スクエア 7

※注意
・篤、斧神生存ルート
・篤、斧神ともに交戦済み設定
・明が吸血鬼軍に捕まって雅に飼われています(本土未上陸)
・蚊は本土にばら撒かれませんでした
・明の右手も健在
・師匠は邪鬼になっていません
・腐女子の妄想、捏造、何でも許せる方向け

 斧神の拳は闇を切り裂いた。相手の急所を的確に狙った一撃は物凄いスピードで空を裂き、兄の胸に命中したかに見えた。
 斧神が拳を振り抜く前に、大男の二の腕の筋肉を分離させようと、兄貴が構える日本刀の刃がそこに滑り込んだ。刃が暗い海中を泳ぐ太刀魚のように銀色に光る。常人の目にはうつらないほどの速さで、刀が白く風を切った。研ぎ音に似た悲鳴をあげて、刃と肉体が擦れる。
 刀を手前に引き、兄貴が後方に飛び退った。
 拳を前に突き出した体勢から、斧神がゆっくりと腕を畳んだのが見えた。上腕の筋肉が大きく盛り上がっている。全身に紋様を浮かべ、上半身からは体内の熱の放出による湯気が出ていた。鋼鉄の身体が、刃を通すことを許さないのだ。
 兄貴が刀を支える手を持ち替え、言った。

「何が目的で、俺と戦うのか、わかっているよな」

 静かで、落ち着いた声だった。暗闇にもよく響いた。
 斧神の足が地面の上をざり、と擦った。

「わかっている」

 斧神の斧は一挺きり、今は兄貴の背後にある。両手を体の横に垂らした状態で、斧神が山羊の首を左右に順にひねった。山羊の口から蒸気が漏れ出す。
 あたりは闇そのものだった。明滅するものは一つもなく、それでも曇の上にある月や星のおかげか、たんに目が慣れただけか、生い茂る草木や、二人の男の動作や位置の把握は何とかできるほどだった。
 山羊のかぶり物越しに、斧神が真正面から兄を見据えた。兄貴が前足の位置をずらした。

「お前はどうだ」

 斧神が言った。

「俺とこうなる意味を、お前は、理解しているんだな?」

 脅すような声色で、その声を聞くと肉の下に埋まる背骨がビリビリした。返答はなく、兄貴が刀の柄を握りしめたのがかすかな衣擦れの音でわかった。斧神にはそれで十分なようだった。
 二人が徐々に、徐々に距離を縮めていく。それを黙って眺めているわけにはいかなかった。なのに獣のような四つん這いの体勢から、俺は立ち上がることすらできない。
 長時間の走りで汗をかいた体は冷えきり、さらに血を抜かれたことによって著しく体温が下がっている。吸血で受けた麻痺が全身を継続して痙攣させていた。膝についた腕に力を入れようとすると、噛みちぎられた肩が激しい痛みに襲われ、声にならない悲鳴がかすれた喉からこぼれ落ちた。
 痛い。寒い。さっきからずっと、その二つが頭から離れない。
 顔の横を流れた汗がポツ、ポツ、としずくとなって地面に落ちた。下を向いたら、裸足に巻かれた兄のシャツが目にとまった。歯を食いしばり、曲げた膝に力を入れ、何とか立ち上がろうとした。胸筋の間を肩の血が伝い落ちるのを感じる。

 兄が刀を振るう音を、俺は聞き分けることができる。何百万回とそばで聞いてきた音を聞き間違えることはない。
 飛び散った何かが、ビシャッ、と明らかな液体らしき音を立てて木にかかった。自分が叫んだ声は言葉として成立していなかった。制止の言葉が頭の中でぐちゃぐちゃになる。切られたのは斧神の方だ。奴にとってはきっと薄皮一枚だ。
 でもきっと飛び散ったのは奴の血だ。

「わめくな。身体にさわる。止血をしろ」

 斧神が一息に叫んだ。
 非常に速いスピードで斬りつけてくる刀の切っ先を躱わし、斧神が体の横から拳を振り上げた。猫科の動物によく似た動きで兄がその一発を避ける。ありえない反射神経で拳を避けた体勢から、兄貴は刀の先を斧神の下肢に向かって振り下ろした。振り下ろした先にあった足を一寸早く動かし、斧神が兄貴の腹を蹴り上げる。

「斧神!!」
「いいから血を止めろ」

 斧神の怒声に行き場をなくした手が頭を掻いた。俺はどうすればいい。刀が欲しい。でも刀を持ったところで一体何をするつもりなんだ。誰をどうするつもりなんだ。
 兄を見た。蹴られて吹っ飛びかけた体を、兄貴は刀を地面に突き刺して勢いを止めた。顔を上げて斧神を見る、その眼が真っ赤に染まっている。赤く燃えている。
 地面から刃先を抜き、両手で柄を握りしめて、兄貴が体の横に剣先を下にして構えた。姿勢がきれいな、共通の師に教わった通りの型で、その立ち姿が兄がまだ人間だった頃の記憶をフラッシュバックさせる。兄貴、と頭の中で兄を呼んだ。ほとんど癖だった。
 斧神から視線をそらさずに、兄貴が呟いた。

「悪いが、武器を手にしたお前とやりあうと長引きそうだ。すまんな」
「構わん。こちらから取りに行くだけだ」

 答えた直後に斧神が足を踏み出して駆け出すと、兄貴が下げた刀を下から振り上げ、頭上に掲げた。
 作ったげんこつを体の脇にぴったりとつけ、斧神が走る勢いを増した。刃先が暗闇の中でも鋭い光を放ち、向かってくる相手への殺意を込めて振り下ろされた。
 やめてくれ、というようなことを叫んだ気がする。

 お互いがすでに人間をやめており、吸血鬼という人外の生き物となった後では、それは正々堂々の決闘とはかけ離れていた。決闘は人間同士がする行為であり、これは獣と獣が、どちらが先に相手の喉笛を噛み千切るか競う、殺し合いに他ならない。奪い合いに他ならない。
 脱いだシャツで傷口を上から覆った。落ちていた木の枝を強く奥歯で噛み締め、胸の中で絶叫しながら、止血のために自らの手で肩をきつく縛った。呼吸の間隔が短く、心臓の鼓動が非常に速いペースで鳴っていた。肩に心臓があるみたいに傷口がどくどくと脈打っている。頭がぐらついて、口の中がカラカラに渇いていた。
 顔を上げ、暗闇の中で飛び交う二つの動物の影を見た。目が眩む。自分の息継ぎがほとんどでたらめだった。
 とにかくなんでもいい。なんでもいいから、武器を手にしなければ。

 噛まれた方の片腕がうまく動かず、だらんと垂れ下がった状態から持ち上がらない。こんな腕で、何か役に立つものを見つけたところではたして武器を持つことができるのかどうか、考えたくはなかった。利き腕ではないだけマシだと思った。
 体力を振り絞って暗い木々の中へと駆け出したが、どこへ向かって走ればいいのかもわからなかった。北の灯台が近いと兄貴は言っていた。ということは、兄の村の近辺であり、地理を考えると、その近くには二人で稽古をつけてもらったあの道場があるはずだった。道場までたどり着くことができれば、あの武器庫からいくらでも刀を手にすることができる。

 まともな思考ではなかった。目印も道案内もなしに、ただ目標だけでこんな暗い闇を単独で進むのは無謀であると知っていた。わかっていて、黒い木々の間を闇雲に走り抜けた。刀と拳がぶつかる音が少しずつ、少しずつではあるが遠ざかっていき、やがて周囲の自然音に紛れて完全にわからなくなった。
 吐く息が白く、止血のためにシャツを脱いだことで裸の上半身がますます冷えた。風が俺に向かってだけ吹いているような気がし、そんなことはありえないと思いながらも、やはり強風の中を走っている感覚だった。実際にはそんなことはなかった。
 とにかくひたすら直線で走った。まっすぐに駆けていけば、森の中か山の中かは知らないが、この場所を抜けて必ず何処かには出るだろうと思い、半ば願ってもいた。
 足の裏がズキズキと痛み、ひどい頭痛がした。岩を踏み越え、枝に頰を引っ掻かれ、草に足を取られつつ、馬鹿みたいに走り続ける。

 深い闇夜だった。同じ場所ばかりを通り過ぎているような気分に襲われた。置いてきた二人のことを考えると、胸が張り裂けそうだった。ハァッ、と吐き出した息が白く染まって、すぐに後方へ流れていく。どれぐらいのスピードで自分が走っているのかもわからない。噛まれた方の肩の感覚がなく、酸素を制限されているみたいに息苦しい。
 でもあそこで黙って見ていてどうなるっていうんだ。どちらかが倒れるまで、何もできずに見ていろっていうのか。そんなのは嫌だ。冷たい夜気が、風が目にしみる。
 ぼやけた視界がうっとおしく、閉じたまぶたの上から眼球を擦った。目を開けた直後、走る勢いのまま、目の前に現れた木に正面から衝突した。

 どいつもこいつも。誰もが自分の都合で動いている。俺のことをモノみたいに扱う。俺の言い分を聞いてくれたことがあっただろうか。監視ではない、とアイツは言ったが、これが監視ではなくて、捕虜ではなくてなんだっていうんだろう。
 捕虜なら、捕虜らしく扱えばいい。牢屋に入れ、椅子に座らせ、思う存分好きなように血でもすすればいい。いくらでも好きに弄べばいい。それなら、心を強く保っていられる。体は好きにさせても、死ぬ時まで心は自分だけのものだ。それなら最期まで、俺は宮本明のままだ。
 はじめから全部そうであればよかった。それなら、きっとこんな気持ちにさせられることもなかった。こんな、自分が何なのかもわからなくなることも、得体の知れない感情に振り回されることもない。いつかの気持ちのままで、走れるかぎり遠くへ逃げて、仲間たちのところへ一目散に走って帰りたかった。たとえ帰れずとも、そういう気持ちでありたかった。
 木の幹に両手をつき、激しく咳き込んだ。頭がグラグラした。視界が回る。体のあちこちが痛み、まるで壊れたおもちゃのロボットのように関節が軋んで動かすのが難しかった。一人で、孤独で、無性に誰かが恋しかった。

「ちきしょう…」

 あんな家、跡形も無く消えてしまえ。

 それは後ろからだった。耳をつんざく咆哮が突然鼓膜を貫き、音の大きさに思わず体が前へよろめいた。
 音が消えた後も、なおもその耳障りな響きが耳に残った。耳を手で押さえ、目を瞬かせながら状況を認識すべく、混乱した頭でそれが何の音なのか自分の頭の中の記憶の引き出しを順に開けていく。この間わずかコンマ数秒のことだったが、振り向いて音の出所を確かめる前に、俺はその音の正体を探り当てていた。
 後ろを確認するよりも早く、体じゅうの血が一斉に降下する感覚が先だった。
 背後を振り向いた俺と、その先にいる邪鬼の視線があったのは一瞬だった。一瞬で俺は体の向きを変えて全力で駆け出した。

 邪鬼が吼えた。近距離で響いた金切り声は轟音だった。あまりの勢いに本能が死を覚悟して警報を鳴らしている。足を止めないまま、頭が急速にクリアになっていくのを感じた。
 逃げ切れるわけがないことは知っていた。逃げ切ろうとも思わない。過去に邪鬼と対峙したことは幾度もある。暗闇ではっきりとは見えなかったが、邪鬼は大きな頭部と長い手足を持つタイプで、おそらくこの島を訪れた際に初めて目にした型だ。おそらく雅があの家の周辺に放った邪鬼のうちの一匹だろう。血の匂いを追ってここまでやってきたのだ。
 背後から響く足音がものすごいスピードで迫ってくる。四つん這いで走るあの邪鬼の様子が頭の中で映像再生され、死を直感した。それと同時に、手に強く力を込め、傷口を覆う肩のシャツを破り捨てた。激痛が襲うが、体の悲鳴を無視してシャツを丸めて、素早く別方向へ放り投げた。
 すかさず、巨体が血の染み込んだシャツに飛びかかったのが見えた。それを横目で確認し、踵を返して来た方向へと駆け戻る。木の根が重なり合うほど木々が密集した地点を探し出し、見つけると膝をついて土が柔らかいところを探した。
 邪鬼はまだシャツを噛みちぎっている。あんなものは一分ももたない。四つん這いで、必死で犬のように両手で地面を掘った。冷えたかたい地面に指が痛んだ。構わず、掘った土を急いで肩の傷口にかぶせる。
 何度もしつこく、土をむき出しの傷口に塗り込むようにすると、今度は足に巻いた布の上から土を浴びせた。両手で足全体に土を揉み込んでいく。痛みをこらえながら、なんとか血のにおいを消そうと躍起になって手を動かした。邪鬼を見ると、シャツを噛んだ口の動きが止まっている。
 最後に、体じゅうを両手で土まみれにし、木々が密集して立つその下に、腹を下にしてうつ伏せの体勢になった。

 邪鬼が体を起こし、前傾気味に二本足で立ったのが見えた。

(こいつ、何メートルあるんだ。四、五メートルぐらいか?)

 血を吸ったシャツを飲み込む喉が、ゴクリと鳴った音が聞こえた。
 息を吸う音、歯がぶつかる音、瞬きをする音、自らが立てる音という音、すべてを消して、カタツムリにでもなったかのごとく、気配を消して土と同化しようと努めた。はたしてこれで血のにおいをまぎらわせたかどうか、自分では全くわからない。噛みちぎられた時の出血量が多く、血を嗅ぎすぎておそらく鼻がきかなくなっている。
 邪鬼が前足を地面に下ろした。ドンッ、と音が辺りに響き、衝撃で一瞬体が浮いた。声は一切出さなかった。
 邪鬼が周囲を見回し、見逃したはずの餌を探している。においを嗅いでいるのがわかった。ゆっくりと一度、目を閉じた。もう俺に出来ることは何もない。これで駄目だったとしたら、あとは、もうわかっている。
 巨大な体躯が地面を踏みしめ、木にぶつかりながら、俺の姿を探している。木にぶつかる度に、枝の葉がザワザワと音を立てた。今こそ、風が吹いてくれればいい、と願った。なんでもいいから、俺の呼吸音を消す音を出してくれ。
 あのおぞましい細く鋭い歯がカチカチと鳴っていた。体が凍ったみたいに動かない。指先一本たりとも、動かせない。化け物の鼻息が非常に近くから聞こえた。今この瞬間、刀を持っていないことが信じられなかった。震える手を握りしめて拳を作った。
 目を開けて、夜の暗闇を見つめた。夜は冷たく、湿り気を帯び、生臭い血の臭いがした。

 バッと顔を上げた。
 再び邪鬼と目が合った。予想した以上に近い距離に化け物がいた。獲物を仕留める直前の咆哮に鼓膜が破れそうになりながらも、先ほど耳にした、地面の下から聞こえたはずの足音が頭の中を繰り返し駆けていた。
 地面にくっついた俺の姿目がけて、邪鬼が長い腕を急速に伸ばした。回避する体力も、もはや残っていなかった。伸ばされた腕がスローモーションでこちらに向かってくるのを、ただ黙って見ていた。
 腕が俺の体の上を通り過ぎる。首を伸ばして目で追いかけると、大きな音を立て、邪鬼の伸びた手が木に激突して折れ曲がった。顔を正面に向けて邪鬼を見た。あるべき場所にあるものがなくなっている。
 切断面から黒い血がボトボトと地面に落ち、後ろに手をついてその場から後ずさった。遅れて、巨大な化け物の体が重力に従って崩れ落ちた。倒れると同時に大きな音があたりに響いた。
 見ると、サカナ顔の首が地面に落ちている。

「お前は、本当に思いがけない行動をする」

 声がした頭上を見上げた。
 ポケットに手を入れた雅がこちらを見下ろしていた。俺の体の横に立ち、土と血にまみれてドロドロになった体を眺めているようだった。

「あんたが…やったのか」
「ほかに誰がいる?」

 抑揚のない声で返され、のろのろとうなずいた。何が起こったのか、いまいち理解が追いつかない。邪鬼の近くに落ちていた鉄扇を、雅の白い手が拾い上げた。普段から着込んでいる黒い礼服姿で、隙がないぐらいに全体が整っていた。
 まだ立ち上がらない俺を振り返り、雅の手が「立て」という仕草をした。言われた通りに立とうとしたが、膝と手に力が入らず、再び土に膝をつけるハメになる。
 見下ろした自分の手足がぶるぶると震えていた。俺の体は、まだ自身が死んでいないことが信じられないらしい。
 悪戦苦闘していると、ピィ、と雅が指笛を吹いた。顔を上げ、上がりかけた悲鳴を飲み込んだ。枝がバキバキと折れる音がし、獣特有の息づかいが聞こえる。巨大な動物の気配が近づいてくる。
 夜の闇の中から出てきたのは、なまはげの顔を持つ巨大生物だ。

「み、雅…」

 震える声で雅を呼んだ。チワワ様と呼ばれるこの邪鬼を、男がペットとして可愛がっていることは知っていた。五重の塔で襲われた恐怖を体はまだ鮮明に覚えている。虎のような胴体を揺らしながら、主人である男のもとに歩き出てきた邪鬼は、何をして指示としたのかはわからないが、雅の前で犬がするように「伏せ」の姿勢をとった。
 先ほど地面の下から聞いたのはこの邪鬼が走ってくる足音であり、雅がここに現れた移動手段も、きっとこの邪鬼をまた乗り物がわりに使ったのだろう。
 振り向いた雅が言った。

「一人でいるとは思わなかったぞ」
「……」
「私の部下をどこにおいてきたんだ?」

 その言葉に目を見開いた。俺の表情の変化に、雅が首を傾けた。口元にうっすらと笑みを浮かべていた。

「…どちらがお前にとって必要か、理解できたのか」

 ガクガクと痙攣する膝にムチを打ち、麻痺した心臓のポンプを動かし立ち上がる。息を吐く舌が冷たく、肺が凍りかけているように呼吸がしづらかった。憎しみを抱く対象である、赤い目を見つめ返した。血の色をした瞳はこちらが思う以上に、凪いだ海のように穏やかだった。
 雅の近くへ、這いずるようにして近づいていった。口内の感覚がなく、自分の吐息がまるごと燃え盛る火のようだった。雅が吐く息も同じように白かった。
 腕を持ち上げれば男に触れられる距離まで近づいても、雅は動かなかった。ボロ雑巾みたいにくたびれた俺を、ただ見下ろしていた。

「お前の思い通りには、ならない」

 俺が言った言葉に、赤い瞳がのんびりと一度瞬きをする。

「お前が描く絵の中で、好きなように俺たちを動かしていると思ったら、大間違いだ。馬鹿野郎」

 言い終えて歯をむき出す俺に、少しの間をおいて、雅が声に出して笑った。腹から笑い声を上げている男を、渾身の力を込めて殴ってやりたかった。それができる距離にいた。白い顔が死ぬほど憎かった。
 それでも、今の俺には何もできない。刀もない、片腕も上がらない状態で、何もできやしない。こんなものは、奴にとっては猫が爪を立てているぐらいに小さなことだ。

「いいから、早く連れてけ…」

 助けてくれてありがとうなんてクソ喰らえだ。もともとがこの男が放った邪鬼に殺されかけたのだ。

 伏せの姿勢を崩さない邪鬼の背まで体を引きずり上げられ、跨がるように促される。震える手で邪鬼の体に触れたが、化け物は主人の命を待ち、何を考えているのかわからない様子で前方を見ていた。毛はかたく、チクチクしていた。
 馬に乗るのとはわけが違う。目線が高く、目眩がしそうだった。手足を動かしたくとも、体に力が入らずに化け物の背から落ちそうになる俺を、雅の手が強引に首根っこを掴んで座らせた。つかまる場所がないことに、ますます恐怖感が増す。
 当然のように男が俺の背後に座ったことに、驚いてとっさに手が出た。振り向きざまに伸ばした手をとられ、傷口がある方の肩を軽く押された。思わずうめき声をもらした。

「そんなことをしている場合か?」

 肩越しに男を睨みつける。すると互いの距離が思ったよりも近く、ぎょっとした。雅の胸が俺の背中に当たるぐらいの位置にある。緊張によって口がわなないた。頓着しない様子で、雅が口笛を吹いた。
 その口笛を合図に邪鬼が立ち上がった。大きな揺れに、背中から男の胸にぶつかった。雅の上半身が支えるようにして、俺の背中に重なった。

 邪魔な木々をなぎ倒しながら、俺と男を乗せた邪鬼は暗闇の中を走った。邪鬼はあの二人の居場所を知っているかのごとく、立ち止まる素振りを一切見せずに走り続けた。
 ひどい揺れに、力の入らない体が何度も宙に投げ出されそうになった。その度に、男の胸が背中に押しつけられ、横から伸びた腕が俺の体を囲うようにして押さえていた。そのことについて俺はわずかでも考えないように努めたが、胸板を通して届く男の心臓の音や、跨がる腿と腿が触れ合う感触を無視するのは、難しかった。
 真っ黒い風景が速いスピードで周りを通り過ぎていく。暗闇を走り抜ける距離は、俺が走ってきた時間を考えると非常に短かかったに違いない。それでも俺にはそれが一晩中に感じられるほどに長かった。とてつもなく、長い時間だった。

2016.11.20