ああ、また夢だ、と思う。思いながら死んだ兄の背中を追っている。二人で雪山をのぼっている。視線の先に、深い雪を踏みしめる分解寸前の兄の靴が見える。
さらに首の角度を変えたら、遠くにオレンジ色の光がぽつりと見える。降る雪のなかにまぎれて、一本だけ立つ道路灯のようなあたたかさで、光が見える。
そこに師がいることを俺は知っている。俺たちのために火をかかげて立っている。師が待ってくれていると思うと、ほっとする。そして、急に自分の脚の疲労を自覚する。
兄に話しかけようと開けた口に、雪がいくつも入ってきた。温度がない。
「兄貴、雪が…」
そう口にした自分の声で、目を覚ました。期待から引き剥がされるようにして夢の余韻から戻ってくると、火に照らされた顔がこちらを見ている。
鮫島はなんともいえない表情で、すぐに火へ目を戻したが、しばらくなにも言わずにたき火をかき混ぜていた。その顔が誰かと重なる。
まだ口のなかに雪の冷たさが残っているような気がした。しかし、実際には冷やいも熱いも感じなかったのだから、それはこれまでに現実で覚えた雪の冷たさを、夢のなかで自身が再現しただけの名残だ。
「…雪がどうしたって?」
鮫島が言った。問いかける声は小さかった。以前に喉を潰されたことのあるようなこの男のがらがら声には、似つかわしくない。
火は勢いよく燃えている。それを中心にして各々好きな場所で眠る仲間たちの体を、赤と黄色の光が舐めては影を動かす。ドームの方まで光は届かない。あちこちが崩れ落ち破壊され尽くした建物は、今日の熱狂が嘘のように静まりかえっている。
上からこの明かりを見下ろしている、男の死体を思った。
火のまぶしさによって、自分たちの周囲がより一層深い闇に包まれているように感じられた。
「べつに…」
上体を起こし、硬いコンクリの上であぐらをかいた。仲間の視線を頬に感じる。
遠くを見る。瓦礫の向こうで空と地上が闇で繋がり、そのどこが境目なのかもわからなかった。今ではどのビルにも明かりは灯らない。暗い夜の底にいるのは、自分たちだけ。
「…」
火が小さく爆ぜる音がした。通りの向こう側からやってきた生あたたかい風が、髪をなぶった。ツンとした、汚水の乾いたにおいが鼻をついた。
鮫島の視線がそれたのがわかった。
「火なら見てるから、休んでくれや。悪い夢なら、起こしてやるから」
鮫島が言った。その言葉が、記憶の底に沈みかけていた壊れかけの靴を浮かび上がらせた。
「明」
自分でも驚くほど強い反応が、鼻の奥を襲った。その気の流れのようなものの変化に、鮫島も気づいた。
なにかを言われる前に立ち上がった。
「ちょっと歩いてくる」
男へ背を向けたまま、首を通りのほうへと軽く傾けた。顔を見られたくなかった。
鮫島が思っていることが伝わってくる。
「近くにいる」
じぶんが続けた言葉が、よけいに互いのあいだに見えない壁を作った。きっとなにを言っても、ぎこちない響きになったにちがいない。
火のなかの枝がパチパチと鳴った。
自分の影が目の前の舗道へと長く伸びている。
「…あんまり、遠くへ行っちまうなよ」
月はない。
目をあげて、歩きながら空を見た。暗く重たい闇がこっちを見ている。
(おれのまわりには、やさしい兄貴ばかりが集まる)
ちぎれた涙で濡れた頬は歩くうちに乾いていくが、眼球の奥が湿る感じはずっと消えなかった。早足でビルとビルのあいだを通り抜け、倒れた自動販売機の取り出し口からコーラの缶を見つけた。
うつむき加減に前を行く、吹雪にかき消されそうな兄の背中。どこまで進んでも、あの背中が道の先で待っている。
瓦礫の隙間に挟まって死んでいる吸血鬼の死体のポケットから、ライターを抜きとった。まだけっこう残っている。
「…弟は損だよ」
つぶやきはぽたりと路面に落ちた。
離れた場所から火の明るさを眺めつつ、その場に座った。仲間の大きな後ろ姿を視界に入れていると、気持ちが落ち着いていくと同時に、むしょうにわけのわからぬなつかしさを感じた。胸の骨のあたりを隙間風が通るような、さびしさと恋しさがいりまじったそれが、また目と鼻の奥をやわらかく刺した。
火の赤がにじみ、暖色のモザイクが視界を埋める。
(これがもう、だれを失った涙なのかが、おれにはわからん)
笑いかけた口が歪み、泣き笑いのような表情になった。ぽたぽたとあふれ落ちる涙が、ひろった缶を握りしめる左手に温い。自分で飲むつもりもないアルミの缶に、体温がうつる。
「ううー…」
あの山の向こうで、迎えに来てくれるのは、だれだろう。
2020.6.17
もう誰もうしないたくない。誰にもはなれていってほしくない。