※注意
・篤、斧神生存ルート
・篤、斧神ともに交戦済み設定
・明が吸血鬼軍に捕まって雅に飼われています(本土未上陸)
・蚊は本土にばら撒かれませんでした
・明の右手も健在
・師匠は邪鬼になっていません
・腐女子の妄想、捏造、何でも許せる方向け
はじめに聞いたのは雨の音だった。気がつくと布団の上に寝かされており、あたりが暗く、ザアザアと雨が降る音がしていた。ぼんやりとここしばらく見慣れた天井を見上げていた。今が何時か、自分は倒れたのだろうかと考え、頭が鈍く痛んだ。泣き疲れたように目が重たい。
枕に乗った首を動かし、寝室を見回した。部屋の薄暗さから今が日没後かと当たりをつけたが、雨が降っていてたんに外が暗いのかもしれなかった。立て付けの悪い硝子戸の窓が開いている。だから雨の音がよく聞こえるのだ。部屋の反対側を見ると、襖が少し開いていて、そこから細く光が漏れていた。
畳の上に伸びるその細い光を、黙ってじっと見続けた。光は畳の上を通って、俺が横になっている布団に射しかかっていた。柔らかい電球の色をしている。体にかけられた肌掛けをめくり、のろのろと上半身を起こした。倒れた時にぶつけたのか、肘が少し痛む。
枕元に水差しとグラスが置かれていた。盆に乗ったそれを、一体誰が用意したのかなど一目瞭然だったが、そういったことを想像したくはない。親指で寝起きの目頭をこすった。眠気はなかったが、また横になろうかと思った。手の平で顔を覆った。
光の線がふっと動き、襖が静かに開いた。顔を上げる。逆光に照らされた山羊のシルエットが、のそりと布団の上に影を伸ばした。斧神が座った状態で、部屋の敷居のすぐそばにいた。
「起きたか」
斧神の背後から声がした。その声の主が誰のものか、俺にはすぐにわかってしまった。山羊のかぶり物が俺から視線を外さないまま黙ってうなずき、音を立てずに襖を開け切った。部屋の中が明るく照らし出され、眩しさに目を眇める。
「久しぶりだな」
雨はどしゃ降りといっていいほどに強くなっていて、襖とは反対側の窓から雨粒がばたばたと部屋に入り込んでいる。雨が起こす風に乗って濡れた草のにおいがした。
雅は縁側の板張りにあぐらをかいて座っており、俺の方へ体を向けていた。濡れないように、外側の硝子戸を閉め切っているようだ。以前目にした時と変わらない、この時期には暑苦しそうないつものタキシード姿だった。
雅が微笑む。
「ひどい顔だな」
「……」
「斧神、水を飲ませてやれ」
「はい」
パッと斧神を見上げた。立ち上がった斧神が寝室に入ってくる。肌掛けを蹴とばし、布団の上を四つん這いの体勢で斧神とは逆方向に逃げた。部屋の隅は明かりが行き届かず薄暗い。その首根っこを後ろから掴まれる。ぐえ、と声が出た。
「優しく飲ませてやれ」
「存じてます」
片手で首を鷲掴みにされ、そのまま力ずくで布団に押さえつけられる。両手両足を使って暴れるも、ビクともしない。
上の方で、トッ、トッ、と水を注ぐ音がした。顔を動かす。盆の上から水挿しがなくなっていた。しかし、グラスは空の状態で残っている。その意味を考えている間に、今度は強引に体を引きずり起こされ、斧神と向き合う形になった。
自然と口が開いた。
「お前…」
辺りを見回し、山羊の兜が部屋の入り口に落ちているのを見つけた。再び斧神を見上げる。俺の視線に、斧神は黙っていた。主人の沈黙を補うように、兜から解放されたいくつもの口が小さく鳴き声を上げる。複数の目の中で、ひときわ大きな目玉がぬらぬらと光っていた。逆光で細部は暗く隠れてはいるが、あの姿は忘れようがない。彼の素顔を見るのは、これで三度目だった。
「斧神、」
呼びかけた名前が宙に浮かんで、はじけて消えた。縦に開いた大きな口が、角度を変えて俺の鼻から下を一気に咥えた。息が詰まった。両手で力いっぱい斧神の腕を掴んだ。斧神の目が瞬きをした。
ぐちゃ、と濡れた音が立ち、生臭いにおいが鼻の奥まで届く。生き物の腐ったような、なんとも言えない臭いに、胃液が逆流しそうになる。頭部から垂れ下がった斧神の太い触手が、俺の額に触れていた。その触手がかすかに震えているのを感じる。並んだ歯が俺の鼻をかすめ、肉厚な舌が俺の顎をぞるり、となぞった。グニグニした縦割れの口から分泌された唾液が、俺の耳のそばから鎖骨の下まで伝って垂れる。
臭いと感触で生理的な涙がにじむ中、至近距離から見た斧神の目は穏やかで、落ち着いていた。何かを諦めているような視線に、ひどいことをされている、という意識はなかった。したくないことをさせているのだな、と思った。
斧神の喉から、下水が逆流する時のような音が聞こえ、次の瞬間には口の中に生ぬるい液体が溢れていた。
「メエェェェ」
斧神の胸に腕を突っ張り、離れようともがく。俺の首根っこを離さないまま、斧神がさらに俺にかぶりつく力を強くした。むせた先から液体が喉に入り込んでくる。息苦しさをどこにも逃がせず、声も出せずに身をよじる。自分が泣いていることに気づかず、顎を斧神の舌が気遣うように何度も舐めたことで、それが先ほど斧神が口に含んだ水だと気がついた。斧神の目が厳しくなっている。早く飲めと言っているのだ。
「…ッ、……」
口いっぱいに含んだ水を飲もうにも、膨れた頬の筋肉が張ってつらい。斧神の手が、雅から見えない角度で俺の背中に触れた。この水を飲まないと、このままでは俺は溺れ死んでしまう。意識が飛びそうになるのを根性で堪える。
なんとか徐々にぬるい水を飲み下す俺を、斧神の目がじっと見つめていた。ごく、ごく、と何度かに分けて水を胃に流しこんでいく俺から、目を離さないでいた。死ぬ思いで最後の一滴を飲み干すと、口を離す前に、斧神の舌が唇の端を舐めたのがわかった。
「…ッ、ハアッ、ハアッ、ハァッ」
口が離れた途端、激しく息を吸い込んで酸素を取り込んだ。離れたところから唾液が糸を引いた。胸が波打ち、鼓動がうるさい。手で口や鼻をぬぐった。斧神の手が山羊の兜を拾い上げ、また着用するのを横目で見る。ゼエハアと荒い息をしながら、呼吸が落ち着くまで、しばらく布団の上でうずくまっていた。
「どうだ。気分はよくなったか」
雅が言った。見なくとも、その顔に笑みを浮かべているのがわかった。
魂が石のように硬くなるのを感じた。歯をくいしばる。四肢を丸めた状態で、握りこぶしを作った。
居間の方からパチン、と扇子の音がした。
「兄の処へ行きたいか」
顔を動かし、雅を見た。居間の明かりの下で、雅の姿は完全に異質に感じられるかと思いきや、どこか馴染んでいる。それが奇妙だった。この家に雅が来たことは俺が知る限り、一度しかない。雅は口元に笑みを浮かべているにもかかわらず、俺を見るその目は笑っていない。閉じた鉄扇をその手に持っている。
「……だから、どうだっていうんだ」
部屋の入り口に立っていた斧神が、うずくまる俺のそばに膝をついた。
「おまえが……、…おまえ、が」
頭がガンガンした。頭がい骨の内側から金物で殴られているようで、視界がぐらついた。立ち上がろうとして急な眩暈に襲われる。斧神の腕に支えられた状態で、立ったまま布団の上に嘔吐した。
飲まされた水をほとんど吐き戻し、涙と鼻水を滴らせて脱力した俺の体を、斧神が抱きかかえた。身体に力が入らず、頭が先ほどの倍くらい痛んだ。ついでに喉も痛かった。
背中と膝の裏を支える斧神の手が暖かい。寒気がする。嘔吐した後の口内が酸っぱく、饐えた味が気持ち悪かった。とにかく気分が悪くて、泣きたいほどに辛かった。ずっと帰りたいと思っているのに、それが自分の家なのか、本土のことなのか、どこを指すのかは自分にもわからなかった。
体に揺れが伝わり、斧神が移動しているのがわかった。ぶ厚い胸板に体をくっつけていたら、何かの上に横たえられた。目を開けると、ちょうど居間の電気が消され、あたりが暗闇に包まれた。
「替えの布団を出そう」
そう言って、斧神が離れる。離れたくなかったが、疲労と痛みで一言も口がきけなかった。気配が少し遠ざかる。
仰向けにされた体の横で指を動かすと、さり、と指の腹に感触がある。並べた座布団の上にでも寝かされているのだろう。離れたところでごそごそと音がしていた。
雨はザアザアとよく降る。雨の音がこの家を閉じ込めて、外界から遮断しているような気がした。近くから視線を感じた。無意識のうちに目を閉じた。
「篤がお前を取りに来る」
雅の声が頭上からする。穏やかな声で、降る雨の音にかき消されることのない、腹の底から出しているような低い声だった。その口から兄の名前が出てくると、毎度体中の血が沸騰しそうなほどに腹が立った。その声で名前を呼ばれると、兄の存在が汚される気がした。今は、煮えたぎる血も冷たくなって、何も返すことはできない。
「邪鬼どもをこの家の周りに放っていたんだが、あまり意味はなかったようだな」
雅が言った。まるで独り言のようだった。その言い方だと、かなりの数の邪鬼がこの一帯や、家を囲むあの山々をうろついているのだろう。この家に他の吸血鬼は近寄らないと、斧神が言ったわけがわかる。脱走を繰り返す俺を斧神が捕まえていなければ、俺もやはり食われていたのだろうか。
斧神が近寄ってきたのを気配で感じ、体がこわばる。雅が俺の様子を眺めているのがよくわかった。あの赤い眼が、死んでいく生き物を観察するかのごとくこちらを見ているのを肌で感じた。
「村田と篤、どちらがお前にとって必要なんだ?」
目を開ける。鈍い動きで、雅が座っている方を見た。薄暗がりの中、雅は小首を傾げ、俺を見下ろしていた。あぐらをかいた膝に扇子を持った手を置き、畳に膝をついた斧神が俺を抱きかかえるまで、その様子をずっと眺めていた。俺はその問いを頭の中で繰り返した。雅が喉奥で笑ったのが聞こえた。
斧神が手慣れた動きで俺の汚れた服を着替えさせ、清潔な布団の上に横たえてくれる。立て付けの悪い硝子戸がいつの間にか閉められていた。枕に頭を置いても、山羊の頭をじっと見つめ続けた。目が離せないでいる俺に、斧神は一言、「寝ていろ」と言った。体温の下がった俺の体に、重たい掛け布団を首まで引っ張り上げた。
夜中に一度目を覚ました。暗闇の中で枕に乗せた首をめぐらすと、蚊帳の張られた外側、すぐのところに斧神の姿があった。畳に腰を下ろし、体の前で両腕を組んでいた。
家中の電気が消されていて、目の前の男以外の気配は感じられなかったので、雅はおそらく去ったのだろう。雨の音が止んでいて、外から庭にいる虫の鳴き声がしていた。窓が開いているのかもしれない。扇風機が回る音が聞こえるが、室内は蒸し暑く、雨上がりの湿気った空気が肌をべたつかせていた。
布団をめくって体を起こした。胸のあたりが気持ちが悪く、吐き気がまだ残っていた。胃からくるぞわぞわとした感覚に、ぶるりと肩が震えた。
「…」
音もなく蚊帳を持ち上げ、布団から抜け出る。
「どうした」
声をかけられ、振り向いた。部屋を出ようとしていた俺を、山羊のかぶり物が見上げる。
「…起きていたのか?」
「いいや。今目が覚めた」
嘘だと思ったが、それについては何も言わなかった。斧神が立ち上がり、鴨居に頭をぶつけないようにしながら、俺より先に部屋を出た。巨大な体躯が暗闇でいやに膨張して見える。
山羊の頭が立ち止まった俺の方を向いた。かぶり物の下の息づかいが聞こえる。
「明」
「一人で、吐ける」
「わかっている」
斧神が差し出した手に、遅れて自分の手を重ねた。
あらかた便器に吐き出した後、暗い居間に戻ると、縁側に斧神が座っていた。硝子戸を開け放っており、雨上がりの土臭い匂いと、庭の濃い雑草の匂いが室内に満ちていた。戻ってきた俺の姿を見て、斧神が立ち上がろうとした。その肩を手で押さえる。暗闇に目が慣れてきていた。山羊の鼻先が持ち上がった。
斧神の隣に座り、そのかぶり物に両手で触れた。手触りが昔触ったことのある獣の毛皮に似ている。断りなく触ったことにたいして、斧神は何も言わなかった。黙ってされるがままになっている。
かぶり物を慎重に持ち上げた。山羊の頭は重たく、ずっしりとしたそれを両手で自分の横にそっと置いた。夜の下で、素顔が外気にさらされ、崩れた頭部が俺の目の前で再びあらわになる。
「メェエェェ」
湿った空気に触れ、いくつもの顔が機械的に鳴き声を上げた。突然外の世界に出され、驚いているのだろうか。複数の目玉がパチ、パチ、と繰り返し瞬きをした。大きな一つの目玉は、一度も瞬きをせずに俺を見つめていた。眼球をスムーズに動かす程度の水分がその目を覆っていて、ぬるりと光っていた。
斧神の両肩に手を置いた。上半身を伸ばし、穏やかに呼吸する縦に割れた大きな口に頭を寄せた。斧神がわずかに身を引いた。大きな目が短い間に何度も瞬きをした。逃げた間隔を詰めるようにして、その口に口づけた。
「!」
斧神が俺の腕を片手で掴んだ。構わず、めくれ上がった皮を食み、幾度も目の下に口づけをした。斧神が怒ったような声を出した。俺は斧神を見下ろした。かつて村田という名前だった男を、その変わり果てたであろう姿を、見つめた。
斧神はめずらしく怒っていた。それと同じくらいに、この親友が戸惑っているのがわかる。口角を歪め、その口に再度口づけた。斧神が俺の腕を引っ張った。勢い、男の膝の上に倒れこむ形になる。
「何をするんだ」
斧神が呟いた。納得がいかない様子で、困惑した声色だった。その声を聞くと胸が苦しくなった。崩れた体勢のまま、俺は両手で斧神の顔だった場所に触れた。その体が明らかにこわばり、斧神が俺の名前を呼んだ。
「斧神」
大きな目が瞬きをし、その目が子供のように透き通った瞳になる。俺が再び名前を呼ぶと、大きな目が震えながらまぶたを閉じた。目を開けているのが耐え難いといった様子で、俺の腕を掴む手に力が入っていた。鳴き続けるいくつもの分身達の声がかすれている。
斧神と兄貴はかつて親友だったと聞いた。今も彼らはそうなのだろうか。昼間、斧神は兄貴にたいして躊躇いなく斧を向けたが、あの時の斧神は確実に兄貴を殺すつもりだった。互いで命をかけた斬り合いをしたことがあるからこそ、わかることだった。殺しはしないが痛い目に合わせる、というレベルの殺意ではなかった。あの時、兄がこの家の敷居をまたいでいたら、玄関先は今頃血の海になっている。
信じていたものを一度破壊し、新たに再構築した男が斧神だ。
(「ここには近寄るなと言ったはずだ」)
斧神は、兄貴がここに来るのを知っていたのかもしれない。おそらく知っていてやってきた。綺麗に研がれた斧がまだ目に焼き付いて離れない。あれは兄を殺す為に研がれた斧だ。雅が俺を渡すつもりがないことを思い知らされるようだった。邪鬼がいようがいまいが、結局のところ兄にも、斧神にも関係がないのだった。斧神がいて、初めて雅の檻は完成する。
次に斧神が目を開けた時には、もう普段の彼に戻った後だった。膝の上にいる俺を見下ろし、なんとも言えない表情をしていた。
「……具合はどうだ」
斧神が言った。俺はうなずき、斧神にかぶり物を取って渡した。なんでもなかったかのように、斧神が山羊の兜を身につけた。その様子を正面から見ていた。
山羊の鼻先が俺に向いた。かぶり物越しに、物言いたげな視線を感じる。視線を絡み合わせたが、俺はもう何も言うことはなかった。夏の夜の蒸した空気が俺たちの周りに漂っていて、湿気の多さで、膝の裏や背中がべたついた感じがした。獣と唾液と血の匂いが鼻にこびりついて取れない。気づけば、夜空は星のない夜だった。暑かった。十分だと思った。
「変なこと、言ってもいいか」
斧神が耳を傾けている。
「あんたとのキスって、どうやればいいんだ」
薄暗闇の下で数秒、斧神はこちらを向いたまま動かなかった。俺は板張りに膝をつき、何の感情もあらわさない山羊の頭を見上げていた。近くにいると、男の息づかいを感じた。かぶり物の下で息をする分身達の、呼吸のタイミングがずれていかにも苦しげだ。
斧神の肩がこわばっている。
「…………もうするな」
「何故だ」
「……俺が、したくないからだ」
ひどく小さな声で言い、斧神が顔を背けた。シ、シ、シ、と涼しげな虫の声が庭の隅の方でした。山羊の頭が動き、斧神が真っ暗な庭を見た。俺はまだその横顔を見上げていた。
斧神の手が伸びてきて、俺の頭をがしっとつかんだ。大きな手に、俺の頭がまるでバスケットボールのように掴まれる。汗で少し湿った髪の毛を斧神の指先がこすった。指先が硬い。
山羊の頭がわずかに動き、斧神が一瞬俺を見たのがわかった。
「わかったのなら、返事をしろ」
「俺にはあんたの考えていることがわかる」
この男が人間だった頃に話し相手になれれば、もしかするともっと別の接し方ができたのかもしれない。この島でもしもの話をしたって仕方がないことはよくわかる。
村田という男は別の生き物になって斧神として生きていた。その前に現れたのが、俺だったというだけだ。最初からそうだった。最初から全部決まっていた。
(どれだけ慕っても泡になって消えるのなら)
それでもすべてが無意味だとは思えない。殺し殺されで終わりだとは、思いたくない。
「……わかるものか」
斧神が言った。囁き声に近かった。虫の声にかき消されてしまいそうなほどに小さなその声を俺の耳はちゃんと拾った。一回り大きな斧神の手が、俺の頭のてっぺんから後頭部にかけてをゆっくりと撫で下ろした。その手が首筋で止まり、太い血管のあたりをさわ、と撫でる。
突き放したような言い方とは真逆の、優しい手つきで、この男にそんなふうに触られることは久しぶりだった。ふさがりかけている傷跡に触れた時の手がこんな感じだったことを記憶から思い起こす。俺を傷つけるのではなく、治し、癒すことを目的とした手で、その手は紛れもなく優しかった。斧を振るう手で死にかけの命を救っては、またぐしゃぐしゃにするのに。
腕を持ち上げ、男の手を自分の手のひらで包んだ。無骨なその手に、すり、と頬を擦りつける。肌から伝わる体温が心地よい。
「頭の固いやつだ」
吐息交じりに言った。ゴツゴツとした手が、応えるように俺の頬をなでさすった。無意識のうちに口が開いていた。
数日後には雅から手紙をもらった。斧神が預かってきたのを手渡しで受け取り、目の前で開けた。墨で書かれた短い文面には、この家を出るなという指示が簡潔に書かれていて、そのまま手紙を丸めて斧神の胸に押しつけた。相変わらず自分勝手な男だ。
斧神と俺の関係は矛盾しているとしか言いようがなかったが、それからも俺は変わらず斧神を仮の住まいに迎え入れた。もとからこの家に通いつめていた斧神は、晩と言わず真昼から姿を現すことも多くなり、俺は一人の時間が少なくなりつつある。斧神は兄貴の「また来る」と言った言葉を覚えていて、それを俺の様子と照らし合わせているようだった。
あれだけ固辞していたにもかかわらず、斧神が泊まっていくこともあった。その回数は徐々に増えた。朝晩が涼しく感じられる日が多くなってきても、兄貴は姿を現さなかった。
「斧神」
俺は斧神とのキスまがいの行為が上手くなってきている。
2016.8.24