※注意
・篤、斧神生存ルート
・篤、斧神ともに交戦済み設定
・明が吸血鬼軍に捕まって雅に飼われています(本土未上陸)
・蚊は本土にばら撒かれませんでした
・明の右手も健在
・師匠は邪鬼になっていません
・腐女子の妄想、捏造、何でも許せる方向け
すみれ色の夕暮れが綺麗だったことを覚えていた。空気は春の匂いを含んでいて、その日は高校の合格発表の日で、昼過ぎから幼なじみ達と祝いあった後で帰宅すると、家の中から店のおもてに兄が飛び出してきた。
午前中に公衆電話から合格した事を伝えると、兄貴は大げさなほど喜んでみせてくれて、嬉しさが抑えきれないといった声で、早く帰ってこいと言った。受話器から流れ込んでくる兄貴の声が、純粋に心からの喜びに溢れていて、そこでようやく、受験勉強に追われた日々からその日までの嫌な胸のつかえがとれた気がした。
「頭のいいできた兄」からすればきっと自分が受ける高校はすべり止めよりも情けない学校なんだろう、と思っていた卑屈な考えが、兄に抱きしめられた途端に自分の中からじわじわと霧散していくのを感じた。商店街の通行人の前で、恥ずかしげもなく兄貴は両腕で俺をきつく抱きしめた。
「よくやったな。頑張ったな」
そういって褒めちぎりながら、兄貴が俺の体を勢いをつけて抱き上げた。慌てて両腕で兄貴の肩にしがみついた。その時の兄はすでに成人しており、中学三年生の俺からすればだいぶ力もつき、ほとんど大人に近い体つきだった。
「ちょ、ちょっと、おろして、兄貴」
通行人や店の客にクスクスと笑われていることに、顔を真っ赤にして兄貴に訴えかけるも、兄貴は気にしない様子で笑っていた。小さな子供にするように俺の体を軽々と抱き上げ、店先にいた母親にみっともないと注意をされるまで、兄はそうやって俺と合格の喜びを分かち合っていた。
気がついて、肩に担がれている現状を認識するまでに少し時間がかかった。
体が揺れていることから、自分を担ぐ腕の持ち主が移動していることがわかる。暗闇に目が慣れるまでしばらく黙っていた。辺りは暗く、音を聞く限り草むらをかき分けて進んでいるようだ。徐々に目が慣れてくると、目隠しをされているわけではなく、すっかり日が暮れて夜が訪れているのだと知った。まるで米袋のように担がれて、眼に映る視界が逆さまになっている。
頭がぐらぐらと重たく痛んだ。長時間逆さまになっていることによって、頭に血がのぼっているせいだろう。揺れる不安定な上半身でもがき、兄の背中を手で叩いた。
兄貴が俺の体を抱え直した。何も言ってもらえないので、また背中を叩いた。
「まあ待て。あと少しでおろしてやるから」
兄貴が言った。その背中に両手をつき、腹筋に力を入れ、なんとか上半身を起こそうとした。兄貴が足を止め、俺の様子をうかがった。
おろして、と声を出した。密着している近さでこそ聞こえる、押し潰れた肺から出た小さな声だった。
「わかったわかった」
あやすように言いつつ、兄貴が俺の体を肩から下ろした。草むらの上に崩れ落ちるようにして腰を下ろし、目を瞬いた。急に視界が正常な角度に戻り、元の位置に戻った頭がさらに痛みを増してぐらついた。あまりの感覚に吐き気がする。
上半身のバランスを保つことができず、ふらつくまま、草むらに横向きに倒れこんだ。頭がガンガンする。
「すまんな。急いでいたから」
兄貴の声が上から降ってくる。息を吸い込んだら、草の匂いが鼻の奥いっぱいに広がった。湿っぽく、冷たい夜の空気が肺に流れ込む。
草むらに体を投げ出した状態で目を閉じかけ、兄貴に手を取られた。その時になってようやく、体がかなり冷えていることに気づいた。目の前にいる上着を着た兄とは違って、自分は薄着だ。
「可哀想だが、こんなところでグズグズしている時間はない」
「待ってくれ…、どこに行くんだ」
「俺の村まで、お前を連れていく」
言っている事を理解するまでに時間がかかる。そもそも、俺はどうしてあの家を出て、ここにいるのだろうか。
「でも兄貴、俺は、師匠や仲間のいるところに帰りたいんだ」
頭がうまく働かず、舌ったらずな口調になる。俺の片手を握る兄貴を見上げた。兄貴の乾いた指が俺の手の甲をこすった。懐かしい触り方だった。
「わかってる。ただ、今はそういうわけにもいかないだろう」
「どうして…」
「明、立ってくれ。今はおしゃべりをしている余裕はない。邪鬼がくる」
兄貴が一息で言った。俺の手を強引に引っ張り上げ、俺の体を支えながら立たせた。ふらつきつつ、兄の体にすがりついた。腰に回された兄貴の腕が、俺の体をしっかりと支えた。兄貴の顔が非常に近くにある。
「村に着いたら、ゆっくり話をしてやるから」
木々の間から入ってくる月明かりもなく、今夜はおそらく曇り空なのだろう。暗闇で、眼鏡の奥の瞳が俺のことをじっと見つめていた。その優しい目に俺だけを映し、兄貴の腕がさらに俺の体を引き寄せた。
木々が風にさざめき、ざわざわとした音が辺りを埋め尽くす。秋の夜風が、くっついた俺たちの周りを通り過ぎる。
兄貴の声がものすごく近くから聞こえた。ほとんど唇が触れ合いそうな位置で、兄貴が微笑んだのが息遣いでわかった。
「村に着く前に、俺に刀をくれないか」
密着した体勢で、兄に言った。
「明」
「俺は…、みんなのところに戻らないといけない。兄貴とは、俺だってこうやってずっと一緒にいたいけど」
俺の手よりも大きな手のひらがうなじを触る。暖かい手のひらが、冷えた肌に心地よい。
「そういうわけにもいかない」
呟くと、腰に回された腕の力が緩んだ。兄貴を見ると、眼鏡の奥の目が、言葉では表現しづらい何かを湛えている。瞬きをした次の瞬間には、もうその感情の正体がわからなくなった。
「わかった。それなら、ひとまず村の手前の沼を越えよう。あそこを越えれば邪鬼どもも追ってこれん」
兄の言葉にうなずいた。内心、ホッとした。兄のやり方に逆らうようで、本当は気がひける思いだったが、やはり何かが間違っている気がしたのだ。その間違いがこれで正される。
「ありがとう、兄貴」
礼を言う俺に肩を貸し、兄貴が力強くうなずいた。
目覚めてから最初のうちは肩を借りながら、頭痛が和らいでからは言われた通りに兄の前を走った。走り始めてすぐに息切れを起こした。筋力トレーニングを続けていたとはいえ、この数ヶ月間、前線での戦いから離れていた代償だ。それでも足を止めることはしなかった。兄貴の前を走るのは久しぶりだ。
けもの道も目印もない、ただただ木々と生い茂る雑草が続く闇の中を駆けた。頬を打つ風が冷たく、耳がジンジンした。裸足で走るせいで、雑草に引っ掻かれ、石ころを踏んだりと、だんだんと足首から先の感覚を失っていく。靴を履いていない理由がわからなかったが、そんなことは今はどうでもよかった。
時折、どこか遠くで遠吠えのような甲高い割れた声がした。邪鬼の鳴き声だ。その度に肩越しに兄を振り返った。首を振られると、近くにはいないらしき事を理解した。丸腰の状態で遭遇したくはない。
兄の行く手を感じとって前を走るのは久々だった。そのやり方を俺の体は忘れておらず、兄貴が背後から気配で指し示す方向に向かって走った。後方の兄の息遣いや、足音が懐かしく、まるで二人、師匠に教えを受けたあの頃に戻ったような感じがした。
不思議な事に、走れば走るほど体が軽くなっていくような気がした。反対に足取りは重たくなっていく。息を切らし、走りながら何度か手で腿を叩いた。膝から下が鉛を仕込まれたように重く、怠さが増していく。不甲斐ない自分の足にもどかしさが募った。
走り続けている事によって体が暖まり、シャツの背中を汗が伝う。吐く息が白く染まった。気温がかなり下がっている。
「明」
いつのまにかすぐ後ろまで近づいてきていた兄貴が、近くから俺を呼んだ。振り向く。
「止まれ」
足がもつれないよう、なるべく緩やかにスピードを落とした。俺と並んだ兄貴もほぼ同時に走る速度を落とした。次第に歩きになり、二人とも完全に足を止めた。
かなりの距離を駆けたようだが、肩を上下させる俺とは違い、兄貴は息切れ一つさせず、俺のそばにぴったりと張りついた。
「何か、いるのか」
「……。わからん」
兄貴がマスクを指で顎まで引き下げたのを見て、兄がマスクをつけたまま走っていたことに今さら気がつき、どっと体の疲れが増した気がした。はかりしれない兄だ。
空気中のにおいを嗅いでいる兄貴を視界に入れつつ、辺りを見回した。別段、景色に変わったところはないように見えた。
「……」
体の向きを変え、周囲の気配を感じ取ろうと試みる。夜の闇に溶け込んでいるだろう何かを探し、木々の間に目を凝らした。何もいない。
「…兄貴?」
「いる」
兄貴を見上げた。俺が見ていた方角を見つめ、微動だにしなかった。見ると、刀の柄に手を置いている。
「追ってきている」
「……」
兄の見ている方角を目で追った。相変わらず、暗闇しか見えない。
「…」
兄貴が俺を見下ろした。口の中に溜まった唾を飲み込んだ。何が、とは聞かなかった。誰が追いかけてきているかなどお互いに確認し合わなくともわかった。あいつが追いかけてこなかったことなんか、一度たりともない。
再び走り始めたが、先ほどよりもずっとスピードを上げて木々の間を駆け抜ける。夜の闇が濃く、気温が低くて、汗をかいた体が寒さでこわばりかけていた。木の天井が途切れた瞬間に空を見上げたが、月も星も見えず、そこには重たげな真っ黒い曇り空が見えるだけだった。
草花を蹴散らし、土を踏みしめ、枝の棘で腕や足を引っ掻かれようとも、立ち止まることはしなかった。走り続けてきたことにより裸足のつま先の感覚は既になく、おそらく血が出ているのはわかっていたが、足の動きを止めることはできなかった。
血の匂いによって引き寄せられてくる邪鬼のことを考えれば、何かで傷をふさぐべきなのはわかっている。この匂いが追跡する男の目印になることも。
俺を背負った状態で兄貴が移動してきた距離を、おそらくあの男は全力疾走してきている。男の走るスピードは身をもって知っていた。男が追いつくまでの時間を考えると、とても傷を見る余裕はなかった。
兄貴がすぐに血の匂いに気がついた。
背後から声がかかった気がした。肩越しに兄を振り向き、すぐにまた前を向いた。耳元で風の音がうるさいほどの速度で走っている為、何を言ったか言葉が聞こえづらい。
真横に来た兄貴を見る。
「明、止まれ」
「追いつかれるから、駄目だ」
「いいから止まれ」
並走する兄貴と前方に視線を向けつつ、速度を緩めた。兄貴に言った。
「血が出てるんだろ。知ってるって」
「それなら早く塞げ。邪鬼まで寄ってくる」
「そんなのわかってる」
自分でも驚くほど棘を含んだ言い方になってしまい、反射的に口をつぐんだ。後方を気にしていた兄貴がこちらに体を向けたのがわかった。
うなだれた俺の横で、兄貴が自分のシャツを脱いだ。脱いだシャツを両手で破いた。
「お前の血の匂いで、俺の鼻がおかしくなりそうなんだ」
そう言うと、しゃがみこんで俺の両足に器用に布を巻きつけた。手元がろくに見えない暗闇で、布で傷口を覆い、地面に直接つま先が当たらないようにしてくれる。その様子を見下ろしている間、兄貴の顔ばかり見つめていた。暗がりでもわかるほど、眼鏡の奥の眼が赤く染まっている。
立ち上がった兄貴にボソボソと礼を言った。
「ありがとう、兄貴」
うなだれる俺の頭に兄貴が手を置いた。その仕草が、思いもよらず親友と重なる。髪の毛をかき混ぜる指の感触に背中がぞわぞわした。
兄貴を見上げ、視線があったことに大きく肩が動いた。何を考えているんだ。
「どうした」
「いや、なんでも、何でもない…」
周囲を一度確認した後、兄貴が言った。
「北の灯台が近くだ。そろそろだから、頑張りな」
「…余裕」
また遠吠えが聞こえた。先ほどよりも近くからだった。鳴き声が長く引いてここまで届いた。
俺はコートを着ていた。兄はジャンパーをひっかけただけの格好でとにかく寒そうで、早い春の訪れを意識させる匂いが街には漂っていて、花を水に落として潰したような、濃い薄紫の空が並ぶ商店街の建物の遥か向こうの方まで続いていた。雲まで薄い紫色で染まり、目一杯薄めた葡萄ジュースを連想させる空だった。
いまだにあの空が忘れられないでいる。綺麗で、見ていたら胸が詰まって苦しくなってしまう。俺を抱き上げる兄貴の腕の力も、優しい低い声も、愛情しか感じない視線も、何もかもが記憶の中で今も息づいて懐かしい。
あれだけ頭に焼きつけた受験番号なんかよりも、兄貴の喜びようの方がよほど印象に残った。あの日兄貴の着ていた上着の色まで、しっかりと記憶に残っている。
自分の部屋に戻る俺のあとをついてくる兄貴に、もういいよ、と言って褒めちぎり行為をやめてもらう。本当は、ずっと褒めていてもらいたかった。こんなふうに自分の行いを褒めてもらえるのは、百年ぶりぐらいに嬉しかった。それでも羞恥心からぶっきらぼうな口調になってしまったのに、兄貴は何を言われてもずっと笑っていて、着替える間も兄ぶった態度で露骨な兄バカぶりを発揮していた。
「わかったから。もう、いいよ。兄貴褒めすぎ」
「ハハハ。いいだろ、言わせてくれよ」
今日その日までの自分であったら、まるで子ども扱いだと兄に噛みつきもしただろう。
はにかみながらも、俺には兄貴の声が耳に心地よかった。心の底にたまった澱を洗い流してくれる低く優しい声が、父親にも母親にももらえなかった、喉から手が出るほど欲しかった言葉を全部くれた。それが凄く嬉しかった。
立派なことをやり遂げたわけでもない。賞をもらえるようなことをしたわけでもない。けれどもあの賢い兄に褒められていると、自分が落ちこぼれでも、要らない弟でもない、確かに必要とされている人間なんだと思うことができたのだ。
(『よく頑張りました』だ)
兄貴がいつも花マルをくれる。努力したその先で待っていてくれる。誰も見ていないわけじゃないと、誰よりもそばでその目が教えてくれる。
どれだけつらかろうが俺はそれだけで頑張れた。
俺が斧神を見つけた時、斧神はいつか見た時のように両腕を大きく振りかぶっていた。斧神が俺たちを見つけたのがおそらく先だった。一瞬のうちに脳がその動きから想定される結果をはじき出し、避けようとした足が震えてよろめいた。その肩を抱かれた。
地面に突っ伏した俺と兄貴のすぐ真上で不気味な風切り音がし、振り返ると、見慣れた巨大斧が刃から地面に突き刺さっている。刃が埋まった深さに寒気がした。斧神がいる方向を見た。
はじめは暗闇でわからなかった。歩いて近づいてくる斧神を凝視し、震える手を握りしめて拳を作った。
黒山羊の兜を身につけ、凄まじい殺気を放ちながら、斧神はこちらへまっすぐ近づいてくる。張りつめた上半身の筋肉からは、疾走してきた事による体温の上昇で湯気が出ていた。全身に紋様が浮かび上がり始めていた。口の中がカラカラで舌の表面が乾く。久しぶりに見る。どんな刃物も通さない、鋼鉄の身体だ。
隣にいた兄貴に立ち上がりざまに首根っこを掴まれ、強引に立たされる。慌ててその手を掴んだ。
「兄貴、俺に刀をくれ」
兄貴が俺を見ずに喉奥で笑った。前方の斧神から視線を動かさなかった。
「馬鹿なことをぬかすな。離れてろ」
「あいつは俺を連れ戻しにきただけなんだ。俺に刀を貸してくれ。兄貴が戦うことはない」
斧神が持ってきた武器は背後のこの一挺だけのようだった。それなのに、丸腰の男から放たれる殺気が異常なほど向き合う相手を圧迫する。その拳は一発でも喰らえば戦闘に支障をきたすレベルだ。
シャリ、と耳慣れた擦れるような音が聞こえ、ハッとして隣を見た。兄貴が刀を抜いていた。その顔は無表情だった。
「みすみす弟を渡す兄貴がどこにいるんだ」
言葉が出てこなかった。瞬時に、兄貴と近づいてくる斧神を交互に見た。兜の下の斧神と目が合ったような気がした。
「兄貴」
兄を呼んだ。ほとんど叫び声に近かった。
「メエエエェエェ」
一歩一歩、象のような足を踏みしめながらこちらに向かってくる。分身たちの咆哮を聞くと背中が粟立った。この男の視界で丸腰で立っていることが、腰が抜けそうになるほど恐ろしかった。その感覚は久しぶりだった。圧倒的な力が放つ殺意に、繰り返し身体にすり込まれた恐怖が蘇りそうになる。
幾度も味わされた痛み、いつしかあの時の骨が砕ける音が耳元で再生されていた。
「下がれ、明」
殺気を漲らせた斧神を前に両手で刀を構え、兄貴が言った。隣に立つ兄を見上げた。暗闇の中で、眼鏡の下の眼だけがぎらぎらと赤く光りを放っている。
声が届く位置まで近づいてくると、斧神が俺を呼んだ。
「明」
振り向いた。かぶり物の内側からする、ややこもった、普段と変わらない声だった。
「戻ってこい」
自然が作り出した暗闇の中で、斧神の姿は闇と一体化した影のように大きかった。影が片手を差し出していた。斧神と兄貴が立つ間の距離はもうほとんどなかった。俺と男の距離も。
横から視線を感じる。
「明」
声が出ず、指先一本動かすこともできなかった。
脱走から連れ戻された直後はしばらくの間、俺は斧神と口をきこうともせず、斧神が晩に家を訪れても、険悪な雰囲気で家じゅうが息苦しいほどだった。
そういった時、斧神は黙って縁側から庭を眺めた。家主を失った庭は、ろくに手入れもされないまま、背の高い雑草がそこらじゅうにのびのびと生え、近く訪れる本格的な夏の予感を感じさせた。梅雨どきで、じっとりとした雨が降っている時もあった。緑が青々として、庭がこうだと、家全体が荒れ放題といった印象を受ける。
たいてい俺は無言で、畳の上に座っていても気まずさから、早めに床につくか、もしくは風呂に逃げるかしていた。そして風呂上がりなんかに、同じ場所から動いていない男を見ると、ようやく「早く帰れ」と言いもした。
「あんたほどの男が、こんなところでペットの世話か。面倒なことを押しつけられたもんだ」
男に八つ当たりをしても意味がないことはわかっていた。この男は結局のところ使われる身だ。主人である雅からの命令を受けて、逃げ出す自分を捕まえ、ここに閉じ込めているにすぎない。単に言われた事をやっているだけだ。
そうとわかっていながら、男のことを割り切って許すことはできなかった。斧神だからこそ、許せないのかもしれなかった。
「気にするな。犬の世話なら慣れている」
自分の精一杯の嫌みを受け流す男の顔を見たくなくて、縁側とは反対方向の台所で蛇口から直接水を飲んだ。水があごを伝い、シャツを着た胸元までが濡れた。井戸水が冷たかった。台所の格子窓の外は暗く、静かで、湿気で空気がべたついてぬるかった。
シンクについた手に影が重なり、ばっと背後を振り向くと、すぐ後ろに斧神が立っている。兜の角が天井に擦れていた。自然な手つきで斧神が俺のシャツの裾をめくり上げた。驚きと警戒心で、心臓がうるさく鳴っていた。
「……何だ」
「傷が化膿している」
斧神が言った。背中の傷口を見ているようだった。
「あんたがこさえた傷だろ」
前回の脱走時に男に斬られた箇所が膿んでいるらしい。確かにじくじくと痛むが、大きな傷ではない。よく洗って清潔にしていれば、自分の回復力なら放っておいても治るだろう。
斧神は無言でその傷口を見つめていた。今さら何を言うのだろうか。見つめ続けられると、背中がむずむずした。
「俺か」
「そうだ。いいから、早く手を離せ」
落ち着かない気持ちで、シャツの裾をめくる斧神の手を押し退けた。案外すんなりと男の手は離れ、元どおりに背中が隠れた。
何かを頭の中で考えている様子で、山羊の頭が少し俯いていた。台所の明かりの下で、巨大な体躯を持つ黒山羊の頭をした男が無言で立ち尽くすさまは、何とも言えず不気味な光景だった。
「犬の世話なら、慣れているんだろ」
男を横目で見ながら、呟いた。山羊の首が動き、斧神が横に立つ俺を見下ろした。無感情な獣の瞳がこちらに向けられている。
「死んだ時は土に埋めたのか」
見上げるほど大きな男だった。天井にぶつからないように、注意して身をかがめていた。俺の言葉に、斧神はしばらくの間黙っていた。
俺がまた蛇口から水を飲んだ後に、斧神がゆっくり二度ほどうなずいた。
「埋めたな」
山羊の鼻先が持ち上がっており、斧神が庭の方を見ていた。飼っていた犬のことを思い出しているのか、別の埋めた生き物のことを思い出しているのか、実のところ男が何を思っているのかは俺にはわからない。ただ、俺が
「そうか」
と言った後は、もう化膿した傷のことなど忘れているようだった。
首元に熱い鉄の棒でも突き刺されたかのようだった。
ブツリと皮膚が裂ける音を聞いた。
「ぁああ」
その瞬間、痛みが重たく首の骨を震わせるのを感じ、悲鳴が口から出た。命の危険を察知した体が反射的に痛みの元を振り払おうとし、その動きを抑え込むようにして、兄貴がさらに強く俺の身体にしがみついた。
「ああぁ、あ」
肩が灼けつくように熱かった。首と肩に巻きつく腕の力が信じられないほどに強く、骨がミシミシと軋んで痛みを訴える。震える拳で首元にむしゃぶりつく兄の頭を殴った。その手を取られ、もの凄い力で押さえ込まれる。
傷口を這う舌が熱い。口から出た叫び声が黒い木々の間に反響した。
「篤!」
斧神が吼えた。
あふれ出た先から自分の血が吸われていく。肺から勝手に酸素が抜けていく。吸血鬼の力だ。二本の牙が肉を食い破り、唾液を染み込ませ、身体を弛緩させる。次第に、どこかに寄りかからないと立っていられないほどになる。背後の兄の体に身体を押しつけ、なんとか震える足で立った姿勢を維持しようとした。膝がガクガクした。
兄が首元に顔を埋め、より一層強く血を啜りあげる。
「うあぁ…っ」
兄の腿に後ろ手をついて身体を支えた。ひどく酔っぱらっているみたいに頭が揺れた。ゴク、ゴク、と吸った血を嚥下する音がすぐそばで聞こえる。吸われているところが熱くてしようがない。
兄貴が傷口をゾロリと舌で舐めあげる。
「はぁっ、あぁ…」
身体がぶるりと震えた。濡れた舌があふれてくる血を舐め、肉の窪んだ二つの穴を丹念に吸う。
クラクラする頭で、目の前に立ち尽くす斧神を見た。吸血によって体じゅうの体液が出始めていた。血を吸い上げられた瞬間に、はじめにみっともなく音を立てて失禁をした。股が暖かく濡れ、すぐに外気に触れて冷たくなる。目からはとめどなく涙があふれ出してきて、視界を滲ませた。口をはくはくと動かし、親友の呼び名を呼ぼうとした。
(あの家でお前の帰りを待たずにここにいる理由を、俺は知らないわけがなかった。頭痛の理由も。靴もはかずに裸足でいるわけも)
(全部覚えているはずだった)
眩んだ頭によみがえるのは、兄に殴られた瞬間の記憶だ。
痛みと熱に紛れていた、ねっとりと纏わりつくような快感が、徐々に下肢をぞわぞわと這い上がってくる。自分の息遣いが荒かった。頭がぼうっとして、思考がまとまらない。
「っ…ふ、ぅ…」
首元にかぶりついた口の動きが艶めかしく、強く吸い上げられると身体が痙攣した。拘束する腕の力が緩んでいることに気がつかず、兄に背を預けた状態で、短い間隔で息を吸っては吐いた。吐いた息が目の前で白くなり、白くなった先から消えていく。
「兄貴の言うことを聞いてくれ」
内緒話をする時の兄の声で、ぼそぼそとして、低かった。そこからでも兄が高揚していることがわかった。
「この場をどうにかするまで、ここから動くな。俺の言うこと、わかるな?」
肩越しに振り返ると、口もとを血で真っ赤にした兄と目があった。視線を外そうにも、ぎらついた赤く光る眼から目をそらすことができなかった。
俺の目をのぞき込んで、兄貴が目を細めた。
「お、れは、かえりたい」
傷口の上から再び噛みつかれ、うめき声をもらした。身悶えした体を強い力で後ろから羽交い締めにされる。
兄の口で、唇で、舌で、ぐんぐんと自分の温かい血が吸い出されていく。
「あっ、あ、あっ」
無意識のうちに腰が揺らめき、際限なく涙が目尻からこぼれ落ちる。さらに近く、兄貴が体を密着させてくる。血が抜ける。指先が冷たかった。
「いやだ、アッ、」
兄に血を吸われながら快感を覚えている自分が消え入りたいほど恥ずかしく、同時に体を抱く兄の体温が、叫びだしたくなるくらいに懐かしかった。のけぞった喉が震えた。
瞬間、突然の激痛が肩を襲った。ばきん、と噛み砕く音が聞こえた。
あまりの痛みに悲鳴も出なかった。
霞む目を開け、咳をした。
まず最初に、頰がチクチクした。顔から地面に倒れこんでおり、草先が顔面に当たっているのだ。
立ち上がろうとすると、肩に激痛が走り、うめき声が喉からもれた。見るのも恐ろしかったが、恐る恐る痛みのありかの確認をする。暗闇で分かりにくいが、兄が噛みついていた場所が全体的に赤色で、口で言い表わすのも躊躇うような状態になっている。
顔を上げた。
目の前に、両の拳を握りしめた斧神の見慣れた背中があった。
「馬鹿力め」
兄貴の声が聞こえ、かなり遠くの方で兄が立ち上がるのが見えた。そこで自分が気を失っていたのはほんの数秒の間だと理解した。俺に噛みついていた兄貴だけ、斧神の拳がそのまま後方へ殴り飛ばしたのだ。相変わらず、無茶苦茶する。
斧神が兄貴の方へ向かって歩き始めた。その手を後ろから取ろうとしたが、バランスを崩して地面に転んだ。斧神は気づかなかった。
「おのがみ、まて」
血を吸われたせいで腹に力が入らず、舌が回らない。立ち上がろうとして、痛みに顔をしかめた。えぐれた肩がちぎれそうに痛む。そこだけが燃えるように熱いのに、血が抜けすぎていて異常なほど寒い。
近づいてくる斧神に対し、兄貴が刀を構えるのが見える。体格差を意識させない兄の構えに、経験から湧きあがる恐怖が指先を冷たくした。俺の血か、自分の血なのか、口から顎にかけてが血まみれだった。遠目にもわかる。兄は口元に笑みを浮かべていた。
「おのがみ!」
斧神が走り出し、無駄のない動きで拳を振りかぶった。
2016.11.5