※注意
・篤、斧神生存ルート
・篤、斧神ともに交戦済み設定
・明が吸血鬼軍に捕まって雅に飼われています(本土未上陸)
・蚊は本土にばら撒かれませんでした
・明の右手も健在
・師匠は邪鬼になっていません
・腐女子の妄想、捏造、何でも許せる方向け
※当話に関しての注意
・読んでいて不快感を感じた場合、すぐにブラウザバック推奨
・特定のキャラクターを貶める意図は一切ありません
・原作と同程度の肉体損傷の描写あり
・見る方によってはショッキングな展開かもしれませんが、ここまでの話と変わらずに読んでいただければ、ありがたいです
・もうここまできたんだからめんどくせェ!最後までつきあってやるよ!な心の広い方はぜひスクロールお願いします…!
失くしたはずの大切なものが見つかった時。好きなもののことを、誰かに話している時。小さくて自分よりも弱い生き物に触れた時。優しい気持ちになれた時。悪ではなく、自分が、自分の本質はきっと善であると、自分が思える瞬間。信じられる瞬間。
わっと空を埋め尽くす星の中にある。そこでなにかが光っている。自分が探しているものが、たしかにそこに存在する。
光り輝く星々の奥、一つの星屑さえも見当たらない、さびしい夜空のずっと底の方に、粉々に砕けて散らばったガラスが光っている。叩きつけて割れた破片がそこらじゅうにある。きれいで、長い間見続けていたら、どうしてだろうか、涙が出てくる。
ガラスをかき集めて形にする。不恰好なガラスの塊はあまりに小さく、空に放り投げると砂つぶみたいな点になった。それでも手のひらの血と涙を吸って屑は光った。孤独な夜空で、作り物の星屑は十字に輝いていた。
兄が振り下ろした刀の切っ先がその右肩に滑るように埋まった。果物を切るようだった。あっというまに刀の先が男の体の中に沈んで見えなくなった。
刀を握り締める兄の背中に力が入っていた。勢いを止めない刃先が右肩の肉と骨を断つ音がした。それをかき消すぐらいの絶叫が周囲に響き渡っていた。
「ガアアアア゛ア゛ア゛ア゛ア゛」
肩上から胸にかけての肉が二つに分かれ、その間から血が噴き出した。正面から刀を突き刺している兄貴に返り血がかかった。暗闇に血が黒かった。
「ア゛ア゛ア゛ア゛」
斧神が刀を抜こうと身を悶えさせ、刺さった刀身を反対の手で抜こうとした。兄貴がそうはさせなかった。断末魔の叫びが続いた。
抜けないことがわかると、斧神が拳を作り、刀身に拳を叩きつけた。四度目で刀身が折れた。兄貴が刀の柄から手を離した。折れた刀が地面に落ちた。
「グガッ、ガ、ガア゛ッ、ア゛」
体内に刺さったままの刃先を斧神の震える手が抜いた。切断面から血が泉のように噴き出した。その手が血まみれになっていた。
その様子を、少し離れた場所から兄が眺めていた。兄が見る前で、斧神が膝をついた。体が傾き、遅れて地面に片手をついた。兜がずり落ちた。山羊の頭が地面の上を転がった。
「メエ゛、エ゛ッ、エ゛、ェ゛」
分身たちが鳴きながら、痛みに身を震わせていた。斧神の体が原型をとどめられず、激しく震えていた。中心の大きく縦に割れた口からも大量の血を吐いた。地面に血だまりができていた。
頭が割れそうに痛かった。噛みちぎられた肩の痛みなど忘れていた。
藪をかき分けて走り出した。足元がおぼつかない。心臓が破裂しそうなほどにうるさく鳴っていた。事実破裂すると思った。
倒れた斧神のそばにもつれる足で駆け寄る。
「明」
制止する兄の手を押しのけ、地面に膝をついた。震える斧神の体に力の入らない手で触れた。
斧神は体の脇に左手を回し、切断面を上から強く押さえつけていた。手を離せば、肉体が分離してしまうのだ。息が荒く、伝達神経がおかしくなったかのように身体が鋼鉄化を繰り返していた。
「斧神…斧神……」
呼ぶ声が情けないほど震えた。
頭がガンガンと内側から叩かれているみたいだった。斧神の背中に両手で触った。吸血鬼の血に塗れた体だという考えは、頭から吹っ飛んでいた。
俺の声に、斧神の切られた方の肩が動いた。傷口から血がこぼれた。
「動くな」
叫んだ。うつ伏せに倒れた姿勢を起こそうと、男が構わずに身をよじった。分身たちが悲痛な泣き声をあげた。聞く側の心が軋むような、痛々しい声だった。
伸びてきた大きな手が、俺の手を下から握った。温かかった。その手を握り返したつもりが、指にろくに力が入らなかった。
「斧神…」
自分の声がかすれた。鼻の奥が痛んだ。視界がぼやけ、男の姿が見えづらくなった。目をこすることができずに、涙の溜まったまま、男を見下ろした。
傷が深すぎる。暗闇で判別がしがたいとか、そういう次元の話ではなかった。兄の刀が肉を断ち、この男の上半身をほぼ真っ二つに割った。人間であれば、もう死んでいるだろう。吸血鬼であれば、或いは……
或いは……?
中心に埋まる大きな目が俺を見つめ返した。夜の闇の中で、自身の血を浴びた目玉は、ヌラヌラと白く不気味な光を放っていた。
その目で見られるといつも息が詰まる。胸が苦しくなり、自分の内側を見透かされたような気になって、呼吸がしづらくなった。知らずうちに心臓の鼓動が早くなって、うるさいぐらいに高鳴った。それが嫌いじゃなかった。
斧神が数秒、大きな目を閉じた。何かを思い出そうとしている様子で、次に目を開けた時には、いつも家を訪れる時の目をしていた。
「キンモクセイ……」
斧神の言葉に、男の手を両手で強く握りしめた。男の手にひたいを当てて俯いた。堪えきれずに口から嗚咽が出た。
この男の悲鳴を聞いただけで、こんなにも胸が潰れそうに痛む。
「死ぬな」
斧神。
その言葉を口にすると同時に、涙がこぼれ落ちた。まぎれもない本心だった。
友だちで、親友で、好敵手で、雅の右腕で、兄貴の親友で、じゃあ俺たちの今はなんだっていうんだろう。この感情を、一体なんだって言い表したらいいんだろう。
本当は、本当はこんなはずじゃなかった。一体何をどこで間違えた。こんなはずではなかった。自分の考えたシナリオは、手から書き出した物語は、もっと単純な話だったはずだ。
雅が斧神ほどあまくはない男であることを嫌という程思い知っていたからこそ、次はどこを切り落とされるのかを考えれば、両足の傷が治った後も正攻法で逃げ出すのはもはや難しかった。逃げきれなければ、きっと雅は予告通りに、俺の腕ぐらいは躊躇わずに落としただろう。それに、どこへ何度逃げ出そうとも、俺の足では斧神に捕まることをその頃にはとうに学習していた。
季節が春から夏へ、梅雨から初夏へと移っていく間、ただただ胸の中では、残してきた自分が守ってきた人々のことが気になった。仲間や、師の影が頭から離れずに、誰もいない家の中で一人、もどかしさにかられた。感染させられていないことがよけいに焦燥感を強くした。感染させた途端に、俺が自分から命を絶つだろうことを、あの男は見抜いているに違いなかった。しかし、それならどうして早くに殺してしまわないのか、それだけがわからなかった。
正攻法では逃げられない。家を訪れるのは俺の世話を言いつけられた宿敵の右腕のみ。それ以外は、人も吸血鬼も寄りつかない集落で、家の内も外もいつも二人きりだった。
親友だと思っていた。今も、そう思っている。
一緒にいると、慕わしくて、目があっただけで自然と笑いがこみ上げてくる。時には刃を向けあい、時には共に戦い、時にはお互いを守りあった。意図したわけではないのに、時間をかけて培ってきた結果、いつのまにか互いのことが頭の隅にある。名前を忘れることができなくなっている。
二人きりでいる時、ちょっとしたことで流れる、親しい雰囲気。隣に座っているだけのことが、なんだか妙に楽しくて、今いる場所がとても居心地のいい空間に思えてくる瞬間。その時だけは、突きつけられている現実を忘れ、嫌なことや、不都合な事実に蓋をする。いつまでも止まっていたいと思える時間。自分だけではない。相手も同じふうに思っているからこそ、わかるのだ。最初はできなかった。出会ったばかりの頃には、想像もつかなかった。
その感情が本当ではないとは絶対に言えない。嘘にはできない。
聞こえた言葉に顔を上げた。
邪鬼から降り立った雅が、落ち着いた足取りでこちらへと歩いてきた。深い闇に、能面のような白い顔と、白髪が浮かび上がり、その静かな落ち着きようがこの状況と合わせてどこか現実味がなかった。
斧神の手をきつく握り、目の前に立った雅を見上げた。空気が冷え切っており、自分の唇が痛いほどに冷たく、乾燥していた。
「お前は勝っていた」
雅が言った。仰向けで横たわる斧神を見つめていた。斧神の、頭部の中心に埋まる目が、ゆっくりと瞬きをした。その動きが雅の言葉への肯定になったようだった。
雅が顔を上げた。俺の隣に立つ兄貴を見ているのがわかった。兄貴がどんな反応を返したのかはわからない。雅が黙って、緩く二、三度首を振った。
再び、赤い瞳が斧神を見下ろした。
「お前は戦いを放棄した」
雅が言った。責めるような言葉にも聞き取れるのに、冷たい響きにはならなかった。
雅がポケットに手を入れた。離れた場所で待つ邪鬼の獣のような息づかいが、湖の底みたく静まり返った木々の下で、生き物の気配を感じさせていた。
斧神の口から咳に似た声が出た。笑ったようだった。
「申し訳ありません」
斧神が言った。大きな目が、細められ、雅の顔を見上げていた。
「このような姿勢で、失礼を」
斧神が続けて言った言葉に、雅がポケットから出した両手を体の横で広げてみせた。初めて見る仕草で、いやに人間らしく、親しみのこもった動きだった。
腕を組んだ雅を見上げた。ちょうど雅が俺を見たところだった。目が合い、視線が離れなかった。
「構わん」
雅が俺を見つめたまま、斧神に向けて言った。俺は何も言わなかった。泣き濡れた顔を拭えず、ひたすらに相手の眼を見つめ続けていた。睨みつける気力も、残ってはいない。倒れた男の手を握ることしかできない。
雅が俺の名前を呼んだ。
「宮本明」
隣に立つ兄貴の足がわずかに動き、土を踏みしめる音がした。
「この男を助けたいか」
雅が言った。
赤く煌めく瞳から目を離すことができず、瞬きすらもできなかった。雅の問いかけが、頭の中でうまく認識ができずに、しばらく質問の意味がわからなかった。
「……どういう意味だ」
寒さのせいで、頭から指の先まで絶え間なくかすかな震えを起こしていた。その時になって、ようやく上半身は裸でいることを思い出した。噛まれた傷口は、もう今は熱はなく、ただ重み以外の感覚を感じないだけであった。
「どうもない。私がお前に聞いているのだ」
白い指先が組んだ腕の肘を這った。細く、長い指だった。男自身と同じくらい温度のない手に見えた。
「もたんだろうが」
傷を一瞥し、雅が言った。胸が締めつけられる心地がした。今のは、兄に向けられた言葉だ。
隣に立つ兄貴の表情は見えない。兄貴は黙っていた。その沈黙が怖かった。
斧神は、今はもう全ての眼を閉じて、縦に割れた口から笛のような音をもらすばかりとなっていた。ぶ厚い胸が呼吸に合わせ、ゆっくりと上下に動き、それでも、手だけはしっかりと離れずに握り返されていた。温かいし、まだ生きている。
生きている。
強固な壁に傷をつける、ただ一つの石が投げられればよかった。情に絆される男ではない以上、何をやっても無駄であることはわかっていたし、そこに関してはこの男を従わせることなどきっと誰にもできやしないということも知っていた。知っていて、手にした石を投げた。出来ることをすべてやり尽くした上での、ある種開き直りのようなものもあったかもしれない。
単純で、馬鹿馬鹿しいシナリオだ。考え出した時でさえ悪手にしかならないことがわかっていた。それでもよかった。
色仕掛けとも呼べない、唇をくっつけるだけの色気のないキスが、あんなに自分の中で大きな意味を持ってしまったのは、あれが本当のことから出た行動だったからだ。嘘偽りなく、本当の気持ちから出た行為だったから、そもそものやり方が間違っていることに気がつかなかった。
気がつかないまま、体温を分け合い、粘膜を触れ合わせた。それが気持ちよかったから。
(「お前だけだ」)
気持ちがよかった。一緒にいるのも、口づけられるのも、交わるのも、全部が。
斧神という男が好きだった。心の底から、好きだった。
敵であり、親友である男をたらしこむことができるのかどうか。自分自身が考え出したクソみたいなシナリオが、結局のところ自分の首を絞めた。自業自得でしかなかった。
「俺にどうしろと?」
雅の顔を見上げた。
握った手が俺の手を弱く引いたことに気づいたが、仇の顔を見つめ続けた。呼吸に合わせ、口から冷たい息がこぼれた。血が通っていないみたいに全身が凍えていた。
雅の穏やかな表情が、見ている目の前で、徐々に歪んでいき、モナリザの微笑に変わった。反対に俺は口を結んだ。
「私と約束をしようじゃないか。明」
雅が言った。
腰を屈め、斧神の体を間に挟んで、雅が俺と目線を合わせた。二つの真っ赤な眼が、どの吸血鬼からも見たことのない、妖しい光りを発していた。
下の歯列を舌でなぞった。口の中がカラカラに乾いていた。視線が絡み合い、互いの顔を突き合わせている距離は、ほぼないに等しかった。
握りしめる大きな手が、また俺の手を引いた。
「なんの約束だ」
俺の質問に、一瞬、雅の口が耳のあたりまで大きく裂けた。夜目にもその口の中が赤く濡れていることがわかった。
白い手がサッと伸びてきて、正面から俺の首を掴んだ。強い力ではなく、ほぼ添えているだけに近かった。
「この男を救うかわりにお前が吸血鬼になるのだ」
囁く声が悪魔のようだ。
「屋敷に連れ帰れば、この男はまた動けるようになる」
爪が皮膚に食い込み、指先が首筋の血管を探していた。鋭い爪があごの下をかすると、うなじから背中にかけての肌が粟立った。
雅の息が俺の唇にかかった。
「このままだといずれ息絶える」
そこらじゅうに血のにおいが濃く漂っていた。流れ出した血が多すぎて、土が吸いきれなかった血が地面の上で固まっていた。
男の言葉が、頭の中で繰り返し、繰り返し何度も再生された。
「なら、なぜ最初からそうしなかった」
俺が呟いた。
喉を掴まれたまま喋ると、声が変に響いた。
「どうしてここまで待った」
腹の底から声を絞り出した。
傷を癒し、家を与え、いくつもの季節を越した。男にとっては意味のないだろう時間を見送った。感染させる機会など、それこそはじめからいくらでもあった。
互いの目を覗きこみ、そこにあるものを見出そうとしていた。
命を握られている状況は意識の外にあった。どのみち最初から、自分の命は目の前の男に握られているも同然だった。あの家に閉じ込められた時から。敗北した、その瞬間から。
雅が歯を鳴らし、ほとんど笑みを浮かべかけた。
「お前は扱いが難しい」
雅が言った。
「篤と似ていた。すぐに感染させても、役には立たんかった」
「……」
「だからお前に斧神を与えた」
目が瞬きを忘れ、目の前の男を凝視した。
赤い瞳が可笑しそうに揺れた。
「私の予想していた通りに事が運んだ」
口を開けた。
言葉が出てこなかった。喉が震えていた。
雅の指が首の皮膚を柔らかい触れ方でなぞった。男が満足げにため息をついた。
「篤がお前を欲しがっていたので、好きにさせた」
首の血管を探り当てた指が、浮き出た血管をコリ、と押し潰した。氷を当てられているみたいに、触られている部分が冷たい。
「この男は最後まで私の指示に従った」
まあやり遂げることは難しかったが、と呟き、雅が斧神を一瞥した。
「おまえは……」
出した声が自身の声ではないみたいだった。
斧神の手を握る自分の指が小刻みに震えていた。思うように身体を動かせず、うまく息をすることができずにいた。
喉を掴む雅の手に力が入った。鼻先に笑顔があった。
「お前が手に入るならば、何でも使う」
耳元で雅が囁いた。
「私は気が長いのだ」
とうとう耐えきれずに、声が出た。雅が声をあげて笑った。死にかけの友の手を握った手の甲にぬるい雫がぶつかった。雨だと思ったが、自分が泣いているだけだった。足元から地面が崩れていくようだった。
感情を殺して、蓋をする。それだけのことがなぜこんなにも難しいのだろう。どうして俺は、自分の決めたように進めないのだろう。
星のない夜だった。あの夜に戻れたらと、何度時間をさかのぼったか。数えきれないほど願った。もし戻れたら、もうあんなことはしないと誓おう。馬鹿なことも考えない。あるものは、あるがままにおいておく。自然な形でいい。そばにいようなんて考えない。大事な友だちであることに変わりなければ、それだけでもう、いい。
自分が決めたことを、自分が決めた通りに、信じてやり抜いてきた。その選択が間違いではなかったとは言いきれないし、言いきるには、いろんなものを失いすぎた。手からこぼれ落ちていく様々なものを、見過ぎてきた。
自分勝手で、恥ずかしい弱い心が、いつも見透かされているようで怖かった。一緒にいると、自分の汚いところが隠しきれずに出てきてしまう。嫌な臭いのする液状のものが、互いの間ににじみ出て、大きな手のひらを指先から徐々に汚していく。嫌だった。そんなものは見たくもなかった。
過ごす時間が長くなればなるほど、自分が犠牲にしてきたものを思い出した。自分が捨ててきたもの。持っていけなかったもの。本当は、一生でも持っていなければならなかったもの。捨てたものは二度と戻ってこないと思っていたし、それでもいいと思っていた。そうでも思わなければやっていけなかった。大切なものをゴミみたいに捨ててきた自分を、誰でもない自分が正当化してやらなければ……
(「…物好きな奴だ」)
現実から顔を背け、あがき、すがりついたのはたしかだ。しかし、考えは嘘でも、感情だけはごまかせなかった。偽りなのに、口から出た言葉は本当だった。本当であることが、あいつにはわかっていた。
空にほうり投げた星屑が偽物でも本物でも、それはまぎれもなく輝いて俺たちの間で光っていた。光は幻でも夢でもなかった。いつしかそばにいて、それはたしかにそこに存在していた。
自分が捨ててきたはずのものがそこにはあった。何一つ戻ってこないと思っていた。
(「俺には、お前をもらってやれん」)
でも、愛だけは別だった。
なぜあの時、それでもいいと言えなかったんだろう。あんなに綺麗な朝を、俺は見たことがなかったのに。
「好きにしろ」
首を絞められようが、爪が皮膚を突き破ろうが、斧神の手を離さなかった。どんなに怖くとも、目を逸らしてはいけなかった。両目と両目が、対となって向き合い、互いの赤と黒が瞳の中で混じり合った。
「お前の好きなようにしてくれ」
煌めく瞳を見つめながら、自分の中でしぶとく灯りをともし続けてきた、最後の火が燃え尽きるのを感じていた。どんな時も燃やし続けてきた、小さな火だった。
首を絞める手を緩めずに、雅の目が糸のように細められた。心を覗かれているのがわかった。されるがままにした。
夜はどこまでも果てしなく、暗く、黒々と重たかった。
「わかっているな」
雅が言った。俺は頷いた。涙のあとが頰の動きを固めていた。
「こいつがまともに喋れるようになれば、約束は守る」
もうなんの怯えも、恐れもいらなかった。
胸の中がスカスカで、冷たく、石を飲み込んだみたいに腹の底が重たかった。全身が脱力感に包まれているのに、声だけは言葉を形成した。
雅が俺を見つめた。しばらくすると、首を絞める手の力が緩み、何も言わずに離れていった。首から血が出ていることがわかった。
「はやく助けてくれ」
記憶が頭の中で散り散りになりかけていた。自分という存在が、端から勝手にばらばらになっていきそうだった。
握る斧神の手に自身の十本の指をきつく絡めた。指と指の間の温度を知るのが、たまらなく怖かった。その手は握り返してこなかった。
「俺の負けだ」
雅が指笛を吹いた。
兄貴も、こんな気持ちになっただろうか。なったかもしれない。俺にはもう、どちらでも構わない。あんたが俺のことを考えて、想って、ずっと見てきたことがわかるから、俺もわかるよ。わかる気がしているだけかもしれない。それでも、あんたのことを責めたりはしない。
自己犠牲でも何でもない。誰でもない自分自身がそうするべきだと思った。そうすべきだと思って、勝手にやったことだ。全部自分で決めたことだ。強制されたわけでも、押しつけられた答えでもない。
指の間を水のようにすべり落ちていく砂の名前が責任だとすれば、俺はまさに今それを放棄しようとしているのかもしれない。とにかくもう、腕も、足も、うまく持ち上げられない。くたびれて、疲れきった体が、一歩も動くことを拒む。帰りたいという、ただその一心で切り立った険しく細い道を歩き続けてきたが、どれだけ歩き続けても、自分一人の力ではもとの場所に戻ることはできなかった。
たった一人の存在が暗闇を照らす松明だった。誰もいない孤独な闇を照らし、足元を照らす光となった。それがあったから真っ暗闇の中に居なくて済んだ。崖の下へと、落ちなくて済んだ。
屋敷に到着すると、すぐに斧神の体を吸血鬼達が屋敷内に運び込んだ。右腕と呼ばれた男のひどく損傷を受けた体に、編笠姿の男達の間に動揺が広がっていた。邪鬼の背中から降り立った俺の姿を、他の吸血鬼達は遠巻きにして見ていた。武器も持たずにいる俺に、奴らは何もしてこなかった。
連れて行かれる斧神の後ろをついて行った。兜で素顔を隠しなおしていたので、動かない男に意識があるかないかはわからなかった。雅と兄貴はそれぞれどこかに姿を消してしまった。構わず、薄暗い屋敷の中を斧神の姿を追って歩いた。後ろをついてくる俺のことを、吸血鬼達は振り返って確認もしなかった。気にしている暇はないといった様子で皆急ぎ足で廊下を進んだ。
マスクや手袋を身につけた白衣姿の吸血鬼数人が、手術台の上にのせられた斧神の体を調べた。俺は他の吸血鬼達と一緒くたに部屋を追い出され、部屋の前で立ち尽くした。斧神を運んだ吸血鬼達は、まるで亡霊でも見たかのような目をして俺を見た後、屋敷のどこかへと去っていった。
手術が行われる間、廊下の端に座り込んで、部屋の入り口を見つめていた。どこの窓も閉め切られ、空気が流れずによどみ、柱がある場所に間隔をあけて置かれた松明がパチパチと音を立てて燃え盛っていた。
誰もこなかったし、一人の吸血鬼も通らなかった。天井が高く、廊下は縦にも横にも広かった。部屋の中で何かが行われている音はしていたが、自分が座っている場所は静かだった。
屋敷に着いた時はまだ真夜中だった。待っていても、どのぐらい時間が経っているのかがわからず、また知ろうとも思わなかった。曇り空のせいで月も星も見えなかった。
何度か気を失うようにして眠りについた。目を覚ましても、部屋の扉は開いていなかった。何も考えずに、ただ同じ姿勢で動かずにいた。
体内の感覚で、夜明けが近いことを感じとり、閉め切られた窓の方を見た。雨戸まで閉められているのか、一筋の光も入ってこなかった。屋敷じゅうで動くものの気配を感じていた。
完全に夜が明けた頃に、雅がやってきた。聞こえた足音に顔を上げた。
壁を背にして座り込む俺の姿をまず見下ろし、次に部屋の方に目を向けた。閉じた扉を眺める、白い横顔からは感情を読みとることが難しかった。
「そろそろ終わる」
雅が言った。男の横顔を見つめた。
「……本当に?」
俺が尋ねた。しわがれた声だった。
雅が頷いた。松明の揺れる火に照らされ、白い顔がオレンジ色の明かりに染まっていた。
「本当に」
雅が言った。
2016.12.18