何もなかったことにはならない。どれ一つ、無意味にはならない。なるわけがない。心を燃やし、想いを交しあった日々が、最後には何もかも消えて無くなる、そんな悲しい話はない。
十字に光る星屑はいつまででも俺のことを見ていた。星屑は、俺の好きな男のかたちをしている。
「そんなにっ、こするなぁッ…ぁっあぁッ」
「ふッ、フゥッ」
「ンァっ、あっ、あっん!」
揺すられる動きにあわせ、開きっぱなしの口から嬌声があふれ出し、汗をかいた背中が床とこすれて滑った。斧神の舌が、抱えた俺の脚にべろりと舌を這わせる。舐めながら、男が喉奥で笑う。
「お前の、汗の味が」
「や、やだっ、あッ、っ」
熱い舌の感触に、たまらず目をぎゅっとつむった。
俺のふくらはぎの裏を咥えつつ、抱えた両脚に向け、斧神が突き出した腰を小刻みに揺らした。両脚のあいだから先端をのぞかせた男の巨大な陰茎が、とろけきった股間を、動きにあわせてしつこくこすり上げた。
泣き声をもらし、のけ反る。
のけ反った体を片手で押さえつけられ、斧神がそのままの体勢で腰を揺すった。
「そんな、しないでぇっ…」
舌がうまく回らない。強い快感に、自分が雄であることを忘れてしまいそうになる。今にも脳みそがとろけて、耳からこぼれ出そうだ。
腿のあいだ、擬似的な肉の穴に入ってくる男の陰茎は硬くそそり立ち、熱く充血していて、かき分ける太ももの間の接合部からは暗闇にもわかるほどの湯気が立っていた。腿の肉を貫かれる感触が、重たくて、火傷しそうに熱くて、もう、たまらない。
「素直に、好きだと、言ったらどうなんだ」
荒い息づかいで、斧神が囁く。
陰嚢の裏を相手の竿で執拗にこすられ、身悶えして腰を揺すった。閉じられた股を、逃げようとする身体の反応から無意識にすり合わせる。わざとではないのに、腿のあいだに挟んだ陰茎が、こすられてヌチュヌチュと音を立てるのに、斧神が抑え気味の息を吐くのがわかった。
頬が熱かった。
「そんなの、言えるか…っ、ちくしょう…」
行為の匂いと、血の香り、それにくわえて斧神の体臭が、自分の鼻をおかしくしている。全身が火照り、熱が出た時みたいに、頭が重たい。
それなのに、快感だけが鮮明で、下半身が甘く痺れて、自分じゃどうにもいうことをきかない。
涙で滲む視界で、こちらを見下ろす男を見上げた。頭部の中心の瞳が、同じぐらいとけた視線で、俺の表情を見つめている。
欲しくて、欲しくて、こんなにたまらないのに。
「…卑怯な男だ」
斧神が呟いた。目に溜まった涙が、瞬きでこぼれ落ちても、男のことを見上げ続けた。
「そんな目をして、男を見るな」
大きな手が頬に触れ、汗で湿った髪に差し込まれる。
「そんなの、あんただけだ」
つばを飲み込む音が聞こえた。目玉が俺の顔を凝視した。
「あんただけだ…っ」
斧神が俺の口にしゃぶりつき、声をまとめて喉奥に吸いあげた。男の肩にしがみついた。うめきながら、斧神が上体を倒して腰を前後に揺すり、陰茎を濡れた股間に激しく抜き挿しした。折りたたまれた両脚が巨体に押しつぶされ、腰が叩きつけられるのとあわせて、がくがくと揺れる。
「んッ、んっ、ンぅッ、ンッ」
あごまで相手の口のなかにおさめられ、言葉を奪われ、股間をめちゃくちゃに突き上げられる。間隔をおかずに襲いくる強烈な快感に、どうすることもできず、涙を流して必死にキスの合間に酸素を取りこんだ。
肉厚な舌が上あごを舐め、唾液を吸いとり、喉の奥までをも侵そうとする。口内すべてを味わい尽くそうと、貪欲に動く舌に、揺さぶられる下肢が痙攣した。
俺が達している間も、男の腰の動きが止まらない。
無理やり口を離し、回らない舌でうったえる。
「おのがみ、ぁんっ、あっ、まって、まてっ…」
「待て、待てばかりだ、お前は、まったく!」
「あうぅっ!」
ずぱんっ、と勢いをつけて腰を打たれ、さけび声が口から出た。
力が入らず、開きかけていた脚をふたたび抱えなおされ、斧神が挿入を深くする。達してすぐの敏感な性器を、同じ男の性器によって上下の動きで責められ続け、胸を反らして腰をよじらせた。
「やっ、やらっ、アッ、ぁんッ!あんんッ」
廊下の暗闇に、ゆさゆさと揺れる動物の動きにあわせ、淫らな濡れた音が響き渡り、それが耳を塞ぎたくなるほどひどい。
あえぎ声が止まらず、生理的な涙を流しているのに、体は斧神の動きにつられて腰を浮かせ、より一層相手の雄で股間を突いてもらおうとしていた。誘っているみたいに、意識せず腰が浅ましくくねる。
それを見逃さなかった斧神に、息も荒く腰を叩きつけられる。
「〜〜〜ッ」
男の亀頭が、先走りを散らし、横から縦からと、睾丸と肛門のあいだを執拗にすりあげた。
ガチガチに膨れ上がった雄の、雌を孕ませるための動きに、こらきれず、夢中で腰を振りたくった。
「んやッ、やっおの、がみっ、ぃやッ、そこっ、」
「これを、忘れるな、これだ、わかるな」
「アッあぅ、あぁッ、やっ、やらぁっ」
耐えきれずに、泣きじゃくり、脚を抱く斧神の腕を片手で引っ掻いた。斧神がその手を振り払い、上体をさらに倒して、俺の体をきつく抱きしめた。
密着し、互いが一つの肉の塊と化す。
「お前の、からだで、おぼえているんだ」
斧神が吼えた。
兄が噛みちぎった肩の傷口の上から、男が大きくがぶりと噛みついた。
口が開き、声にならない叫びが喉を震わせた。
「ーーー」
悶える俺を力ずくで押さえつけ、斧神は吸血をしながら、腰を二度、三度と、強く打ちつけた。
「っあ、っあ、ぁ…」
うめき声ももらさず、男が全身を震わせた。
頭が真っ白になる。
強くにじんだ血を吸われる快感に、甘くとろけた陰茎から、男に遅れて今晩いく度目かの精を吐き出した。射精しながら、うわごとのような「好き」を繰り返している。
両脚のあいだから突き出た陰茎の先端から、勢いよくあふれ出した精子が、胸の方まで飛び散って、べっとりと鎖骨を濡らしていた。
精液は濃く、むせ返るような雄の匂いがした。
斧神という男とはじめて出会った時、俺は目の前の男に対し、たしかいろんな驚きを感じた気がするが、その中の一つに、なんて大きな男なんだろう、という驚きがあった。
俺たちは敵同士で、初対面だったが、刀を構えつつ、師匠と同じくらいの背丈だ、と一瞬思った。そしてこうも思った。これだけ図体が大きければ、我が師と同じで、きっと日常の動作はさぞ不便であるだろうな、そんな場違いな思いを抱き、俺は山羊の頭をかぶった不審な吸血鬼の全身を見ていた。
どうも、変わった男だとも思った気がする。
長い時間をかけて高ぶった神経を落ち着かせても、腰がくだけて、しばらくのあいだ立つことができなかった。
「このままでいい」
耳元で斧神が囁いた。
廊下じゅうに血の匂いがしていた。おそらく斧神の傷が開き、傷口から血を流しているのだと思った。気づいていても、男は何も言わずに、ただ黙って俺の裸の体を抱いている。
床にあぐらをかいて座る斧神の膝に抱かれて座っていると、男のやわらかくなった陰茎が自分の尻に当たる感触がする。体が大きい男は一つ一つのパーツがでかいもんなんだな、と出会った頃のことをぼんやりとした頭で思い出しながら、一人胸の中で呟いた。その品のない言い回しに、なんとなくそれがおかしくなって、次第に口もとを緩めた。
「何だ」
一人でにやにやしている俺に気づいた斧神が、俺の頭のてっぺんに口をつけた。汗で湿った体が、秋の夜の冷えこみに冷たくなりはじめていて、斧神が俺の体を腕の中に抱えるようにして抱いた。
力強く、たくましい腕をしている。この腕が斧を振るい、人間も吸血鬼も邪鬼も邪魔するものは躊躇わず、片っ端からたたっ殺していくのだ。
腕の中でごそごそと体勢を変え、斧神に正面から向き合った。暗闇の下で、頭部を見上げ、男の口を触った。
男はされるがまま、俺を抱いている。
「死ぬのか」
尋ねた。くたびれ、静かに眠っている分身たちを起こさないように、小さな声で聞いた。
「もう死ぬのか」
斧神を見つめた。
頭部の中心の眼球が、重たげなまぶたのすき間から、俺の顔を見下ろしていた。目玉の白い部分が、わずかな水分で濡れている。
「斧神」
体を伸ばし、男の頭部のすぐそばで囁いた。
斧神が身をかがめ、俺の唇にキスをした。離れては、くっついてを、何度か繰り返した。
名残惜しそうに離れようとした口を追いかけ、こちらから口づける。
口を触れ合わせたまま、斧神の手が俺の背中をゆっくりと撫でた。
「死なん」
男が呟いた。
もう一度、互いの温かい口内を味わって、顔を離した。至近距離から、斧神の目を見つめた。
俺を見返し、男が目を細めた。
「これでは、死ねん」
持ち上がった大きな手に頰を撫でられ、自然とまぶたを閉じた。かたい手のひらに、自分の片頬をすりつける。
温かい手が優しい手つきで、俺の頬を何度も撫でる。
「死にきれんだろうが」
そう言った斧神の声は笑みを含んでいた。
ゆるゆると、目を開け、愛する男の顔を眺めた。崩れた肉や、めくれた皮のすき間からのぞく眼、触れたことのない場所は、たぶんもうない。暗闇にも、目の前の親しい吸血鬼が笑っていることが自分にはわかった。おそらくそれであっていた。
耳の後ろの髪をくすぐるように梳かれ、笑い声をもらした。
「なら、いい」
縁側から見る庭の菜園は夏に蒔いた種が育ち、不格好でもささやかな、緑の目立つ畑としての形になっていた。
居間からの明かりが暗い庭の地面を照らし出す。ここで育てたものをまだ口にできたことはなかったが、きっと食べられるほどにはうまく育たないだろう。なぜそう思うのかはわからなかった。
確認することができない。その事だけがちょっとした心残りだ。誰も何も言わなかった。それでも、もうこの家に戻ってくることはかなわないということを、雅との会話から感じとっていた。
汚れた体を清め、男の包帯を新しくし、押し入れから一番分厚い上掛けをひっぱり出した。家じゅうの窓と戸を閉め切り、男の傷口を上掛けで覆い、男の腕に抱かれて眠った。話すことは何もなかった。もうずいぶんと、互いに色んな話をした。
家の中は静かで、どの部屋の空気も俺たちがここに二人きりであることを知っている。知らない誰かの家なのに、まるで何年も前から暮らしてきたような感じがした。
壁も、床も、この家全部が自分にとって檻だった。目の前の男がつくり上げた、出られない温かい檻。
乾いた大きな手が、俺のうなじをさすり、後ろ髪をかき分ける。
斧神の腕の中は暖かくて、居心地がいい。犬のように背中を丸め、血の匂いがする胸で、嗅ぎなれた男の体臭を胸いっぱいに吸いこみ、何も言わずに目を閉じた。
すべて枯らすことを考えたら、つらい気持ちになる。わかっていた。今はもう、何もかも無駄なことだとは感じない。
黒い夜空を見上げる。無数に散らばった星がはるか遠くで孤独に輝きを放っている。誰が見ていなくても、誰もそばにいなくとも、光はさびしく、明るかった。なん億光年と離れている光。ほうり投げたダイアのかけら。生きているかぎり、どこにいても見つけられる。そう思えば少しはさみしい気持ちも薄れて楽になった。
ここにいても、どこにいても、光は変わらずそこにある。誰かの夜空で光っている。
(「明」)
目を開けた。
指一つ動かさずに、上掛けにくるまったまま、目だけを動かしてあたりを見回した。部屋は真っ暗で、寒く、一瞬自分がどこにいるのかがわからなかった。
まだ醒めきっていなかった頭が急速にハッキリしてくる。斧神の姿が見えなかった。
起き上がろうとして、いやに体が重たいことに気づき、見ると、出してある上掛けや布団がすべて自分の上にかけられている。温かい布団の中から抜け出し、四つん這いで居間へと向かった。
「…斧神?」
恐る恐る、暗闇の中へと呼びかける。
「ここにいる」
思った以上に近くから声が聞こえ、ホッとした。その場に座り込み、暗闇に目が慣れるまで、じっとしていた。
「電気ぐらいつけたらどうだ」
周りを見回しつつ言った。手を下に置き、指先で畳を触る。
斧神がごそごそと動いて、何かをしているのはわかった。どうやらこの物音で目を覚ましたらしい。
「つけたらまずい」
「?」
「まあ待て。そこにいろ」
男が言い、なにやら何かをひっくり返す動きをしている。ほこりっぽい風が立ち、思わず咳をした。顔の前でパタパタと手を振る。ほこりくさい。
「咳はするな」
「ふざけんなよ、やめてくれよ」
「あっちへいってろ」
「やだね」
斧神がいつもの、呆れたような、子どもを前にしたような、なんともいえないあの空気を出したので、くつくつと声をこらえて笑った。
暗闇の中から手を伸ばされ、慌てて避ける。
「わかったよ。怒るな」
焦る俺の声に、男がめずらしく忍び笑いをもらした。仕方がないので、寝間着がわりのトレーナーの袖で口もとを覆い、おとなしくその場に座って待った。
目が慣れてくると、だんだんと斧神が何をしているかが見えてくる。
「何だそれ」
斧神は居間の畳をひっくり返し、その下の床板をはがしていた。電気もつけず、雨戸まで閉めきっている為、暗くわかりづらいが、なんとなくそれが見える。床下に何かがある。
床の下に両手を入れ、斧神がその物を取り出した。横の畳の上にそれを置いた。
「…?」
それは大きな葛籠だった。あの、日本むかし話なんかで出てくるような、蔓で編まれた箱形のかごだ。
斧神の方を窺った。山羊の兜を身につけており、葛籠を見ていた。
「開けてみろ」
目の前の男が言った。抑揚のない声で、普段どおりに落ち着いていた。
穴に落ちないよう、気をつけて四つん這いで前へ進んだ。部屋の空気と寒さで、まだ夜が明けていないことがわかる。
葛籠を挟んで、斧神と向かい合う。言われた通りに、葛籠の蓋を両手で持ち上げた。
「……!」
とっさにかごに入れた手で触って確かめる。
なかに入っていたのは刀と、捕まった時に取り上げられたはずの、本土から着てきた俺の服と靴だ。
服を持ったまま、呆然と男を見た。
「捨てたんじゃなかったのか…」
呟いた。とうに捨てられていると思っていた。
数ヶ月ぶりに見る自分の服は、鉄扇で斬られたあたりが裂け、汚らしくみっともない有様だったが、血はきれいにおとされていた。靴を見ると、ひどく懐かしい気持ちにかられ、それを履いて出てきた日のことまで鮮明に思い出せた。
「保管を命じられていた」
ゆったりとした態度で、斧神が俺の様子を眺めて言った。信じられない思いで、日本刀に触れた。鞘をつかむ手が震えていた。
久しぶりに握る刀は、驚くほど自分の手に馴染む。
「…いいのか?」
刀をつかんだ姿勢で、斧神の方をちらっと見た。
斧神は武器も持たず、俺の前に座っている。どんな時もあの巨大斧を目の前の男は持ち歩いていた。あれを持ってこられるような状態でもなかったことは、自分が一番よく知っている。この男は丸腰の状態で俺に刀をもたせたのだ。
山羊の鼻をもたげ、獣の無感情な眼が俺へと向いた。
「よくはない」
落ち着いた、低く耳に心地のよい声で、斧神がかすかに喉を鳴らした。
笑ったのだ。
「お前を逃がすのだ。いいわけがなかろう」
斧神が言った。
刀と服を胸に抱え、絶句する俺の胸を、男の手が軽く押した。
「着替えろ」
「お、斧神」
「夜明け前に出なければ」
暗がりで、男と見つめ合う。
「お前の兄が迎えに来てしまう。ここに」
(「……俺のこと、待てるな?」)
はじかれたように立ち上がり、寝室へと戻った。
大急ぎで今着ている寝間着を脱ぎ、つまづきながら、自分の衣服を身につける。上着に隠れるように刀を背中に差し、靴を手に持って、居間を横切った。
斧神が三和土に立っていた。玄関の鍵を、これ以上静かに開けるのは難しいぐらいに、音も立てずに開けた。
大きな手が後ろ手に、近寄ってきた俺の体を確認するように触る。
「ここから出て大丈夫か」
靴を履きつつ、不安から尋ねる。いくら夜が明けていないとはいえ、正面から逃げるとは、あまりにも大胆すぎるのではないだろうか。
山羊の兜の鼻が、すり、と俺の顔をこすった。
「見張りは気にするな」
斧神が囁く。
「監視役がそばにいる。何も不思議じゃない」
山羊の鼻先に手を添え、獣の鼻の頭にキスをする。唇を離して、にやりとした。
「何だよ、やっぱり監視だったんじゃないか」
「ハッハッハ」
肩を揺らし、大男は笑った。心からおかしいと思っている笑い声で、慌てて唇の前に人差し指を立てた。
大きな手が俺の頭の上に置かれ、髪の毛をぐしゃぐしゃにした。
「犬の世話係だったな」
「ああ、そうだよお犬様だ」
面白がっている声に、その手を振り払い、斧神の体にこちらから抱きついた。抱き返される前に、すぐに離れる。
玄関の扉に手をかけ、出ようとした俺の顔を、節くれだった手が振り向かせ、触れるだけの口づけが唇をさらった。
一瞬だけ持ち上げた山羊の兜をもとどおりに戻し、斧神が玄関の引き戸を慎重に開けた。
「門をくぐった後は歩いて屋敷の方角へ向かえ」
囁かれる言葉にうなずく。
「俺が声をかけたら走れ」
斧神が言った。もう一度うなずいた。
敷居の内側から見た外は暗く、夜の空気が青みがかっており、静かで、吹く風が頬に冷たかった。寒さが空気中の汚れをすべて落としたような、清潔な生まれたての匂いがする。
夜が明けるまではまだ時間がある。
「わかった」
足を踏み出して家の外に出る。
斧神と前後に並び、門までの飛び石を踏んで歩いた。草履でも裸足でもない、履き慣れた靴の感触が歩きやすかった。
男が先に身をかがめて門をくぐった。その後に続く。
東の空にひときわ光る星が見えている。
「さあ、行け」
背後で男が言った。
こうやって二人走っていると、出会った頃のことばかりを思い出す。
あの洞穴の中で手を取り合った時や、守り守られたこと。同じ暗闇を過ごし、自身のことについて互いに語り合った時間。かぶり物の下から現れた崩れた頭部と透きとおった眼。
見張りの目が届かなくなるあたりまでやってくると、屋敷への道を外れ、斧神が前を行く形で走り始めた。その後をついていった。一晩の間にずいぶんと動けるようになった男の回復力は凄まじく、むしろ俺の方が早々に息切れを起こす始末だった。
「止まるんじゃないぞ」
険しい山道で荒い呼吸をし始めた俺に、前を走る斧神が言う。
「話しかけんな」
足を止めずに言い返す。本当に、驚くほど筋肉が落ちているのだ。この島に来たばかりの頃とまではいかないが、これでは師匠に張り手を食らった途端、簡単に自分の体は吹っ飛ぶだろう。
夜の闇を駆け抜けながら、師匠や、仲間たちの姿を頭の中で思い描いた。こんなに会わなくたって、はっきりと思い出せる。
会いたい。顔が見たい。そう思ったら、ただでさえ苦しい胸が詰まって、心臓が激しく鼓動した。
あの人たちのもとへ帰らなければ。俺がいた場所へ、俺を探す人たちのもとへ。
雑木林を抜け、足場の悪いあぜ道を駆け、また別の山道を走り抜けた。頭上の空の闇が薄れてきて、淡く薄めた水色のような空になってきていた。
夜明けが近いらしい。
「急げ、明」
吐き出した息が真っ白で、向かい風で顔じゅうが冷たくて、凍えた指先がかじかんで感覚がない。
それでも走ることをやめることはできない。
「わか、ってる、って!」
風が吹く先に。日が昇る先に。俺が帰るべき場所がある。
斧神が立ち止まった時、まさにその瞬間、「もう限界」だと口走ってしまいそうなところだった。息も絶え絶えにその場に崩れ落ちそうな勢いの俺の胸を、伸びてきた男の手が支えた。息を吸って吐いての、当たり前の動きがたまらなく苦しい。
両膝に手をついて、ぜえぜえと胸を上下させる。
「明」
名前を呼ばれ、顔を上げた。
白み始めた空を背に、男が俺を見下ろしており、山羊の眼がこちらを見つめていた。
「この先はお前一人だ」
斧神が言った。
「あとはひたすら、直線で走ればいい」
大きな手が俺の体から離れていき、男が上体を起こした。首を動かし、つられてその姿を見上げた。
息を切らしてはいるが、俺ほどではない。包帯にふたたび血を滲ませているが、死ぬほどではない。
視線を足元に落とす。雫が、こぼれないようにこらえる。
死なない。こいつは、死なない。少なくとも今この傷では。
息をなんとか落ち着かせ、地面に視線を向けた姿勢のまま、笑った。よかった。
(生きている)
生きられる。またいつか、どこかで命が尽きるまで。
「あんたが、死んだら」
息を切らして、言葉を紡ぐ。
「俺は泣くぞ」
斧神が俺を見た。獣の頭を見返す。
「絶対に、泣くからな」
自分たちが立っているのは、ひらけた土地の、もう今は使われていない様子の田圃の真ん中あたりで、周りではほとんど音がしなかった。右手側に水路があったが、水は一筋も流れていないようで、風も止まっていた。
高い場所を何羽かの鳥が飛んでいた。いくつかの小さな影が、活発な様子で白い空を横切っていく。
「どうして」
言いかけた言葉を続けられずに、男を見つめ続けた。山羊の鼻は俺に向いていた。
「どうして逃がす気になった」
男は静かにその場に立ち尽くしていた。
体の大きな男だった。もともと無口だと感じていたのは、本当は少し違っていて、面と向かってきけば俺に自分の考えを口にし、語ることもした。つきあってみれば思ったほど堅苦しい性格ではなく、思っていたよりも、四角四面でもなかった。
最初は、自分の体を触らせることを嫌い、俺が触れることも嫌がった。他人と自分とが触れ合うことが、それはそれは奴にとって恐ろしいものであるらしかった。
男は自分の姿に誇りを持ちながら、自分の身体を厭う感情を同じだけ腹の中に抱えていた。どちらも、男にとっては命よりも大事なものだった。
「ずっと、お前を吸血鬼にするべきだと思っていた」
斧神が言った。
「…」
「今でも、同じ考えだ」
重たいカーテンを引くように、薄青い夜が徐々に太陽に押しやられ、東の空が緩やかに、だが確実に明るくなっていく。
「同じ志のもとに、進むことができるならば、そうでありたい」
上体を起こして、ふらつく足で背筋を伸ばした。呼吸をする度に口から白くこぼれる息が、顔の前で薄れては、消える。
「お前がこちら側へつけば、きっと退屈しない」
その時、男の全身から力が抜けるのがわかった。
はりつめた筋肉が緩み、一切の殺意も失い、俺のことを見ていた。
「分かっている」
男が続けた。
目の前にいるのは丸腰の、平凡な一人の吸血鬼だった。
『名前』をもらう前の、自分と出会う前の、さかのぼれば吸血鬼となる前の、すべて剥ぎ取った後に残った誰かがいる。
「それでもお前を渡したくない」
山の陰から一筋の光が伸びた。光線が互いの表情を照らし出した。
まぶしい光の道。
朝。
「…あんたは、矛盾だらけだ」
かぶり物の下からの、穏やかな視線を感じていた。
それきり、正面に立つ男を見つめ続けた。
白く、まばゆい太陽の光が、あっという間に夜を振り払う。夜を越えて、新しい朝を迎え入れる。
(いつも、そうやって、大事なことは何一つ言わないくせに)
過ごした数えきれない夜がある。時間がある。日々がある。
どれ一つ欠けても、ここに行き着かなかった。
この朝には、たどり着けなかった。
「知っている」
斧神が言った。その声を聞いた瞬間に、目に涙があふれた。こぼさないように上を向こうとしたが、少しでも男の姿を見ていたくて、そうしなかった。
「バカ野郎…」
山羊のかぶり物が揺れ、男が肩を揺らして笑った。男を罵りながら、涙を流した。
朝日が山の陰から顔を出す。太陽が真っ白に輝き、田圃やあぜ道はまばゆい光を浴びて、世界の何もかもが非常にゆっくりと澄んだ光に照らし出されていく、それを二人で眺めていた。
冷たい風が吹き、伸びた髪をさらった。嫌味なくらいに清々しい朝の匂いがする。
俺だけが刀を手に持っていた。涙も鼻水も出尽くし、空っぽになった体に最後に残ったのは、帰るところと、男を好きだという気持ちだけだった。
刀の鞘を握りしめ、緩やかに息を吐いた。
行くべき場所へ行かなければならない。
「どのような罰も受ける」
斧神が言った。息を吸い込んだら、肺を冷えた空気が満たした。
「斧神」
名前を呼んだ。男が俺を見た。
胸が見えない何かに締めつけられているように、呼吸がしづらい。
「もう泣くな」
斧神が言った。
かぶり物を身につけているにもかかわらず、俺には、相手が笑っていることがわかった。頭部の中心の大きな目を、いつものように細めて、これ以上ないほどに優しい目をしているだろうことを知っていた。
「お前の泣き顔は、こたえる」
そう言って、俺から視線を外し、また朝日の方へと顔を向ける。
その横顔を見つめた。見慣れた山羊の兜を、目に焼き付けるようにして、見つめ続けた。
東の空を満たす色は白と金色。燃えさかる太陽が秋を告げる。これからあと何億見る夜明けより、こんなに綺麗な朝は、もうこない。目にすることも、もうない。
「行け。明」
斧神が言った。うなずいた。
刀を持ち直し、言われた方角へと走り出した。別れは告げなかった。振り向くことも、しなかった。
あんたを好きだという感情が、自分のからだと混ざって、胸が熱い。かなしかった何もかもが全部、くずれて、体の中で砂粒になる。
この話の続きを、俺は読みたくはない。もう二度と、ページをめくることもないだろう。この話は、ここでおしまい。ここで、さよなら。
あんたは笑ってくれるだろうか。
小説にするとしたら、この話は恋愛小説だ。
+
真っ先に亮介が隠れ家の外に飛び出していった。その後に続き、ざわめく人々の間を幼なじみと走り抜ける。
転げそうになりながらも、落ちそうになる眼鏡を押し上げ、これ以上ないほど速く走った。隣を駆ける、普段は底抜けに陽気な幼なじみが、今にも泣きそうな顔をしている。自分も同じような表情でいるに違いなかった。
隠れ家じゅうの人間が慌てふためき、その報せに動揺し、混乱していた。中には泣き出しているものもいた。深夜と言える時刻であるにもかかわらず、誰もが居住スペースから出てきており、ささやかな松明の光があちこちで燃やされていた。人々の中に、彼を捜し続けてきたその人の姿を探したが、見つけられなかった。
集落のすぐ外に、大勢の人が群がり集まって、黒山のようになっているところがある。幼なじみと一緒に声を出し、人だかりをかき分け、進んだ。
「頼む、通してくれ」
人だかりの中心に向かって、村人を押しのけ、誰かの足を踏んづけ、踏んづけられ、もつれる足で前進する。
「どいてくれ」
自分の声が泣き声になっているのがわかった。視界がぼやけて、歪み、人の姿が全部ひとかたまりの黒い影に見える。
つまづいて、人にぶつかった。その勢いで、人だかりの中心に転げ出た。慌てて立ち上がった。
ひらけた空間があった。
何人かが灯りを手に持ち、ぼんやりとしたオレンジ色の明かりが足元を照らしていた。人だかりの中心に何かを囲むようにして輪ができており、その真ん中に師匠がいた。すぐ傍に亮介がいた。座る師匠の腕の中に、男がいた。
「明!!」
師匠の腕に飛びついた。幼なじみの名前を叫び、その体を揺さぶった。泣いていた。言葉にならない声が出た。
「落ち着かんか」
取り乱す俺を片手で制し、師匠が言った。野太い声が静かに、夜の暗がりに穏やかに響いた。仮面の下の目が腕に抱えた男の顔を、しばらくの間見つめていた。
泣きじゃくる加藤と、目を真っ赤にした亮介、情けない嗚咽をこぼす俺を順番に見た後に、師匠が周りを囲む村人達を見回した。
「生きておる。死んではおらん」
そう言って、大きな手が明の額に置かれた。
「疲れ果てて、眠っておるのだ」
ぼろぼろの衣服を纏い、手につかんだ刀を固く離さないまま、目を閉じ、かすかな寝息を立てて幼なじみは眠っていた。心臓が動いて、息を吸って、吐いてを繰り返し、弱っていながらも、確かに生きようとしていた。
死んじゃいなかった。
生きている。
「生きておる」
師匠が呟いた。
亮介がその場に泣き崩れた。人だかりの中からすすり泣く声が聞こえ始め、次第にその数が増えていった。
「よく帰ってきた。明」
地面に手をつき、まぶたを閉じた幼なじみの前で泣き続けた。仮面の下をつたい落ちた涙が、眠る明の頬を濡らした。人々のむせび泣く声が満ちる夜の闇に、その寝顔は安らかだった。
喜びもかなしみも、すべてが溶けて一つになる。
その愛に、報いる。
2017.1.8