泡立つほどだった。互いの唇を貪りあいつつ、真っ暗な廊下の床で絡みあい、ひとかたまりの肉塊のようになって交わった。
 巨体にのしかかられ、雄の動きで腰を打ち込まれる、そのたびに、快感と痺れが下腹を突き上げた。

「あッ、あッ、ひ、ぅっ」

 斧神が腰を打ちつける度に、自分の声と、肉がぶつかる乾いた音、二本の陰茎がこすれあい、斧神の手の中ですべり合う音が響いて、耳まで犯されている気がした。男のごつごつとした指が、まとめて握る互いの陰茎を、淫らな手つきでこすりあわせた。

「それ、ぁッ、やだ、やるなッ…」

 こすられながら、斧神が腰を前後に動かし始めると、泣き声が口から出た。過ぎた快楽が、甘い蜜となって身体からもれでているようで、自分の身体じゅうからおかしな匂いが立ちのぼっているような気がする。
 斧神が押しつけるようにして腰を深く動かした。陰茎が互いの肉体で押しつぶされ、竿がこすれあい、ヌチャヌチャと音を立てるのに、桃色の快感が頭のなかを埋め尽くす。

「んうぅ…ッ!」

 たまらず、斧神の腰に開いた両脚を強く巻きつけた。

「おのがみぃっ…」

 男の名を呼ぶ自分の声が、自分のものじゃないみたいに甘い。
 密着した下半身を、さらに速いペースで揺さぶられ、床の上で上下に体が動いた。あえぎ声を抑えることができなかった。

「頼むから、煽ってくれるな…!」

 男が獣のようなうなり声を発し、密着した下半身を一層激しく揺さぶった。二本の陰茎をしごき上げる手に力がこもり、性急な動きで雄同士を射精へ導こうとする斧神に、腰に巻きつけた両脚をきつく締め、しがみつく。

「もっと、もっとッ…して…っ」

 斧神が全体重をかける勢いで、腰をこちらの下肢に叩きつけた。先走りで濡れそぼった大きさの違う陰茎が、互いの脚のあいだで、ビクビクと熱く脈打った瞬間を感じた。
 射精したのは、ほとんど二人同時だった。

 勢いよく吐き出された二人分の精子は、かなりの量が俺の腹の上で飛び散り、空間に青くさい性のにおいをまき散らしていた。
 緩やかに身を起こした斧神が、大きな一つ目を、パチリと瞬きさせた。サポーターを手で押さえていた。体に巻かれたはずの包帯は、血で真っ赤なのではないかとも思える。傷がどこかからひらいているに違いない。
 俺はといえば、度を超えた快感に、脚が小刻みに痙攣し、床の上から仰向けのまま動けなかった。まだ快感の余韻が、身体のなかで熱く燃え、下肢は使いものにならないほどにトロトロにとけている。
 暗闇のなか、廊下の空間にはむせかえるほどの性のにおいが充満しており、達したはずなのに、また頭が変になりそうな感じがする。
 斧神が俺を見下ろし、震える脚にその手で触れた。ビクン、と身体が勝手に跳ねる。

「イッた、ばっかだから…」

 触らないでくれと言葉の裏にひそませたつもりが、男の手は、信じられないことに、俺の乱れきった着物から勝手に帯を抜き取った。あっという間だった。
 わけもわからず、斧神を見上げた。見つめあう白い一つ目が、俺を見て、すうっと斜めに細められる。いやらしげな、絶対に「この」時間にしか見せない、あのいつもの目だ。
 何をされるか、気づいても離れるのが遅い。

「ふ、ふざけんな、おまえ、この、バカッ!」

 力の入らない足で斧神の足を蹴とばそうとした。その足を掴まれ、おそろしいことに、また男の下へと引きずり込まれる。

「もう終わりに決まってんだろ!傷が、ひらいてるんだぞっ」
「そう大声を出されると、よけいに響く」
「ざっけんな…」

 かろうじて衣服をまとっている状態から、まったくの裸に剥かれ、脚を閉じさせられる。暴れる俺を押さえつけ、斧神が俺の両脚をまとめて片腕一本で抱えた。まるで赤子のように、閉じた腿の裏と、尻を男の前に晒すことになる。
 今からされることを思い出し、とうに骨抜きにされた身体が、内側から燃やすように体温を上げた。
 慌てて口にした。

「俺はもう、明日にはあんたの仲間になっているんだ」

 硬く勃ちあがりはじめた、巨大な陰茎の先端が、先ほど散々なぶられたそこに、ぬちゅ、と押しつけられる。たまらず、声がもれた。快楽に溺れた身体が、期待に甘く痺れ、もう離れた相手を欲しがっているのだ。
 腰を揺らしたくなる衝動と戦いつつ、斧神を見上げた。親友は、欲情に染まりきった目をしていながら、どこか静かで、落ち着いた瞳をしている。

「今焦らなくたって、いつでも、お前と逢える機会なんか、」
「そんなものはない」

 斧神が答えた。
 その目を見つめ続けた。

「……何で」

 俺が尋ねた。斧神も、俺のことを見つめ続けた。
 斧神が身を屈め、俺の顔のすぐ近くまで、瞳を寄せた。

「俺が、お前を愛しているからだ」

 目を見開いた。瞳が瞬きをした。

「…答えに、なってない……ッ」

 言葉を発している最中に、胸を反らして後ろにのけぞった。
 両脚の間に、斧神の膨れ上がった陰茎がずっぷりと突き刺され、腿の肉をかき分け、押し進んでいく。